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<坪田譲治作品研究>「あばれもの次郎」―ハトを通じて描かれた譲治の思い―

[2020年6月22日]

ID:22837

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「あばれもの次郎」―ハトを通じて描かれた譲治の思い―

 (初収録単行本  『桃の実』 昭和22(1947)年12月 東西社)
 (収録本 『坪田譲治全集 第8巻』 新潮社)

  ノートルダム清心女子大学 3年 岡本実佐子 


 童話「あばれもの次郎」は、満州に行った両親の帰りを疎開先で待つ3兄妹の話である。作品が発表されたのは昭和22(1947)年であり、年譜によると坪田譲治は昭和20(1945)年に疎開生活を送っていることから、私は作品と作家との関係について気になりながら、この作品を読んだ。また、作中で子ども達の話題となっている〈ハト〉の役割も重要なのではないかと注目しつつ読み込んでいった。
 はじめに、「あばれもの次郎」のあらすじを紹介する。6年生の太郎、4年生の次郎、1年生のマアコの3兄妹は疎開のため山中の湖に近いおじいさんの家で暮らしていて、満州に行った両親のことを待っていた。次郎はとても暴れ者ですぐに怒り、物を投げつけたり、不意に太郎を押し転がしたりする子どもだった。そんな次郎がいつも考えるのは「どうしておかあさん帰らないんだろう」ということだった。ある日、3人は湖でハヤ釣りをする約束をしていた。太郎は一足先に行こうとしたところをおじいさんにまき割りの手伝いに呼び止められ、次郎は黙っていろりに当たっていて動かず、マアコは次郎を待っていた。次郎はしばらく黙っていたが、ふとマアコに話をしてやると言って「ハトの話」を語りだす。「ハトの話」とは、ある子どもが森からハトの卵を取ってきて家へ持って帰り、鶏に温めさせて孵したあと、手紙を運ぶよう教え込む。そうして遠方の両親に「早く帰って来てほしい」という旨の手紙を飛ばしたところ、手紙を読んだ両親は急いで帰ってきた、という話である。これを聞き、マアコは私たちみたいだと感心したが、いつの間にか聞いていた太郎は、「次郎のハトは山バトじゃないか。手紙を運ぶハトはべつにあるんだよ。山バトなんかいくらくんれんしたって、伝書鳩なんかになりゃしないよ」と笑いとばす。さらに太郎は、次郎が最近ハトの巣を探して森に入っていたことを語り、「ハトの話」は次郎の願いであったとわかる。次郎は笑う太郎に掴みかかるが、マアコの取りなしもあって太郎を置いて先に湖へハヤ釣りに行くことにする。家に残った太郎は偶然、次郎の机の引出からはみ出す次郎の手紙を見つける。手紙は両親宛てで、自分たち兄妹は一生懸命待っているから、早く帰ってきてほしいという願いの籠もったものだった。太郎はこれを見て次郎がかわいそうで、自分の言ってしまったことを申し訳なく思う。一方その頃、両親は帰り支度をしていて、汽船に乗れるのを待っていた。
 以上のような作品を読んで、まず私は、この作品の舞台として、どの地域が描かれているのかと考えた。次郎たちは「山の中のみずうみの岸のおじいさんの家にそかいして」おり、譲治自身も昭和20(1945)年に野尻湖の湖畔に疎開している。このことから、「あばれもの次郎」は譲治が野尻湖畔での疎開時の記憶を呼び起こしつつ書いた作品だと想像される。野尻湖畔は、昭和14(1939)年以降、譲治が気に入って何度も足を運んでいた場所であるから、「山バト」や「山バト」の巣を野尻湖畔付近で見た可能性は十分にある。さらに、この「山バト」とは、『大辭典 第十九巻』(昭和11(1936)年3月 平凡社)を見ると「キジバト」の別称であることがわかり、『岡山の野鳥』(昭和63(1988)年10月 山陽新聞社)によると岡山の野鳥として記載があることから、譲治は故郷岡山でもキジバトを見たことがあると推測できる。だとすれば、譲治がキジバトから岡山で過ごした日々を連想したとも考えられる。加えて、作中で子どもたちがしている「ハヤつり」についても、譲治自身が野尻湖で釣った経験があることと(『坪田譲治全集 第12巻』(新潮社)に「野尻雑記」(初出『ふるさと』1943(昭和18)年11月 実業之日本社刊)、故郷岡山でも生家近くの川や池で釣っていた経験があることから、ハトもハヤも、譲治が野尻湖畔と岡山での思い出を重ねて想起していた存在だったにちがいなかろう。
