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「広がる大地-絵図でたどる児島湾のかんたく-」を開催します。
岡山シティミュージアムは、2005年、「岡山の歴史と今を伝える」を使命に開館しました。岡山の考古、歴史、文化、芸術、民俗、産業、地理、自然にいたる多様な資料を収蔵・調査・研究し、さまざまな角度から岡山を見つめてきました。そして令和7 年、2025年に開館20周年を迎えることができました。
岡山を考える無数の視点の中でも、シティミュージアムでは、「古代吉備の繁栄」「岡山城と城下町の発展」「干拓による大地のひろがり」を「岡山の成り立ち3大要素」と位置付けてきました。開館20周年の本年度最後の展覧会では、このうち、「干拓」を取り上げます。
岡山南部に広がる岡山平野は、かつて、島々が浮かぶ「吉備の穴海」と呼ばれた海でした。戦国時代から、岡山の人々は海を干し、農地に変える「干拓」により、2万ヘクタールの大地を生み出したのです。
干拓による景観は、岡山の大きな特徴です。本展では、児島湾周辺の土地が広がりゆく様子を、絵図を通してご覧いただきます。
岡山大学図書館「池田家文庫」や岡山市立中央図書館の資料のほか、岡山シティミュージアム所蔵の「旧妹尾支所資料群」の一部を、このたび初公開します。
土地を広げることにささげた岡山人の情熱、そして人間の欲求を、改めて考えてみたいと思います。
本展開催にあたり、多くの方々にご指導、ご協力いただきました。厚く御礼申し上げます。
岡山平野は、島々が浮かぶ、「吉備の穴海」と呼ばれた海だった。児島半島も独立した島であった。この海に、吉井川、旭川、高梁川という大きな3本の河川が流れ込み、河口部に土砂が堆積していく。
ところで、河川上流の中国山地は良質な鉄の産地であった。この鉄が古代吉備繁栄の重要資源であった。製鉄のための森林伐採と、かんな流しが土砂の流出を促進したと考えられている。
こうした河川の働きにより、吉備の穴海に遠浅の干潟が発達した。藤戸のあたりで児島が地続きとなり、半島化し、児島湾が形成された。
さて、海を土地に変える方法には、大きく、埋め立てと干拓がある。埋め立ては、海に土砂などを投げ入れ、海底面をかさ上げして海水面より高くする方法である。いっぽう干拓は、海水を排水し、海底を露出させることである。したがって、干拓地は、基本、海より低いままなので、堤防を築いて海水の侵入を防ぐ必要がある。そして生活排水や農業排水を土地より高い海にどう排出するのか。干拓ができる条件として一般に、広い干潟が形成されていること、干満の差が大きく干潮時に排水しやすいこと、脱塩・農業用水のための淡水が豊富なことが挙げられる。岡山は干拓に適した土地であった。
岡山の干拓は戦国時代、宇喜多秀家にはじまるとされる。江戸時代、特に寛永期に岡山藩が積極的に、大規模に開墾を進めた。以来現在まで、約20,000ヘクタールが干拓された。ここでは、江戸時代初期の絵図を集めた。地名を見ると、まだ海が広かったことがわかる。
1
〔備前国図〕(縮小複製展示)
〔慶長年間〕(1596-1615年)
実寸 縦329.0cm, 横280.7cm
岡山大学図書館 T1-5
現在知られているもっとも古い備前国の絵図。現在の児島半島は、島として描かれている。天城もまだ島になっている。児島湾北岸の海岸線は、十日市から今保のあたり。
2
備前国九郡絵図
寛永15年(1638)頃
縦193.4cm, 横188.5cm
岡山大学図書館 T1-14
八浜から植松まで、児島湾に面していたことがわかる。
3
備中国絵図(縮小複製展示)
正保年間(1644-1648年)
実寸 縦356.0cm, 横260.0cm
岡山大学図書館 T1-32
海岸線は、妹尾−箕島−早島あたり。その地先には沼と記され、遠干潟であったことが示されている。干潮時には8.2km、満潮時では150m沖に出なければ船での漁はできなかったという(定兼 2017)。
4
備前国絵図(縮小複製展示)
元禄13年(1700)12月
実寸 縦316.0cm, 横357.0cm
岡山大学図書館 T1-20-1
岡山市南区福島、福田、今保から、倉敷市天城、そして粒江から小串まで、児島の北麓にかけてが海岸線となっている。現在の岡山市妹尾の南は「遠干潟」と記されており、広い干潟であったことを示している。

