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(1月-3月)「第35回坪田譲治文学賞記念 坪田譲治展-金谷哲郎が描いた坪田譲治の作品世界-」

[2019年12月17日]

ID:18760

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  • 会期 令和2年1月5日(日曜日)から3月8日(日曜日)まで
  • 場所 2階視聴覚ホール前展示コーナー

岡山市で活動する造形作家、金谷哲郎氏は、金属を素材とする立体造形で広く知られていますが、岡山市出身の児童文学者、坪田譲治の作品の場面を描いた絵画も制作しています。
そこでこのたびは、岡山市主催の坪田譲治文学賞の本年度の発表にあわせて、当館が保管する金谷氏の作品を展示し、金谷氏のみずみずしく豊かな表現を通じて坪田譲治の作品世界を紹介します。

坪田譲治と金谷哲郎

児童文学者、坪田譲治は1890(明治23)年に御野郡石井村島田(現在の岡山市北区島田本町)に生まれ、早稲田大学在学中から小川未明に文学を学び、曲折の末に東京で小説家になる決心をしました。大正時代から雑誌『赤い鳥』などに寄稿して作品を発表していましたが、40歳代半ばを過ぎる昭和10年代初頭になって、善太と三平の兄弟を中心とする子どもたちを主人公にした小説『お化けの世界』『風の中の子供』『子供の四季』の3作で世に認められ、文壇に確固たる地位を占めることができました。
戦後は児童文学の分野を切り開くとともに、戦前に鈴木三重吉が主宰した雑誌『赤い鳥』で自身が育てられたことから雑誌『びわの実学校』をみずから創刊し、新進の児童文学者の育成に努めました。1954(昭和29)年発行の『坪田譲治全集』全8巻で芸術院賞を受賞、1964(昭和39)年には芸術院会員に推されました。
1979(昭和54年)に岡山市名誉市民に迎えられましたが、1982(昭和57)年に92歳で歿しました。

造形作家、金谷哲郎氏は、1924(大正13)年に岡山県に生まれ、1947(昭和22)年に岡山師範学校を卒業。画家として制作活動を始めますが、やがて金属をおもな素材とする立体造形へ移行していきました。岡山県美術家協会、新象作家協会、日本美術家連盟の会員であり、1980(昭和55)年に岡山市文化奨励賞を受賞しています。
作品は、岡山市立伊島小学校、岡山大学医学部管理棟、吉備高原学園高等学校、岡山市立操南中学校などに設置されており、2003(平成15)年には成羽町美術館(現・高梁市成羽美術館)で「金谷哲郎展」が、2017(平成29)年には岡山県立美術館で「金谷哲郎・金谷朱尾子作品選 父と娘 -2つの個性の煌めき-」展が開催されています。

なお、日本文教出版社発行の岡山文庫のシリーズから、表紙や挿絵に坪田譲治に関連して描かれた金谷哲郎氏の絵画を使用した書物が2冊刊行されています(下の写真)。
善太と三平の会編『坪田譲治の世界』(1991(平成3)年)は、金谷氏の絵画が表紙と挿絵に用いられています。
加藤章三編『吉備路に生きた作家たちの心のふるさと -その光と影を追って-』(2015(平成27)年)には、表紙に夕暮れの風景が印象深い金谷氏の絵画「善太と三平 牛追の図」が使用されています。

金谷哲郎氏の絵画が装丁や挿絵に使用された「岡山文庫」の2冊の写真

金谷哲郎氏の絵画が装丁や挿絵に使用された「岡山文庫」の2冊

1 金谷哲郎氏の初期の作品

下に掲出したのは、合板に金属片を取り付けてコラージュとし、油彩を加えたもので、金谷氏の比較的初期の作品です。裏面に「1961年 “作品(道)”」の書き入れがあり、1961(昭和36)年の完成とわかります。作者によれば、これは3連作の中の1点であるとのことです。
金谷氏は戦後、療養中に同室であった画家の奥田仁から感化を受けて画家への道を志しました。戦後に隆盛した前衛運動の中で活躍を続けましたが、1960(昭和35)年頃から画面へ金属などを取り付けるコラージュ技法を試み、立体造形へと作風を展開させましたので、これはその過程が知られる興味深い作品です。
図書館の記録では、この作品は1963(昭和38)年6月19日の日付で作者から岡山市図書館へ寄付されました。その翌年に岡山市立図書館と改名し、現在の北区幸町で新規開館するのを控えていた頃です。

