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(6月~8月)「岡山空襲の被害はどのようにして把握されたか」

[2019年11月21日]

ID:9060

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  • 会期
    令和元年6月29日(土曜日)~8月18日(日曜日)
  • 場所
    岡山市立中央図書館2階 視聴覚ホール前展示コーナー

岡山市は、昭和20年6月29日未明の岡山空襲で市街地の大半を焼失し、少なくとも1700名を超える人命が失われました(死亡者数については、これをさらに上回るとする説もあります)。そこで毎年6月29日には戦災の犠牲者を追悼し、平和の尊さを伝えて行くことにしています。
その中で、今年寄贈された横山昊太・第19代岡山市長の関係資料の中に、岡山空襲に際して横山氏が旧細堀町の町内会長として被害の把握に努め、状況を行政に報告して必要な救護措置を求める役割を果たしていたことを示す記録が含まれていました。
これは自治会を通して、いち早く被害を把握する仕組みがあったことが確かめられる貴重な資料です。
そこでこのたびは、大規模災害における「被害の把握」をテーマとし、この文書を中心にして、当館が所蔵する近世の古文書も含めた幅広い関連資料を展示します。

(1)近世末期の大規模自然災害の被害把握 ~安政南海地震と嘉永3年の洪水の記録

大規模災害のときの被害の把握については、少なくとも近世にさかのぼる長い前史がありますので、まずはそれらについて当館所蔵の古文書によって紹介します。
岡山空襲について紹介する前に、前置きが少し長くなりますが、ご容赦ください。

1.国富家文書にみる安政南海地震の被害把握

国富家は江戸時代後期から岡山藩でも有数の商家として栄え、幕末には惣年寄役を務めて城下の町人社会の代表者となり、町奉行との間で文書の取り次ぎを行い、民政・財政を指導する立場にありました。
この国富家に伝わってきた文書には、嘉永7年(1854年。その年内に安政と改元)11月5日の夕刻に西日本各地を襲った安政南海地震の記録が含まれています。
そのとき当主であった国富源次郎は、地震の日の翌日には受け持ちの町の役人へ触れを出し、被害状況を速やかに知らせるように求めています。やがて各町から続々と被害の知らせが寄せられましたが、国富源次郎はそれらを確認して内容を取りまとめ、町会所に勤務する町奉行へ提出する報告を作成したとみられます。
岡山藩ではこのような報告等をよりどころに、町民への救護や貢租の減免について判断を下したものでしょう。
そこで最初に、各町に対して速やかに被害を報告するように求めた3通の文書を見てみましょう。

「地震書上」(国富家文書093/52)から廻状3通の画像

「地震書上」(国富家文書093/52)から廻状3通

上掲の文書は、どれも本文の内容が同じで宛先だけが異なっています。そこで3通の中から最初に掲げた文書を読み下すと、下記のとおりです。

地震ニ而所々損し崩家
怪我人等無之哉有無
書附ヲ以只今之中御申出
可有之候 以上
十一月六日 国富源次郎
川崎町 栄町
下之町 磨屋町
野殿町 仁王町
常磐町 高砂町
浜田町
御役人中

これだけではまだ難解なので、漢字に読み仮名をつけ、区切りを入れ、平易な言葉に改めて、原文の趣きを残しながらも読みやすいように工夫してみました。
現代語に訳さなくても、だいたいの意味が取れるなら、以後もこの調子で古文書の内容を説明して行きます。

