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岡山市長メールマガジン「伝説のおかやまの挑戦」(47)5月19日号

[2015年5月26日]

ID:25322

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吉備の繁栄

こんにちは。岡山市長の大森です。

皆さんは古代吉備の歴史をご存知ですか。私は先日、関裕二さんの「古代史で読み解く桃太郎伝説の謎」という本を読みましたが、なかなか示唆に富んだ内容の作品でした。


大まかな内容をご紹介すると、

  • 4世紀から5世紀の前半にかけて、瀬戸内海の海上貿易を押えた「吉備」は大いに栄え、ヤマト建国にも尽力した。
  • ヤマトの国は、当初、多くの地域からなる首長国連邦のような形態をとっており、「吉備」はその中で最も力と富を蓄えていた地域であった。
  • 当時、ヤマト政権は物部氏が実質的に支配し、その故地は吉備であった。だが『日本書紀』は、藤原氏の正義を主張するものだから、蘇我、物部の活躍のくだりは抹殺され、「吉備」の国についての言及がない。

私には、こうした記述の真偽はわかりませんが、かつて目にした造山古墳(我が国4位、天皇陵を除けば最大の規模を誇る前方後円墳)の壮大さや、その陪塚である千足古墳の石室内の石障や壁に天草、讃岐から取り寄せられた石材が使われているという事実と照らし合わせても、この時代に瀬戸内海の一帯を押えた相当な勢力がいたことは間違いなく、歴史の闇に消されてしまったとしたら本当に残念なことです。


なお、この作品では、桃太郎伝説の元となった吉備津彦命についての考察もなされており、

  • 『日本書紀』によると、吉備津彦命はヤマトから派遣され、出雲を成敗したとされているが、実際は「吉備」の人間である。だが、その実在性は確かなものではない。
  • ただし、その後も繁栄を続けた藤原氏によって物部氏のふるさとである「吉備」の存在は歴史の闇に葬られ、その藤原氏によって構築された歴史観は打破し難いものであった。したがって、吉備の人々が「吉備津彦命」という「偶像」を逆利用して温羅を退治したという説話にすり替えることで「吉備」の英雄を讃え続けた。

とされています。


これも真偽の程は定かではありませんが、こうした歴史に思いを馳せながら吉備津神社などを探索されるのもまた一興です。
そろそろ、あじさいの花が綺麗に咲く季節。皆さんも吉備路を巡ってみてはいかがでしょうか。

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