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<坪田譲治作品紹介>「お馬」

[2020年6月19日]

ID:22772

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お馬

 (初出  雑誌『赤い鳥』1934(昭和9)年11月号)
 (収録本 『坪田譲治全集 7巻』 新潮社)
 
  ノートルダム清心女子大学 2年 近藤眞子


 私が「お馬」を最初に読んだ時に感じたのは、「お馬」がメインの作品というよりも、昔気質に丁髷を結っている馬乗りの頑固なお祖父さんのお話ということであった。しかし、作品の背景にあるものに着目してみると、一読しただけではわからなかった、坪田譲治が作品に込めたであろう思いが見えてきて、作品の奥深さに気付くことができた。
 この物語では、「もと庄屋をしていた」というお祖父さん「甚七」が主人公である。甚七は明治4年に断髪令が布令されて10年が経過してもなお丁髷(ちょんまげ)を結っていたと描かれていることから、時代は明治14年頃以降の話であると思われる。甚七は、丁髷に加えて、「えっへえん――」という一風変わった咳の仕方も自慢にしていた。また、槍や刀好きでもあった。さらに甚七が怒るのは年に一度か二度なくらい珍しいことだったが、いざ怒ると刀を抜きはしないものの側に置いてどなるので、誰もが参ってしまっていた。
 そんな甚七には、唯一の友人でもある馬の先生がいた。馬の先生も甚七と同じく、丁髷を結っていた。馬の先生は、かつて殿様の馬の先生もしていたが、当時は馬の稽古をする甚七のためだけの先生になっていたのであった。馬の先生は、月に数回ほど甚七のところへ教えに来ていた。甚七と馬の先生は、昔、儀式のときに、殿様の前などを歩く馬の歩かせ方で、馬具の飾りが一層賑やかな音がするように乗馬するときもあった。そうした光景を、村の子供たちは道の両側の木に登って見物していた。また、甚七は人から見物されるのがとても好きであったこともあって、馬乗りが終わると決まって見物していた子供たちに煎餅を配っていた。甚七のこの行動には、わざわざ馬乗りを見てくれていた子供たちに対しての感謝の意が込められているのだろう。
 また、甚七は若い頃にはお酒が好きだった。士農工商の階級制がある江戸時代に若き頃の甚七は、ある日、酔っぱらって裸で褌(ふんどし)に刀をさして馬具もつけず馬に乗っていたときに、草原の上に寝転んでいる侍に気づいた。通常なら「名字帯刀を許されている庄屋の子」であった甚七は、馬から降りてお辞儀をして通らなければならなかった。しかし、甚七は侍が酒に酔って眠っているのだろうと判断し、そのまま駆けていった。すると、その侍は起き上がって「こら、待てッ」と追いかけて来たが、甚七は馬が駆け続けているので止まらずに逃げ切ろうとする。だが、甚七の「馬好きは五里も十里も遠くまで有名」であったことから、その侍は甚七の家を知っていたために、甚七の家まで押しかけて来た。村の医者に助けられて、この一件は無事におさまったが、明治になってからも、甚七は侍が納屋の戸につけた刀の跡を人々に見せて自慢しているのだった。おそらく甚七が人々に自慢するのは、侍と戦わずして上手く切り抜けたことを誇らしく思っているゆえの心理なのだろうと感じた。
 その後、「日露戦争の終り頃」になって馬の先生は亡くなった。それ以降、甚七は生きた馬には乗れなくなってしまい、そこで小屋の木馬に昔の鞍を置いて乗馬していた。甚七は、この木馬の稽古を子供たちに見られるのは嫌っていたので、戸を閉めて鍵までかけていた。甚七のこの心理は、生きた馬に乗っていた頃と違って落ちぶれてしまった姿を、子供たちに見せたくなかったためなのであろう。だが、子供たちは小屋の中から聞こえる掛け声は生きた馬に乗っている時よりも好きだった。また、子供たちは甚七の稽古が終わって小屋の錠が外された後、その木馬で遊んでいた。甚七は無邪気な子供を前に、馬具を壊されることを恐れて一風変わった例の咳で追い払おうとした。しかし、終いには負けて自分から子供たちのもとへ行き、馬の乗り方を教えるようになった。ところが、甚七の部屋の側の松の木に鳩が巣を作った頃から、甚七は病気にかかってしまい、「鳩の子が巣立たないうちに」亡き人となってしまった。
 私は、このような童話「お馬」を一読したとき、主人公の「甚七」は、昔気質な人物のように思えた。また、坪田譲治の母方の祖父の名が「甚七郎」であることを学んでいた私は、譲治が坪田本家の祖父の姿をもとにして「甚七」を描き、岡山市北区島田に位置する坪田本家をこの作品の舞台としているのだろうとイメージしながら味わった。
 私がこの作品を読んで疑問に感じた点は、「断髪令」が出されて10年は経過していたが、甚七と馬の先生は二人とも丁髷を結い続けていたことだった。そこで私は「断髪令」について、いつ頃の布令で、断髪令が出されて10年経った状況や、甚七が昔気質に丁髷を結っていることが何を表すのかと思い調べてみた。
 そもそも「断髪令」とは、髷を廃止し髪型を自由にさせた明治4年の布令である。『明治時代史大辞典第三巻』(2013年2月、吉川弘文館)によると、明治12,3年頃には「丁髷を結う者はほとんどなくなる」という記述がある。そうしてみると、世の中のほとんどが短く切った髪型となった明治14年頃から、馬の先生が亡くなる日露戦争の終わり頃である明治38年までの約24年間、甚七は髷を結い続けていたことになる。このことから、甚七の頑なな性質がうかがえる。また、甚七は馬の先生が亡くなった時に、自分の髷を切り取って馬の先生のお墓に一緒に埋めていた。おそらく甚七のこの行為は、馬の先生が一人親で、一人息子を戦争で亡くして身寄りが一人もいない境遇を「大変気の毒に思って」という心理から起こしたのだと思われる。加えて、甚七の心のあたたかさも垣間見える。そう考えると、丁髷は甚七と馬の先生との親しい関係を表すものでもあったのだ。そのうえ「頭の髷を切り落すとお祖父さんはすっかり年をとって、もう馬にも乗れなくなりました」という記述から、甚七にとって丁髷は活力の源であったことがうかがえる。加えて、甚七は丁髷を自慢としていたことからも、甚七は人一倍、丁髷に対して特別な深い思いを抱いていたことがわかった。私は、一読した時に甚七に対して抱いた昔気質なお祖父さんという印象から、なんて思いやりがあってあたたかい心の持ち主なのだろうという気持ちになった。
 このように「お馬」という作品に譲治自身が込めた思いについて考えると、「甚七」の頑固な性質や心のあたたかさは、馬の先生との親交を表すものとして深まった。また、「断髪令」をめぐる当時の様子を知ることによって甚七の特別な思い入れに気づくことができ、作品の奥深い世界を味わうことができた。甚七の頑固さは、日本独自の風習に対するこだわりのあらわれであると同時に、友人を大切に思うやさしさでもあると思った。また甚七は偏屈者だが、とても愛くるしい人物のように感じられた。譲治は、甚七の心を綿密に描写することによって感じ取れる祖父の心の魅力を、実感をもって思い起こすことのできる作品にしたかったのではないだろうか。

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