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市長の大盛コラム(第10回)令和7年7月

[2025年6月26日]

ID:73356

岡山市長 大森雅夫の大盛コラム 躍動するまち おかやまの「今」をお届けします

万富東大寺瓦窯跡と上道(かみつみち)

~瀬戸が関わった国家プロジェクト~

 

 岡山市東区瀬戸町は、もともと備前国上道(じょうどう)郡でした。上道郡は上道(かみつみち)氏の拠点で、西暦3世紀から4世紀に浦間茶臼山古墳、金蔵山古墳など、同時期では中・四国・九州で最大となる古墳を築きました。吉備を代表する豪族の勢力域だったわけです。そして、6世紀以降は粘土や砂鉄、そして吉井川の水運といった恵まれた環境を最大限に生かして、焼き物や製鉄などの手工業生産を盛んに行うテクノポリスとなったのです。

 その後、12世紀末、平安時代末頃に築かれたのが史跡万富東大寺瓦窯跡です。私は市長になってからも、何度か訪れました。時の権力者であった平氏の攻撃によって日本仏教の総本山であった東大寺が焼け落ち、その復興のための瓦を焼いた窯跡です。当時、日本の社会は重く沈んでいました。仏教が滅ぶという末法思想が広がり、深刻な飢饉が続き、それに源平の争乱による戦死者の増加が追い打ちをかけ、民衆の社会不安は限界に達していました。その最も象徴的な出来事が、東大寺の大仏の焼失でした。そのため、源平争乱後の朝廷などの最重要任務は、東大寺を速やかに復興し、民衆の心を少しでも早く安寧に導くことでした。この国家プロジェクトを遂行できる地域の一つとして選ばれたのが、岡山市東区瀬戸町万富だったのです。伝統的に培われていた技術力を見込まれたわけです。

ここで2人の偉人を紹介します。重源と栄西。宋の国へ渡り、最先端の知識を学んで帰国したお坊さんです。この時代のお坊さんは、お寺や仏像を造るために資金を集め、職人さんたちの編成、工事の設計と実施、政治家との交渉をこなす総合プロデユーサーでした。栄西は備中吉備津宮の神官出身で、お茶の風習を広めた茶祖、あるいは臨済禅を伝えた禅宗の開祖というイメージが強いのですが、経営管理にも秀でた能力を持っていたのです。重源と栄西という二人の巨人と、瀬戸の技術力、さらに山口県の木材などにより、約15年間という極めて短期間で東大寺復興は進められたのです。

 令和8年度には、岡山市で東大寺サミットが開かれます。今年7月にはプレイベントを開催します。ぜひ参加して、岡山と東大寺の関係を身近に感じていただければと思います。

万富瓦窯跡出土の瓦と同じ文様の東大寺南大門の軒瓦

東大寺南大門の軒瓦

岡山市長 大森雅夫の大盛コラム(第9回)

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