地震にて所々損し崩家、
怪我人等、これ無きや、有無
書付をもって只今の中、御申し出
これあるべくそうろう 以上

十一月六日 国富源次郎

川崎町 栄町
下之町 磨屋町
野殿町 仁王町
常磐町 高砂町
浜田町
御役人中

すなわちこれは、惣年寄役の国富源次郎が、早くも地震の翌日には城下の各町の役人へ被害状況を書面で報告するように求めた、触れ(廻状)の文面です。
最初の文書は、川崎町、栄町、下之町、磨屋町、野殿町、仁王町、常磐町、高砂町、浜田町の9町の役人に宛てられています。
2番目の文書は、紙屋町、尾上町、瓦町、大雲寺町、桜町、大工町、瀬尾町、小野田町、小原町、紺屋町の10町の役人宛てです。
3番目の文書は、橋本町、片瀬町、久山町、西中島町、東中島町、小橋町、大黒町、下片上町、上片上町、古京町、森下町の11町の役人宛てです。
町の名前には、現在も残っている地名もあれば、なくなってしまった地名(旧町名)もありますが、おおよそ最初の文書は城下町の西部の、2番目の文書は西南部の、3番目の文書は旭川を渡って旭東の市街地へ続く南東部の町々を回覧されています。
江戸時代後期の岡山城下町では、町人の社会には行政上、62の町があり、それぞれ町役人と呼ばれた代表者を立てて自治が行われていました。これをたいていは3名の惣年寄が3分の1ずつ受け持って統括しましたが、このときは1名少なかったのか、国富源次郎が一人で30の町へあてて触れを出しています。
いずれの文書も、宛先の町の名前には長い斜線が引かれており、廻状を受け継ぐたびに、各自が斜線を書き足していったことがうかがわれます。
とくに3番目の文書では、宛名の下に時刻を書き添えており、古京町の役人は黒印を捺しています。おそらく平時ならこれが正式の伝達方法で、このときは緊急事態なので、上の2通では略されたのかも知れません。
こうして惣年寄から被害報告を求める廻状を受け取った町役人たちは、ただちに被害の状況を調べて惣年寄に書面で報告をしました。それが次の写真の文書です。

「地震書上」(国富家文書093/52)から、町役人たちから国富源次郎への返信(大黒町、下片上町、古京町、森下町の部分)の画像

「地震書上」(国富家文書093/52)から、町役人たちから国富源次郎への返信(大黒町、下片上町、古京町、森下町の部分)

上掲は、町役人から送られてきた被害の報告文を、惣年寄の国富源次郎がひとつひとつ糊でつなぎ合わせて巻物のように巻いて保存してきたものです。
町役人から返ってきた報告は、こういう場合のための決まった書式があったのか、文書の内容が形式的には揃っていて、みな同じような文面になっています。しかしよく見ると、それぞれ筆跡が異なっており、紙の形状や、大きさや、紙質も不揃いです。つまりこれらは、それぞれの町の役人たちが書いて届けてきたものであることがわかります。
上掲の文書はすべて、町内には特に大きな被害がなく、無事であったことを知らせている返信です。たとえば写真で右から3番目の文書の内容は、

書上 古京町
一 地震にて損し所、崩れ家、怪我人等、町内に御座なくそうろう 以上
寅十一月六日 名主河田屋甚吉
国富源次郎殿

となっています。他の町の文書も、文面はこれとほとんど同じです。
ところが次の写真の文書は、地震によって何らかの被害が生じていた町からの返信です。

「地震書上」(国富家文書093/52)から、町役人たちから国富源次郎への返信(栄町、仁王町、常磐町の部分)の画像

「地震書上」(国富家文書093/52)から、町役人たちから国富源次郎への返信(栄町、仁王町、常磐町の部分)

右端の文書から内容を見て行きましょう。

書き上げ 栄町
一 地震につき御鐘撞屋敷入口屋根損し申しそうろう。そのほか崩れ家・怪我人等ござなくそうろう 以上
寅十一月六日 名主かとや亭次郎(印)
国富源次郎殿

その次の文書は、

書き上げ
一 仁王町鞘師七郎右衛門後家居宅表口二間半ござそうろう。表通り小屋根ならびに出格子ども、昨晩地震の節、崩れ落ち申しそうろう。このほか怪我人等ござなくそうろう。 以上
寅十一月六日 仁王町名主表具屋九右衛門(印)
国富源次郎殿

その次の文書は写真が切れていますが、最後まで読むと、

書き上げ
一 常磐町にて西大寺町銭屋甚右衛門所持つかまつりそうろう家、表口三間ござそうろう、表通り小屋根崩れ落ち申しそうろう。このほか怪我人等、ござなくそうろう、以上
寅十一月六日 常磐町名主白銀屋東左衛門(印)
国富源次郎殿

町役人たちからの被害の報告を受けて、国富源次郎は情報を取りまとめて集計し、町奉行へ提出するための書類を作成しました。以下に掲出する文書(冊子)は、その内容を伝えているものです。

