ノートルダム清心女子大学3年 A.M
『犬と友達』に登場するサブという犬は、いなくなった飼い主が以前いた場所をよく覚えていて、そこに八郎たちを連れていく。私は作品を読んで、昔実家で飼っていた犬のことを思い出した。その犬は私の叔父によく懐いていて、結婚して家を出た叔父がたまに実家に戻って来るたび跳びはねて喜んでいた。叔父の声や足音、運転する車の音でさえ聞き分けて吠えるのである。犬は人が考えている以上に多くのことを記憶しているし、何より人のことを想っている。
サブは自身の飼い主を想う八郎たちの心を感じ取って、飼い主のもとへ案内しようとしたのではないか。本作品のタイトルは『犬と友達』である。これは単にサブと八郎の友達の三郎を指しているだけではなく、サブと八郎たちが交流を通じて友達になった、という意味も含んでいるのではないかと考えた。
ノートルダム清心女子大学 3年 T.K
「カシのみ」と「リス」の関係に感動した。『もりに花がさきました。』『リスはカシの木のやくそくをおもいだしました。』このように春の訪れを全く同じ表現で繰り返し使用しているように彼らの関係は変わっていないように感じる。しかし、『このカシの木ぼくのカシの木なんだよ。』『そうです。そうです。』この最後のセリフを読むと「食べられる存在」と「食べる存在」の関係は年月をかけて変化したように感じた。
この話を読んで今は無い地元の梅の木を思い出した。母が子供の頃からずっとそこに立っていて何十年も私たちの成長を見守ってくれていた。中学2年生の頃その木が切り倒されることを聞いた時には何故か寂しい気持ちになった。当たり前の関係や存在は特別なのだと思い出した。
ノートルダム清心女子大学3年 H.C
「善太と三平」を読んで、幼い頃の記憶が鮮やかに思い起こされた。
作品内には田圃や松の木などの自然豊かな風景や、生き物に出会ったときの高揚感、神秘的で不思議な様子が、子供の視点から生き生きと描かれている。その描写はかつて自分が幼いころに体験した感覚と重なる部分が多く、印象深く感じた。
かつて、私の田舎の家には大きな杉があり、根元には小さな祠のようなものがあった。私は子供ながらにそこには神秘的な雰囲気が感じられ、少し怖いと思いながらも三平のように引き寄せられて手を合わせたくなるような不思議な気持ちになっていたことを思い出した。
今では田圃などの身近な自然が失われつつあり、昔よりも自然に触れ合うことができる機会が減りつつあると感じる。この作品を読んで、自然に触れ合う懐かしさを思い出すとともに身近な自然が失われつつある寂しさが強く心に残った。
ノートルダム清心女子大学 3年 N.F
「タコと小鳥」を読んで、昔の子どもたちの暮らしや遊びがとても生き生きと描かれていると感じた。この作品では山や川、海といった自然環境そのものが子どもたちの興味や価値観を形作っている。地域によって手に入るものが異なり、それが子どもたちの交流や交換という遊びにつながっていたのが印象的だった。今のようにゲームやスマートフォンがない時代だからこそ、子どもたちは自然の中にあるものを宝物のように感じていたのだと思う。
さらに、この作品には作者自身の幼少期の思い出が語られているため、当時の生活文化や教育環境の記録としての側面もあると感じた。例えば、高等小学校へ通うために長い距離を歩かなければならなかったことや、雨の日には裸足で通学していたことなどから、現在とは大きく異なる時代背景が伝わってくる。便利なものが少ない一方で、子どもたちは限られた環境の中で工夫しながら楽しみを見つけていたのだと思う。また、友達同士のやり取りから、子どもの好奇心や欲しいものへの強い気持ちは今も昔も変わらないのだと思った。
ノートルダム清心女子大学 2年 A.M
このお話が複数の戦争を体験した坪田譲治が書いた戦争にまつわる作品であることを読む前に知っていたため、児童文学でありながらどのように戦争に結び付けるのだろう、と思っていた。読んでみると、正太のお父さんがぎりぎりの状況で生き延びて帰ってくるまでのお話は辛い体験であるが、お話全体ではただ辛いで終わらないで、自分の国や家族、戦争のない暮らしを大切にしたいというあたたかい気持ちを感じた。
また、悲惨な状態ばかりを描くのではなく、寂しい、辛い思いをしたことを忘れないため、戦争の終わった今を大切に思うために貝を持って帰ってきたというお話にすることで、小さな子どもたちにも、さらにこの作品が書かれたあとの時代の子どもたちにも戦争のない世界の大切さが理解しやすく、まっすぐに届く作品となっているように感じた。
