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岡山市長メールマガジン「桃太郎のまち岡山の挑戦」(121)10月16日号

[2019年10月21日]

ID:20824

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宇喜多秀家公のソテツ

こんにちは 岡山市長の大森です。

先日、八丈島の宇喜多秀家公を顕彰するグループ「八丈島久福会」から、およそ400年前に秀家公がお手植えしたとされるソテツを株分けしていただきました。

いただいたソテツは、秀家の生誕地と言われる亀山城跡(岡山市東区沼)に久福会の皆さんと植樹することにし、その植樹式への道すがら、私は秀家の数奇な生涯に思いを巡らせていました。

秀家の父直家は、この城を手に入れてから戦国の寵児として頭角を現し、一代で大名となります。

跡を継いだ秀家は、豊臣政権下の文禄の役で総大将を務めるなど若くして活躍したものの、秀吉没後、宇喜多騒動で有力家臣団が退去し、その後、関ヶ原の戦いに敗れて改易となり、島津家にかくまわれる身となります。

そのとき、秀家は出家し自らを「休復」と称したと言われており、徳川家への復讐をあきらめていなかったことが伺われます。

戦国期の日本には、亀山城のような山城が5万か所もあり、当時の人口から単純に計算すると200人から300人に一つの山城があったことになります。

ご承知の通り、山城は住みにくいところではありますが、敵からの攻撃を防ぎやすく、こうした山城に住まわざるを得なかったことが、常に戦いの中に身を置き、明日をも知れぬ世にいることを示していると言えます。

秀家は八丈島に流された後、名を「休復」から「久福」に改名します。

思うに、秀家は戦国武将として自らの使命を懸命に果たそうとしましたが、八丈島で人々の温かい心に触れ、平穏な生活を過ごしたことを機に、自らを「久しい福」と称したのではないでしょうか。

亀山城跡のソテツを通じて、秀家の気持ちの変遷について思いを馳せた一日でした。

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