「地震ニ而潰家怪我人其外所々損し所書上」(国富家文書093/54)の最初のページの画像

「地震ニ而潰家怪我人其外所々損し所書上」(国富家文書093/54)の最初のページ

この写真は、冊子状に綴じられた横長の形状の文書の最初のページを示したものです。清書された正規の文書は町奉行へ提出したはずで、おそらくこれは最後の段階の草稿などを国富源次郎が自身への控えとして残したものでしょう。
冒頭のページは、栄町、仁王町、常磐町の被害状況から書き始められています。これとちょうど同じ町から届けられた報告文の写真を前に掲出しましたので、比べてみると興味深く、惣年寄が情報を集計していく様子がわかります。その内容は、

書き上げ
去る五日晩七時過ぎ、地震にて損し所、左の通り。

栄町
一 御鐘撞き屋敷、入口屋根損し申しそうろう。

仁王町
一 鞘師太郎右衛門後家居宅、表口三間半ござそうろう。表通り小屋根ならびに出格子、崩れ落ち申しそうろう。

常盤町
一 同町にて西大寺町銭屋(以下は次のページに書かれているので、写真に出ていませんが、続けます)甚右衛門所持つかまつりそうろう家、表口三間ござそうろう。表通り小屋根崩れ落ち申しそうろう。

地震の直後にこうした報告が交わされ、被害状況が町奉行まで伝達されました。
そして地震から10日あまりを経た頃に、藩庁から被災者に恵み米の支給がありました。次に掲出するのは町役人へその受け取り方法を指示した文書です。

「地震書上」(国富家文書093/52)から、恵米の支給についての画像

「地震書上」(国富家文書093/52)から、恵米の支給について

恵み米の廻状は被災者があった町の役人にのみ宛てられています。内容は、

せんだって地震の節、居宅大破におよび、または家内の者怪我いたし、難渋書上げの者どもへ、明くる十八日、町会所において御恵米下されそうろうあいだ、同日朝五時、御役人印判持参し見届けへ懸り合い、御請け取りこれあるべくそうろう 以上
なおなお御礼廻勤の埒にそうろう
十一月十七日 国富源次郎(印)
西中島町 東中島町
常磐町 高砂町
御役人中

これと同じ内容の文書で、尾上町、桜町、小原町の町役人へ宛てられた廻状も残っています。
ところでこの文書に出てきたように、城下町の行政は、栄町(現在の北区表町二~三丁目)にあった町会所で行われていました。ここでは長官の町奉行のもとに同心や惣年寄やその配下の人々が出仕して、司法・警察(以上は武家が取り仕切る)や、財政・民政(以上は惣年寄以下、おもに町人社会に属する)の万般にわたる事務が行われていました。
そして最後に、次の文書を紹介しましょう。

「地震書上」(国富家文書093/52)から、恵米のことなどの画像

「地震書上」(国富家文書093/52)から、恵米のことなど

この文書は少し断片的で、ひょっとしたら紙継ぎの糊が剥がれて、もっと長い文書から離れた部分なのかも知れません。内容は、

六升 西中島町大工万吉
家内二人
右の者ども、去る月五日地震の節、居宅大破におよび、または家内の者、怪我もこれあり、いづれも難渋いたすべきのゆえにそうろう。これによりいささかづつ白米恵み遣わしそうろう。
但し、尾上町畳屋源之介母、圧死致しそうろうよし、不慮の儀、愁傷なくいたすべく、さてさて不便(憫)のことと、この旨源之介へ申し聞かすべくそうろう。

尾上町(現在の北区東中央町から南中央町にかけて)では、屋根から落ちた瓦のため、畳屋の源之介の老母が亡くなりました。
国富家文書には、国富源次郎の受け持ちからと、もう一人の惣年寄の天野持吉へ宛てた数通の被害報告が残っていますが、その範囲では、これが岡山城下町における安政南海地震で唯一人の死亡者です。そして負傷者は3名(うち1名は重傷)、大規模な家屋の損壊は38棟(うち7棟は全壊)で、栄町にあった鐘撞堂の屋根も破損しましたが、家屋の損壊は西中島町が最多でした。ただし文書の判読は難しく、読み方によっては数字に違いが出てきます。