ノートルダム清心女子大学 2年 О.A
「五人で分ける」のではなく、「あえて川の中に落として観察する」という構図が教訓らしさを強調していると感じました。魚たちがひとつのビスケットに群がり、奪い合い、全てを自分のものにしようとした結果、流されていることに気付かず、滝の中に流れていってしまったものをただ見つめることしかできない。
「はやくたべろ。すぐもうひぐちの、たきのなかへおちてしまうぞ。」という子どものセリフは当事者ではなく、外部から客観的に見た時にしか生まれないものだと思います。自分のことに夢中になって周辺のことが見えていない、その結果自分が利益を得ることができなくなってしまう。だから自分本位で動いてはいけない。それがこの作品が伝えたい教訓であると同時に、子どもたちに社会の現実を突きつけているのではないかと思います。
ビスケットは「些細な利益」を象徴し、外部から見ればなんてことのないものである。それでも、当事者たちは自らのものにしようと平気で他人から奪っていく。そしてなんとか手に入れた利益もまた別の誰かに奪われてしまい、結局自分には何も残らない。そんな大多数が損をする競争社会がこの「小さな川」に集約されていると思います。
ノートルダム清心女子大学 2年 О.M
りんごの木を貰ったことが本当に嬉しかったのだろう。りんごの木の周りをくるくるしている様子から、子どもらしさを感じられて印象に残っている。動作からわくわく・うきうきしている純粋な気持ちが伝わってきた。
このままりんごの木が大きくなってりんごが食べられると思いきや、りんごを食べられたかは分からないというファンタジーのような結末。読んでいて不思議な気持ちになったが、その結末を読者に想像させるという点がおもしろいと感じた。
この作品では、子どもならではの高揚感を感じられる。一方で、りんごが本当にその場にあったのか、夢または幻想であったのかどうかを想像できる。このことも、この作品のおもしろさの一つなのではないかと思った。
ノートルダム清心女子大学 2年 K.S
「岩のはなし」を読んで、私は岩とけしの花の会話の場面が特に印象に残った。主人公は、長い年月を変わらず存在し続ける岩に強く惹かれていたのだと思う。だから岩を、ただの石ではなく、昔から人間の世界を見続けてきた、特別な存在として描いたのではないかと感じた。
一方で、けしの花は短い命を生きる存在として描かれている。けしの花が岩に感心しながら話を聞いている姿には、自分とは違う大きな存在を、素直に受け入れる気持ちが表れているように思った。また主人公自身も、変わっていく人間として、けしの花の気持ちに共感していたのではないだろうか。
しかし私自身は、どちらかというと岩の感覚に近いように思う。もちろん私も人間であり、同じように限りある命を生きている。それでも、人間という存在を少し離れたところから見てしまう感覚がある。人間は、生まれてから成長し、価値観や感情を次々と変化させながら生きている。そして時には争ったり傷つけ合ったりする。その姿を見ると、「人間はいったい何をしているのだろう」と不思議に思うことがある。
岩が「人間の世界は面白いぞう」と語ったように、人間は奇妙で滑稽で、それでも愛おしいものである。
ノートルダム清心女子大学 2年 K.S
この作品は、自然の大切さと思いやりを感じられるお話だった。
三平は、善太が捕まえてきた小鳥を見た時、以前みんなで蛇から助けた巣の小鳥のことを思い出している場面があった。三平にとってその小鳥は、ただの「鳥」ではなく、自分たちが守った命として特別な存在になっていたのだと思う。私はここから、人は思い入れができた存在ほど大切にしようとするという、人間らしさを感じた。
また、三平が善太に「かわいそうだから返そう」と、直接言わなかったところに優しさを感じた。もしそう言えば、善太はせっかく捕まえた小鳥を否定されたように感じたかもしれない。そこで三平は、自分のナイフと交換する形で小鳥を自分のものにした。私は、この行動に三平の思いやりを感じた。
小鳥を三平と友達で、自然に返す最後の場面は、子どもたちが楽しそうでほっこりした。
ノートルダム清心女子大学 2年 H.D
一人両親の帰りを待つケイちゃんのつまらなさや寂しさが伝わってくる物語だった。また、ケイちゃんの両親は石油ランプの芯を作る工場で働いているとあったので、この話は坪田さんの身近な人や自身の経験から書いているのではないかと考えた。