金谷哲郎「作品(道)」1961(昭和36)年の画像

金谷哲郎「作品(道)」1961(昭和36)年

2 坪田譲治の作品世界を描いた金谷氏の作品

当館には、坪田譲治の初期作品の情景を描いた金谷氏の絵画(水彩、クレパス)が6点保管されています。いずれも「97 Tetsu」の年記と署名が入っており、1997(平成9)年に制作されたことがわかります。

絵の題材とされた作品のうち、『正太樹をめぐる』と『枝にかかった金輪』は、1926(大正15)年に雑誌『新小説』に発表された坪田譲治の初期の短編小説です。

金谷哲郎画、坪田譲治『正太樹をめぐる』からの画像

金谷哲郎画、坪田譲治『正太樹をめぐる』から

『正太樹をめぐる』の内容を簡単に紹介します。
正太は村の古い松の木の幹に片手をかけて廻りながら、家族や学校や友達のことなど、いろいろな考えごとをしました。だんだん淋しくなった頃、現れた母に甘えながらいっしょに帰宅しました。そしてひと月ののち、母が松の木のそばに行くと、亡くなった正太の姿が見えたように感じたのでした。
このクレヨン画には、母が正太を思い出す最後の場面が描かれています。
松の樹と人物と遠景の家並みが水彩で描かれたあと、クレパスが重ねられ、生き生きとした色彩になっています。

金谷哲郎画、坪田譲治『枝にかかった金輪』からの画像

金谷哲郎画、坪田譲治『枝にかかった金輪』から

『枝にかかった金輪』の内容は、次のとおりです。
正太の母はいつも洗濯や台所仕事で忙しく、なかなか正太をかまってくれません。正太は得意の金輪を回してよく遊んでいましたが、いつしかそれに飽きて人形や三輪車や押入れで遊び、とうとう庭の大きな椎の木に登って行くと、高いところから落ちて死にました。
ここに描かれているのは、柿の木の梢にずっとかかったままになっていた金輪を目にした母が、正太のことを思う場面です。
洗濯盥、樹木、空などを水彩で描いたあと、クレパスを重ねて表情をつけています。そのために、瑠璃色のような深みのある空が表されています。

次に、『小川の葦』は、1928(昭和3)年に雑誌『赤い鳥』に発表された短編小説です。

金谷哲郎画、坪田譲治『小川の葦』からの画像

金谷哲郎画、坪田譲治『小川の葦』から

内容は次のとおりです。
まだ侍が腰に刀を差して歩いていた頃、子どもたちは土蔵の前へかかしを立てて、矢を射て遊び興じていました。それをすべて射果たしてしまうと、土蔵から大切な葦を一束取ってきて矢にしましたが、それを太一のお祖父さんに見つかり、子どもたちはきつく叱られました。そこで皆で川へ葦を取りに行くことになりましたが、いつしか太一の姿が見えなくなっていました。皆が探すと、太一はずっと川下で一束の葦を掴みながら息絶えていました。たいそう悲しみ悔やんだお祖父さんは、豊かな葦原を買い取って、その後ずっと開発から守り通しましたが、近代を迎えるうちに、いつしかそれもなくなっていきました。
描かれているのは前の2作と同様に、小説の結末の場面です。

最後の『子供の四季』は、1938(昭和13)年に都新聞に連載され、その年の7月に新潮社から刊行されて人気を博し、坪田譲治の名を不動にした代表作の長編小説です。1936(昭和11)年発表の前作『風の中の子供』と同様に、坪田の実家の島田製織所であった出来事がヒントになって創作されており、会社の経営をめぐる大人たちの争いが子どもたちにも暗い影を投げかけて、動揺する心理を巧みに描いた作品です。
ここからは、3つの場面が描かれています。

金谷哲郎画、坪田譲治『子供の四季』から「春」の画像

金谷哲郎画、坪田譲治『子供の四季』から「春」

長編小説『子供の四季』の冒頭の場面です。子どもたちは、川原で遊んでいると、馬から降りるときに足をくじいた老人に出会います。しかし実はこの老人は、事情があってただ一人の娘である善太と三平の母と義絶していた、2人の祖父の小野甚七でした。
人物を水彩で描き、緑野と青空にクレパスを使用しています。