5
彦崎貝塚採集資料(13点)
縄文時代
岡山シティミュージアム(江坂コレクション)
当市南区彦崎にある貝塚遺跡。かつては児島湾に面していた。長期にわたる遺跡で、縄文時代前期には干潟、中期は岩礁、後期は干潟と岩礁、晩期は再び干潟と環境の変化がとらえられている。出土海産資源にはマガキ、ハイガイ、スズキ、クロダイ、マダイが多い。
国指定史跡(2008年指定)
ハイガイ, ハマグリ, オキシジミ, マガキ, イボニシ, カワアイガイ, アカニシ, 牙器( 猪下顎骨犬歯), ニホンジカ( 門歯)

6
羽島貝塚採集資料(15 点)
縄文時代
岡山シティミュージアム(江坂コレクション)
倉敷市羽島。縄文時代前期に厚い層がある。瀬戸内海が深く入り込んだ入江を望む砂州の上にあったと考えられている。マガキ、ハイガイ、ニシガイが多く利用された。九州地方との交流を示す遺物も多く出土している。
倉敷市指定文化財(史跡)(1965年指定)
ハイガイ, ハマグリ, マガキ, マガキ(礫付き), ウネナシトマヤガイ, スガイ, アカニシ, ウミニナ, ニホンジカ(臼歯)

7
船元貝塚採集資料(8 点)
縄文時代
岡山シティミュージアム(江坂コレクション)
倉敷市粒江。種松山から北へ伸びる丘陵先端に位置する貝塚遺跡。中期の貝塚には、ハマグリ、ハイガイ、マガキが多く含まれていた。遺跡の前に、干潟が広がっていたことを示している。
倉敷市指定文化財(史跡)(1965年指定)
ハイガイ、ハマグリ、ハマグリ製貝刃、アカニシ、ニホンジカ(下顎骨片)
江戸時代には全国的に新田開発が進んだ。江戸幕府が米を年貢として徴収する石高制を敷いたため、各藩は安定した米の生産量を維持しなければならなかったからである。岡山県は、他地域に比べて圧倒的に多数の新田開発が実施された。寛永期( 1624-43 年)に開発件数が急増する。岡山ではこの時期、旭川から笹ヶ瀬川にかけて、現在の国道2号線沿いの地域に、小規模な開墾が次々となされた。1650-60年代は東へ進み、操山、芥子山の南麓が開墾されていく。
新田の開発は、藩が実施するもののほか、戦国時代に武士だったものが農民となって開発したものや、民間人や町人による開発もあった。1664年に開発された金岡新田は民営新田であった。しかし他所からの入植者にたちの悪いものがおり、風紀を乱すだけでなく、運営者も予定されていた開発を行わず、藩への上納金も払わない、などの人的問題が起こった。これ以降、藩による開発が中心となる。
岡山藩による大規模新田開発は津田永忠によるところが大きい。延宝7 年(1679)、倉安川を開通させ、これにより倉田三新田を開発した(259ヘクタール)。次に永忠は貞享元年(1684)、幸島新田の開墾を手がけた(562ヘクタール)。ここで永忠は排水路末端に遊水池と水門を設けた。満潮時には水門を閉め海水の侵入を防ぎ、干潮時に水門を開け、排水するのである。用水は15km も上流の坂根堰から大用水を開削した。倉田新田と幸島新田の用水の確保、排水の方法は、この後の沖新田の開発の布石となる。
8
邑久郡新田絵図
貞享元年(1684)頃
縦95.1cm, 横82.2cm
岡山大学図書館 T7-109-5
幸島新田の開発計画図。乙子から島々の間に潮留め堤を築いて、入り海を大規模に埋め立てる計画であった。本図では西鴻島(西幸島)から正儀村に築堤が計画されているが、実際は、東鴻島へ後退している。用水は当初、福井村鴨越井堰から吉井川の水を引き、千町川に合流させる計画であったが、実際は15km上流の坂根堰を水源とすることとなった。
9
〔幸島新田ノ図〕
年代未詳
縦114.6cm, 横112.4cm
岡山大学図書館 T7-102
幸島新田の完成図。1657年に計画されながら、実際に着工されたのは1684年であった。津田永忠は、排水路末端に遊水池と水門を設けた。満潮時には水門を閉め海水の侵入を防ぎ、干潮時に水門を開け、排水するのである。この方法により河口部の干拓が可能となった。本図には水門町は描かれていない。
10
〔備前国上道郡新田之絵図〕
年代未詳
縦79.6cm, 横94.2cm
岡山大学図書館 T7-99
松崎新田の開発計画図。松崎村の前に朱で堤が示され、「此内今度被仰付候新田」と記した付箋がある。この朱線は、倉安川(1679年完成)の流路と一致している。松崎新田は、寛文2年(1662)に着工され、翌年完成した。正保4年(1647)に開発された笠井新田・福吉新田や海面新田・円山新田・中山新田が描かれている。
11
〔備前国上道郡倉田・倉富・倉益新田絵図〕
年代未詳
縦80.1cm, 横110.4cm
岡山大学図書館 T7-98
延宝7年(1679)に完成した倉田三新田の絵図。新田地は、東から「倉益」「倉富」「倉田」と命名され、図中では色分けして示されている(本図は南が上)。最初の入植者は50人で、図中には51戸の藁葺きの家が描かれている。
12
〔備前国上道郡沖新田干拓目論見絵図〕
延宝初年(1673)頃
縦127.2cm, 横205.8cm
岡山大学図書館 T7-95
倉田三新田の開発計画図。川崎新田から金岡新田まで、8km近い堤を築くようになっており、後に沖新田として開発される部分を含んでいる。図中に三枚の貼紙があり、用水・排水の関係で古地に悪影響がある点が記されている。