私は母がいつも家にいてくれたので留守番などで一人になれるのがむしろ嬉しかったのだが、いつも一人でいることが当たり前だと一人が寂しくなる。ないものねだりだなぁと感じた。
ノートルダム清心女子大学 2年 S.T
恥ずかしながら、今まで坪田譲治の作品を読んだことがなかった。作品を読んでエッセイを書けと言われても、どの作品がいいか見当もつかない。とりあえず、童話全集の第一巻を借り、一番頭にあった作品を読んでみた。
このお話は、おじいさんが3人の孫たちに語る形で進んで行く。タイトルにもあるように、河童に出会ったときの話のようだ。詳細なおじいさんの語り、早く早くと続きを急かす少年たち。双方が事細かに描かれている。だが、話の中のおじいさんの視点にも、おじいさんの話を聞く少年たちの視点にもならないのが不思議だ。あくまで、私はおじいさんと少年たちを見守っている。壁にでもなった気分だ。
何度か読んでふと思った、視点が固定されないからこそ、描写が細かいからこそ、誰にでもなれる。楽しそうに語るおじいさん、続きを待ち望む少年、そして、河童や河童を目撃した少年時代のおじいさん。ならば、壁よりも自由度が高そうだ。何と表現すればいいだろう。またページをめくりに行く。
ノートルダム清心女子大学 2年 N.F
坪田譲治の『お化けの世界』を読んで、私は子どもの純粋な想像力の豊かさについて改めて考えさせられた。題名からは少し怖い話を想像していたが、実際はただ恐ろしいだけではなく、どこか温かさや親しみを感じる作品だった。
この作品では、子どもの目を通して世界が描かれていて、大人には見えないものや感じられないものが表現されているのが印象的だった。お化けという存在は普通なら「怖いもの」として描かれることが多いが、この作品では不思議さや面白さが強く感じられた。そのため、読んでいるうちに、自分が子どものころに感じていた不安などから想像をふくらませていたことを思い出した。
また、この作品を通して、坪田譲治は子どもの繊細な感受性をとても大切にしている作家だと感じた。子どもにとっては空想の世界も現実と同じくらいリアルで、その世界の中でさまざまなことを感じ、成長していくのだと感じた。大人になるにつれてそうした感覚を忘れてしまいがちだが、この作品はその大切さを思い出させてくれた。
『お化けの世界』を読んで、目に見えるものだけがすべてではなく、想像する力によって世界はもっと豊かに広がるのだと感じた。これからも子どものころの自由な発想や感性を忘れずにいたいと思った。
ノートルダム清心女子大学 2年 仁戸田汐姫
かあさんがこぎつねのために山を越えぶどうを取りに行くのは、無償の愛だと思った。
かあさんも幼い頃、こぎつねのように母からぶどうを与えられ、美味しかったぶどうをこぎつねにもあげないと思ったのではないだろうか。
おかあさんの直接的な死の描写がないのが、ぶどうを通じて、きつねの中に母と母の愛が絶えることなく生きていることを実感させる。
こぎつねが大きくなってから母の愛が届いたように、大人になってからようやく理解できる愛もあるのだと思う。
おかあさんが落としたぶどうが、枯れることなく何十年後に大きくなりたわわに実をつけたことは、絶えることのないおかあさんの愛そのものだ。
私の母は花を植えることが好きだから、何十年後に母が死んだ後、四季に咲く花を見てきつねのように母を思い出すのかなと思う。
ノートルダム清心女子大学 2年 H.Y
亡くなったはずの子ねこの「まあだだよ。」という声を追いかけ、その姿を探す親ねこの姿に胸が締め付けられるような気持ちになりながらも、物語を読み終わった後にまず感じたのは、最後まで「もういいよ。」という声が聞こえてこなかったことに対する寂しさだった。
しかし、何回も繰り返して読んでいくうちに、「もういいかい。」という親ねこの声に対して「まあだだよ。」という返事ばかりが返ってきたのは、亡くなった子ねこが「まだ親ねこにはこっちに来て欲しくない。寿命を全うしてから自分に会いに来て欲しい。」と感じていたからではないかと思うようになった。
その上で、また改めて読み直すと、読了後に切なくもどこか温かい気持ちになった。「子ねこのかくれんぼ」は、繰り返し読み味わうことによって様々な感情や新たな見方を得られる素敵な物語だと感じた。
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