金谷哲郎画、坪田譲治『子供の四季』から「三平の夏」の画像

金谷哲郎画、坪田譲治『子供の四季』から「三平の夏」

会社の経営から追われた善太と三平の両親は、5、6匹の牛を飼い、牛乳を売って生計を立てていました。夏の日の午後、牛乳配達が終わった善太と三平が子牛を引いてむこうの村へ連れて行こうとすると、友達が次々と集まってきました。そうして隣村でも配達の注文がとれ、遠征は大成功でした。
この絵は全体がクレパスで描かれているので、細部は粗略に見えますが、代わりに牛の黒い斑紋などで強い色彩の効果が生かされています。

金谷哲郎画、坪田譲治『子供の四季』から「子供凱歌」の画像

金谷哲郎画、坪田譲治『子供の四季』から「子供凱歌」

会社の経営をめぐる争いに決着がつき、小野家が差し押さえを免れることになりました。ラッパをもつ善太を先頭にして、そのあとに旗を立てた自転車に乗る子どもや、棒をかつぐ子どもたちが続き、みんなで歌って行進した大団円の場面です。
これまでの作品は、色彩を強めるためにクレパスが用いられていましたが、この作品は水彩だけで描かれています。

3 その他の展示品

『小川の葦』と『子供の四季』については、坪田譲治の原作の初版本を紹介します。

『小川の葦』が掲載された雑誌『赤い鳥』昭和3年9月号の表紙の写真

『小川の葦』が掲載された雑誌『赤い鳥』昭和3年9月号の表紙

『小川の葦』は、鈴木三重吉が主宰する雑誌『赤い鳥』の1928(昭和3)年9月号に掲載された、6ページの短編です。
児童文学雑誌『赤い鳥』は1918(大正7)年の創刊から鈴木三重吉が歿する1931(昭和6)年まで続きましたが、芥川龍之介、有島武郎、北原白秋、西条八十、新美南吉、坪田譲治、与田準一らがその中で作品を発表し、山田耕筰が楽曲を寄せました。そして清水良雄、深沢省三、武井武雄などの画家やデザイナーとして不朽の名前を残した人々が表紙のデザインや口絵、挿絵を担当しています。このように、児童を読者としつつ優れた著者を集めて隅々まで丹念に作られた本格的な文芸雑誌であった点は、当時では画期的なことで、こんにちなお深い意義を失わないものといえます。
坪田譲治は昭和2年から終刊まで作品が掲載され、その間に鈴木三重吉に深く師事しました。
上に掲出したのは、坪田譲治の遺族から当館へ寄贈された『赤い鳥』の初版本から、『小川の葦』が掲載された昭和3年9月号の表紙です。このデザインは清水良雄(1891(明治24)年-1954(昭和29)年)が手掛けています。
これとは別に、1978(昭和43)年に日本近代文学館が発行した復刻本から、昭和3年の全号を展示しており、『小川の葦』が掲載された9月号はその冒頭部分を開いて紹介しています。これらの復刻本も坪田譲治の旧蔵書です。

坪田譲治『子供の四季』の初版本の箱と本体の写真

坪田譲治『子供の四季』の初版本の箱と本体

1938(昭和13)年に新潮社から発行された『子供の四季』の初版本は、画家の小穴隆一(1894(明治27)年-1966(昭和41)年)による大胆な色彩の箱と表紙のデザインが特徴です。坪田の筆が遅かったため、小穴がいろいろ大変だったともいわれている、新聞連載で人気を博した挿絵もこの本の随所に用いられています。
展示した2冊はいずれも坪田譲治の旧蔵書で、遺族から当館へ寄贈されたものです。上に掲出した1冊は昭和13年の初版本で、これとは別に日本近代文学館から発行された復刻本1冊を開いて展示しています。

穴隆一「T君」(1940(昭和15)年、油彩画)の画像

小穴隆一「T君」(1940(昭和15)年、油彩画)

芥川龍之介や坪田譲治らの作品の挿絵と装丁を担当し、梅原龍三郎や安井曾太郎らとともに春陽会で活躍した洋画家、小穴隆一による坪田譲治の肖像画です。
この作品は「T君」の表題で1941(昭和16)年の春陽会展に出品されているので、制作はその前年と考えられます。とすれば、表されているのは坪田譲治が『子供の四季』を発表してから2年後の姿で、文学者として地歩を占め、余裕が出てきた頃がうかがわれる肖像です。

このほか、坪田譲治の遺族から当館へ寄贈された写真パネル2点(「雑司ヶ谷の書斎にて、昭和27年頃」および「生家の土蔵前にて、昭和30年」)を展示します。

※金谷哲郎氏の作品は著作権の保護期間にあり、本ページへは作者の許諾を得て掲載しています。著作権法が認める場合を除き、無断での転載は権利の侵害になります。

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