13
金新地引絵図
明治12年(1879)1月
縦266cm, 横180cm
岡山シティミュージアム CM2008000010
金岡新田南半の地引絵図である。一筆ごとに地番と面積が、活字で捺されている。歩=約3.3平方メートル、畝=約100平方メートル、反=約1000平方メートル、町=約10,000平方メートル=1ha。種類別に色分けされ、鮮やかである。金岡新田は1660年に商人により開発された。入植者や新田運営者の素行に問題が多かったため、岡山藩はそうした者を追放し、藩がその補償をすることとなった。

14
〔広谷地区古図〕
〔江戸時代後期〕
縦159cm, 横230cm
岡山シティミュージアム CM2009000001
現在の赤穂線西大寺駅の北側あたりの絵図。松寿院の建物の配置や参道は今も変わらない。一筆ごとに定型的な情報が記されている。
上道郡沖新田は、江戸時代の単一の干拓事業としては国内最大の規模である。総面積約1,900ヘクタールにおよぶ。元禄4年(1691)、岡山藩主池田綱政の命を受け、津田永忠が開発指揮をとった。
開墾命令の翌年1月から、まず堤防の構築にかかった。金岡新田の東端から干潟を取り囲むように沖を回って川崎新田( 現在の平井南部)に至る長大な堤防は、約12km に及んだ。これを9つの丁場( 作業工区)に分け、各区で競わせることで約6ヶ月で築堤を完成させた。三蟠や九蟠という地名はこの丁場名称の名残である。
この工事に先立ち、津田永忠は、吉井川から砂川を越え旭川に至る倉安川を延宝7年(1679)に開削し、同年に開墾した倉田新田に給水した。貞享元年(1684)、吉井川河口に幸島新田を開墾し、立て続けに貞享3年(1686)、旭川の洪水を操山北麓ににがす百間川を完成させた。これらの事業は、それぞれ新田開発や城下町の洪水対策を第一の目的としながら、将来の沖新田の開発を念頭においたものだったと考えられている。
倉安川から倉田新田へ流した用水はそのまま沖新田まで延伸された。百間川は沖新田の中央を走り、新田の排水路として機能した。幸島新田で採用された大水尾(遊水地)と樋門を組み合わせた排水システムは、そのまま沖新田に採用された。
開墾地は海水面より低いので、耕作面をかさ上げするために「堀田」という方法が取られた。区画の周囲を掘り下げ、その土を他に盛り上げるのである。堀田の景色は、昭和30年代まで見られた。
15
〔備前国上道郡沖新田略図〕
年代未詳
縦81.4cm, 横78.5cm
岡山大学図書館 T7-96
当初の沖新田の開発計画図。干潟の形を描いた上に、開発予定地の堤を朱で示し、その長さを記している。開発地の中央に大きな水路を設け(現在の百間川の位置)、耕地を東西に二分する設計になっている。
16
〔備前国上道郡沖新田開墾図〕
年代未詳
縦78.3cm, 横79.5cm
岡山大学図書館 T7-94
沖新田の開発計画図。当初の予定よりもさらに海上まで開発の範囲が広げられている。また、海に面した沖堤は東西に一貫して築かれ、中央の水路も直接海には排水せず、一旦大水尾(遊水地)に集められるような構造に設計されている。これは幸島新田で開発された方法である。
17
沖新田東西之図
文政元年(1818)12月
縦119.0cm, 横130.8cm
岡山市立中央図書館 A3-12
文政元年(1818)12月に沖新田外七番(現・岡山市東区政津)在住の鹿之介が、オランダの測量技術により縮尺600分の1で描いた精緻な実測図である。堤防・道・河川・貯水池・附洲・中洲・井関・水門・橋・神社・寺院・並木・人家などを丹念に描いて名称を付し、地域別に色分けして村名・字名も書き入れている。
18
〔沖新田外七番用水絵図〕
〔江戸時代か〕
縦38.6cm, 横72.9cm
岡山市立中央図書館 藤原092/21
19
沖田村全図
〔明治22年(1889)以降、昭和27年(1952)以前〕
縦168.0cm, 横80.0cm
岡山市立中央図書館 藤原092/3
現在の桑野の図。沖新田は、開発当初、堤防工事(普請)の作業工区(丁場)の番号で地名が付されていた。絵図の地域は四番となる。四番は明治6年に桑野と改称された。ちなみに三番と九番は、三蟠、九蟠とされた。県外移住者からすると、岡山の難読地名の一例である。

