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<坪田譲治作品研究>「甚七南画風景」―甚七老人の未来の子供への思い―

[2020年6月22日]

ID:22835

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「甚七南画風景」―甚七老人の未来の子供への思い―

 (初出  『文芸春秋』昭和13(1938)年5月号)
 (収録本 『坪田譲治全集 第3巻』新潮社)

  ノートルダム清心女子大学 3年 松尾美希


 小説「甚七南画風景」を読んで、私はこの作品がいつの時代を描いたものか気になった。そこで、この作品に登場する。人物のモデルについて考えると、主人公の甚七は、作者坪田譲治の祖父甚七郎と名前が重なることから、祖父がモデルだと考えられる。そうすると小学1年生の三平のモデルは、譲治自身ではないかと思われる。そうであれば、譲治が石井尋常小学校1年であった明治29年あたりの時代状況が反映されていると推測することができた。
 この「甚七南画風景」の主人公甚七は80歳の老人で、彼に「今は別にしたいこともな」く、「食事」をすることと「方々(ほうぼう)を見物して廻ること」が楽しみであった。まず、物語では、甚七老人が三平をつれて墓参りに行き、道中の景気や墓地からの景色をお婆さんに呼びもどされるまで楽しんだという一日が描かれる。その夜、甚七老人は、自分が死んでしまった後、何一つ変わらない景色の村の夢を見る。夢の中で甚七老人はそのことに安堵し、明るい気持ちになる。夢から覚めて、甚七老人は世の中が美しく思え、見たい物が次々に頭に浮かび、死ぬまでにそれらを見残したくないという思いから、次の日には村を歩き回る。途中で、赤ん坊をおぶった小娘が赤ん坊をあやすのに子守唄を唄い、下の兄弟のために昔話をするのを聞く。それはどれも甚七老人が子供の時に母から聞いたものだったことを思い出した。甚七老人は翌朝、死ぬ前に見たい物を見ておきたいという思いから鯉幟を立ててもらい、それを2、3時間眺めて悦に入り、やがて疲れて眠りにつく、という光景で小説は終わる。
 この作品で、私は、最初の日に甚七老人が三平とともにした墓参りとその夜の夢についての印象が鮮明であったので、そこを中心に読み深めてみた。
 まず、墓参りをした山からの景色として「東の方に―市の城が見え、南の方に瀬戸内海の白帆が見える。北は山ばかり、西は平野の果に一筋の河が光り」と岡山を一望する光景が描かれ、そのあとに「その先に小さな汽車が煙を後に引いて走っている」という描写がある。この「小さな汽車」は山陽鉄道の蒸気機関車であると考えられ、山陽鉄道開通は明治24年であることから山陽鉄道が開通して数年経った時期の風景はこのようであったのだと想像された。
 このような墓参りのなかで、甚七老人は「七十年から昔老人の父親が亡くなった時ここで放鳥というのが」されたことを思い出しているのであるが、70年前すなわち甚七が10歳の頃の墓からの景色は、山陽鉄道が開通していなかったという点で違ったものだったと分かる。このように、甚七老人は、70年の間に風景が変わったことを山陽鉄道が走る光景とともに実感していると思われる。山陽鉄道について調べていると、明治27年に始まった「日清戦争の軍事輸送に大きく貢献した」(『岡山県の百年 県民百年史33』昭和62年6月 山川出版社 )とあったことから、作品内の時代は戦争中であった可能性があることがわかる。甚七老人が墓から見ていた汽車によって戦争物資が運ばれていたとは考えにくいが、この汽車は、甚七老人にとって、自分の町が変化していくということと、戦争が近づいていることを意識させた存在であったのではないだろうか。
 また、甚七老人が墓地からの眺めを楽しんでいるとき、70年前の父親の葬儀の際に「放鳥」を行ったことを思い出す。この放鳥とは、『総合佛教大辞典 下』(昭和62年11月 法藏館)によると、仏教の風習のひとつであり、「捕えられている魚や鳥を買い取って池沼・山野に放つこと」である。これは祭儀や法要などの時にもされるものであるそうである。このことから、坪田家の家の宗教は仏教(日蓮宗不受不施派)であるためこれを昔は行っていたのではないだろうかと私には想像された。老人は、70年前の話として放鳥を思い出していることから、老人は放鳥を見た子どもの頃以来、ずっと放鳥を見ていないと考えられる。それはだんだんと習慣が廃れていった、とも考えられるが、明治になってから宗教や風習のあり方が変化していることにも関連がある可能性がある。すなわち、『日本の仏教を知る事典』(平成6年4月 東京書籍)によると、「仏教は明治5年に設立認可された大教院という仏教諸宗合同の教育研究機関は明治政府の指導のもとにあり明治政府の思想善導機関であった。仏教は日本が帝国主義になるに伴い、戦勝祈願、従軍布教出征家族や遺族の援護、傷病兵の救護で国に協力していく」と書かれていることから、70年前と比べて明治時代での宗教は政府の都合のいいように指導が入っていると言える。このように、戦争に向けた指導が入り世の中が近代化してゆく様子を考えると、放鳥などの習慣も次第に消えてしまったのではないだろうか。
 さて、この墓地からの眺めや思い出を、お婆さんに呼びもどされるまで楽しんだ甚七は、その夜、夢で自分の死後、何一つ変わらない自分の町の夢を見るのであった。甚七老人が夢の中で、自分が死んでからもなお変わらない町をなぜ見ていたのかというと、墓参りでの風景から昔に思いを馳せていたことと、夢の中でも自分が死んでからの夢なのに生前と何一つ変化ないということに「不思議を覚え」ていたことから、私は、老人には自分の死後何一つ村が変わらないことはありえないことだと分かっていたのだと思えてきた。甚七老人が夢を見たのは、墓参りで昔とは変わってしまった景色を見て、急激な変化や戦争が近づいていることを感じ、自分の町は変わらないでほしいという願望からだと考えられる。
 以上のように「甚七南画風景」で甚七老人の願いをこのように描いた作者譲治の思いについて考えると、夢の後半に出て来る変化しない町で遊ぶ三平の姿が、私には際立って見えてくる。というのも、この三平の姿は、この作品の書かれた昭和13年の子供とはさらに対極的になっているといえるからである。昭和13年は、日中戦争が泥沼化し「国家総動員法」が施行されて、戦争遂行のためにすべてが国家統制下に置かれるようになり、国民生活はどんどん制限され、戦争が本格化し始める時期である。甚七の夢の中で、三平が自然と戯れる幸せそうな姿であったのは、未来の子どもに対して、変化していく世の中や戦争などに巻き込まれないで、変わらない無邪気さで健やかに暮らしてほしいという優しい願いを託して、譲治が描いているからではないかと私には思われた。

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