 次に、登場するこの家族のつながりについて考えると、特に両親の状況については、「満州にいて、一年ばかりも便りがなく、どうしているのかわかりません」とあり、父だけでなく母までも満州に行っている。この事情について調べると、満蒙開拓のための人員や、満州の人間に日本語を教える先生として行くことがあるとわかった。したがって、作中に明記されてはいないが、このような事情で両親は満州へ渡ったと考えられよう。ここで、譲治に子どもが3人おり、登場する子どもも3人であることに着目したい。先に述べたように、この作品における疎開生活については、譲治が野尻湖畔に疎開していたことと関係があると考えられる。さらに、譲治は子どもが出征から帰ってきた際に喜びを書き表した随筆を残している(『坪田譲治全集 第12巻』(新潮社)に「息子帰る」(初出『息子かえる』1947(昭和22)年10月 青雅社)と「正太復員」(初出『故里のともしび』1950(昭和25)年11月 泰光堂)がある)。このことから、疎開時に出征した子どものことを大変気にかけていただろうと推察できる。したがって、作品では3人の子どもが疎開先で両親の帰りを待つという構図があり、一方譲治自身の現実では自分たち両親が疎開先で3人の子どもの帰りを待つという構図があったと考えられる。だとすれば、親子の立場は異なるものの、譲治は、次郎と同じような感情を抱いていたと考えられ、それは伝書鳩を育てあげてまでも早く帰って来てほしいと伝えずにはいられない感情であり、そのように家族の身を案じる強い思いが作品に出ているのではないかと考える。
 また、譲治が「あばれもの次郎」の中で自分の立場と登場人物の立場を逆転させながらも、子どもの目から描いていることに注目したい。譲治は戦時中、子どもの綴り方(作文)を紹介した本を複数出版していることを授業で習った。特に『銃後綴方集 父は戰に』(昭和15(1940)年9月 新潮社)では、譲治が満州の戦場跡を視察した際人々の健気さに感銘を受けたことを理由に、帰国してから、自分にも何かできることはないかと模索したとき思いついたのが勇士子弟の綴り方を本に纏めるということだったという。譲治は『銃後綴方集 父は戰に』の「あとがき」のなかで、父の不在中の生活を守っている子どもたちが「母と共に艱難を忍んで、勇ましく事変に立ち向かつて」いることに心動かされ、この「勇ましい子どもの姿を、その張り切つた童心のおもかげを、時代の尊い記録としてまとめて置きたい」と述べている。こうした思いから、譲治は戦時中の子どもの勇ましさとともに、苦しい生活への本音も重視して、当時の子どもの現実の心情に寄り添った考え方をしていることがわかった。したがって、「あばれもの次郎」は、戦時中待つことしかできなかった勇ましくも苦しい子どもたちの心情を表現しようというねらいをもって、子どもの立場から創作したかった譲治の思いが納得される。
 以上より、私はこの作品全体におけるテーマとして、家族の思いの強さとそれをつなぐ絆が、〈ハト〉を介して描かれている作品であると捉えられるようになった。次郎は常日頃から「どうしておかあさん帰らないんだろう」と悩み、帰ってきてほしいと手紙を書いていることからも両親の身を案じ寂しく思っている心理がうかがえる。兄の太郎も次郎をよくからかう元気な姿が描かれる一方で、次郎の手紙を読んだ際には「次郎がかわいそうでならなくなり、ひさしくじっと立っていました」とあることから、年長者の立場から次郎を不憫に思いつつ、次郎と同様の心理が自らのなかにも働いていることがうかがえる。妹のマアコは幼さからかあまり寂しく思っている描写はないが、「ハトの話」を聞いて私たちみたいだと感心したり、両親に手紙を届ける方法を考えたりしていることから、両親の帰りを願っている様子が読み取れる。その一方で、両親はどのように子どもたちのことを心にかけているかというと、作品末尾ではまもなく満州から帰ってくるように描かれ、汽車を待ちながら子どもたちがどうしているのか話す様子からは、子どもたちを案じつつ、再会を楽しみにしているように感じられる。
 こうして最後に、物語の結末では、両親の帰還を暗示していることに注目したい。この作品が書かれたのは譲治の疎開生活が終わり、3人の息子が出征から帰ってきた後である。前に挙げた随筆「息子帰る」と「正太復員」を読んでもわかるように、譲治は息子の帰還に大変安堵し喜んだ。このことから、譲治は自身の現実に沿うような結末になってほしいと考え、「あばれもの次郎」の最後に両親の帰還を示唆したのだと思われる。また、両親が作品の最後に語る「子どもたち、どうしているでしょう。子どもたちのぶじなようすを見たいものですねえ」という言葉は、疎開時に譲治夫妻が息子たちを心配した言葉と重なっていたであろうし、当時の多くの家族の願いを代弁した言葉であるとも推測できる。
 このように、「あばれもの次郎」は、譲治が戦中戦後に抱いていた強い思いを背景に、次郎の「ハトの話」や両親の会話、さらに無事に両親が帰ってくるという明るい未来を予想させる結末を通して、厳しい社会状況にあってこそ人々が家族との絆を拠り所として前向きに生きた姿を伝えようとした作品であるといえるだろう。

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