20
潟板と引樽
潟板 長212cm、引樽 高50.5cm
岡山市灘崎歴史文化資料館
児島湾は、干潮時には遠浅の干潟となる。干潟では、潟板漁が行われた。潟板に獲物を入れる引樽を載せ、片膝で潟板に乗り、片足で泥をかいて進む。この漁では主にモガイやアゲマキガイなどの貝類を獲っていた。アゲマキガイ、通称チンダイガイは、岡山地方には戦後になって持ち込まれたもので、本来、児島湾には生息していなかった。

21
鰻鉤
長153.5-172cm
岡山市灘崎歴史文化資料館
うなぎ漁は、潟板漁より沖に出て行った。海水につかって、泥の中を鰻鉤で獲物をさぐり、うなぎをひっかけてとらえた。

22
箱鋤簾
大正時代
幅45.3cm, 奥73.5cm, 高23.5cm
政田民俗資料館
沖新田の開発には堀田という工法が取られた。田の周囲を掘り下げ、掘った土を田に盛り上げ、耕作面が海水面より高くなるようにしたのである。その掘った土を上げるのにこの箱鋤簾を使った。「三人引き」と呼ばれるサイズで、三人がかりで使った。「五人引き」という特大サイズもある。

23
籠鋤簾
大正時代
奥28.5cm, 48cm
政田民俗資料館
堀田の用水路の泥や砂を上げるのに使う道具。長い柄の先につけて使用した。大きさや、先端の金具が尖ったり棘のようになっていたり、さまざまなバリエーションがあった。
岡山市指定重要有形民俗文化財

24
つる桶
1950年代(昭和30年頃)
奥28.5cm, 48cm
政田民俗資料館
堀田の作業で堀の中にたまった泥をすくうのに使った。両端の突起の穴に長い縄をつけ、2人がかりで泥を田に投げ上げた。
岡山市指定重要有形民俗文化財

25
籾さぐり
長137.7cm, 幅73cm
岡山シティミュージアム
もみがらを天日で干すときに、かわきやすいよう、ならす道具。岡山市妹尾地区で採取されたもの。

26
足踏水車
1950年代(昭和30年頃)
高233cm, 奥206cm, 幅82.5cm
岡山シティミュージアム
用水路に設置し、水車の羽を足で踏んで回して、水を上げた。1反(約990平方メートル)の田に水を上げるのに1、2時間かかった。この作業は毎日していたという。
所在地: 〒700-0024 岡山市北区駅元町15-1 [所在地の地図]
電話: 086-898-3000 ファクス: 086-898-3003