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<坪田譲治作品紹介>「貝の話」

[2020年6月19日]

ID:22778

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貝の話


 (初出  『桃の実』1947(昭和22)年12月 東西社)
 (収録本 『坪田譲治全集 8巻』 新潮社)

  ノートルダム清心女子大学 3年 古城 沙希 


 本作は、おとうさんと息子である正太の日常のひとこまを切り取った話である。私は、おとうさんが正太にかける言葉の一つ一つに意味が込められていて、作者坪田譲治が読者に何かを訴えかけているように感じた。そこで、本作に譲治がこめた思いは何であったのかが気になった。
 まずあらすじを紹介したい。ある日、正太はおとうさんが大きな貝がらを見てじっと考えこんだり、耳に当てたりしているのを見た。気になって正太は何をしているのかと、おとうさんにたずねた。おとうさんは貝がらを見ると、戦争のとき流れ着いた島で、日本にいる家族のことを考えていたことを思い出すのだと正太に教えた。正太が耳に貝を当てると、とてもさびしい音がした。そのさびしい音を聞いた南方の何十万という日本人が、生きて日本に帰って、家族に会いたいと願っていたことを、おとうさんは話した。正太は、なぜそのようなさびしい音がする貝を持って帰ったのか、おとうさんにたずねた。おとうさんは、この音を聞いていたらどんな苦しいことでもしのべること、そしてもう二度とあのさみしい波の音を日本人が聞くことのないように、そのために二度と日本人が戦争などしないように、誰かにも勧めたいと思って、この貝がらを持って帰ってきたのだと、正太に話した。
 私は、このおとうさんが正太に話した出来事について、譲治の経験が基になっているのではないかと考えた。本作でおとうさんは、大きな貝がらをみて戦争中の南の島でのことを思い出している。作中のおとうさんは、やっとのことでイカダに乗り、南の島にたどり着いたという。譲治は昭和18年7月から海軍報道班員としてマニラ・マカッサルなどを経てスラバヤに徴用されている。また帰国の際にもボルネオ・セレベス・フィリピンなどを経由している。おとうさんがいた南の島について推測すると、譲治は自身が徴用されて訪れた島の情景を思い浮かべて書いたのではないかと私は考える。
 このように作品と作家の重なりも見られる一方、作中のおとうさんは譲治のように海軍報道班員だったとは判断できないようにも思われる。そうすると、おとうさんがイカダに乗って命拾いしたとは、譲治が戦後、子どもたちから戦時中の体験を聞いた話も入っているのではないかと考えられる。そう考えたのは、随筆「沖縄の子供たち」(『故里のともしび』昭和25年11月10日 泰光堂 所収)に、譲治が沖縄の子どもたちの慰問に行ったことが書いてあったからである。その内容によると、譲治は昭和19年8月21日に那覇の港を出た第一対馬丸という1万何千トンとする船が沈没し、助かった子どもの中にはイカダで一週間漂流した者もいたという話を聞いたという。この出来事を知った譲治は、戦争に子どもが巻き込まれ、何とか命を守ることで精一杯の状況であったことに非常に胸を痛めたのではないかと思われる。
 これらの自身の経験と聞き知った話とが基になっているであろう本作で、譲治はおとうさんの言葉を通して読者に何を伝えたかったのだろうか。その問いについて考える際、私は随筆「息子帰る」(『息子かえる』昭和22年10月 青雅社 所収)で、譲治が学徒出陣した息子たちのことを心配していた様子を知った。また無事に息子が戦争から生きて帰ってきても、これから三人の息子をどのように導いていくかを考えているのである。それは戦争によって、それまでの暮らしや生活が変わってしまったためだろう。そこで私は譲治がこの作品を書いた戦後の新聞記事を探してみた。例えば戦後すぐの昭和20年8月30日の朝日新聞には「生活必需品を優先」や「最低生活の保障」という見出しが目につき、戦争が終わったとしても日本の生活を以前のように復興させることはとても困難だったこともわかった。譲治は、戦争がこのように人々の命を奪うだけでなく、生活や暮らしを脅かす脅威をもたらすことを、子どもたちに伝えようとしたのではないかと私は考える。
 ところで、郷里の岡山では、昭和20年6月30日付け『朝日新聞』の一面に「岡山にB29約七十機」と6月29日の岡山大空襲が報じられている。この報道は野尻湖畔に疎開していた譲治も認知していたのではないかと思われる。岡山大空襲によって被害を受けた人のなかには、多くの子どもも含まれていたことは想像できる。このことは、岡山で育った譲治にとって、また児童文学者の譲治にとっては、耐えがたいことであったのではないだろうか。
 さらに、昭和20年8月30日の『朝日新聞』には、「戦争は間違ひであつた 日本の歴史を破壊してはならぬ」という記事があるように、終戦後、戦争をすることは間違いであったという思想が世間に広められていく様子が見られる。このような終戦後において、日本が復興に向けて進んでいくなかで、子どもたちが悲しい戦争に巻き込まれないように、導いていくためには、子どもたち自身に戦争を二度とすべきではないと教えることが大切だと譲治は考えたのではないだろうか。
 先に挙げた戦後の随筆「沖縄の子どもたち」でも譲治は「もう今後二度と戦争などしない平和な大人におなりなさい」と子どもたちに訴えている。譲治は児童文学者として、戦争を行うことによって失うものがたくさんあるということを、子どもたちに伝えたかったのではないかと私は考える。
 本作で、おとうさんは、戦争に対する想いを子どもである正太に語りかけている。そのおとうさんの言葉から、譲治が一番子どもに伝えたかった「戦争は二度とすべきではない」という想いを、私たちは読み取ることができる。戦争を知らない子どもや現代を生きる私たちは、実際に戦争を経験した人々の平和に対する願いや想いを、本作から受け取ることが出来るのではないかと思う。
 私は、戦時中の戦争の悲惨さや戦争後の日本の生活状況を知った後、もう一度本作を読み返してみた。そうすると、おとうさんの姿を通して戦争は二度とすべきではないと、熱く訴えかける譲治の姿がありありと思い浮かべられるようになった。

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