なお、安政南海地震に関する国富家文書(岡山市立中央図書館蔵)は、東京大学地震研究所(編集・刊行)『新収日本地震史料』第5巻、別館5ノ2(1987年、社団法人日本電気協会発行)の1660~1679ページに読み下し文が掲載されており、この解説でも参考にさせていただいています。

2.藤原家文書にみる洪水被害の把握

上道郡三蟠村(現在の岡山市中区藤崎)の豪農、藤原家の当主の深蔵(号、操南)は、幕末に郡方下役人を務め、岡山藩の農民社会の代表者として領内各地の村役人を監督し、文書の取り次ぎや貢租の取りまとめにあたって、民政の全般を統括する立場にありました。
江戸時代に岡山藩でもたびたび発生した洪水災害では、村々を治めていた名主たちから大庄屋を通じて下役人のもとへ被害状況を報告する文書が届けられました。藤原深蔵は、それらに書かれている情報を集計して、必要な補訂を施し、改め寄せ帳を作成しています。このような集計が、岡山藩の農村支配の責任者であった郡代へ提出され、被害状況の把握に用いられたものとみられます。
そこで、次には藤原家文書から、嘉永3年(1850年)の洪水の記録を紹介します。このときは高梁川水系でも大きな洪水があり、現在は倉敷市域ですが、江戸時代には岡山藩領であった児島半島西部の村々にも被害が出ています。そこでこの地域の3つの村から届けられた報告文書の表紙の写真を、次に掲出します。

「六月四日洪水に付潰家書上帳 嘉永3年 (左から児島郡粒江村、同黒石村、同藤戸村)」(藤原家文書093.6/50, 同093.6/53, 同093.6/54)の画像

「六月四日洪水に付潰家書上帳 嘉永3年(左から児島郡粒江村、同黒石村、同藤戸村)」(藤原家文書093.6/50,同093.6/53,同093.6/54)

江戸時代までの農村は、現在の大字にあたる規模の村が自治の単位でした。岡山藩の地方支配は、村々を名主(天和2年までは庄屋と呼ばれる)が治め、ほぼ10~20ヶ村をひとつの郡に数名の大庄屋が統括し、さらに領内全域を数名の下役人が統括していました。武家のほうは、ひとつの郡に数名の郡奉行が置かれ、領内全体は郡代が管轄しました。
上掲の3通の文書を作成したのは各村(粒江村、黒石村、藤戸村)の名主で、筆跡がすべて異なっていますが、文書の形式が定まっていたのか、題の書き方は揃っています。
横長の形式の文書(横帳)は、表紙は縦に題を書き、右綴じの本紙は横にして内容を書いていきます。
それでは粒江村の文書について、最初のページを見てみましょう。

「六月四日洪水に付潰家書上帳 児島郡粒江村 嘉永3年」(藤原家文書093.6/50)の本文1頁めの画像

「六月四日洪水に付潰家書上帳 児島郡粒江村 嘉永3年」(藤原家文書093.6/50)の本文1頁め

一 流家壱軒 弐間 四間 房太郎
一 同壱軒 弐間 五間 藤蔵
一 同壱軒 弐間半 三間半 捨治

右は六月四日洪水につき、流れ家に
まかりなりそうろうにつき、間尺吟味つかまつり、書き上げ
申しそうろう 以上
戌七月 名主 杢蔵
同天城村 九一郎
五人組頭 熊太郎
右の通り御届け相違なくござそうろう 以上
大庄屋黒石 善十郎

粒江村では3名(房太郎、藤蔵、捨治)の家が流失しましたが、これを名主の杢蔵以下3名の村役人が取りまとめて報告し、さらにそれを黒石村から選出されてこの地域の大庄屋を務めていた善十郎が確認しています。大庄屋は名主たちが提出した文書を取りまとめて確認し、下役人へ取り次ぎます。
文書の内容をみると、3軒の家屋流失について、はじめはそれぞれの規模が縦・横の間数で示されていました。しかし下役人の藤原深蔵はこれに朱字で補訂を入れました。房太郎の家には「此坪八坪」と書き添え、九一郎にも「此坪拾坪」と添えて、間数(縦・横の長さ)を坪数(面積)に改めて集計しやすくしています。そして捨治の家は何か理由があったのでしょうか、文字の行を縦の棒線で消し、「改除」と書き添えて集計から除外しています。
同様の報告を、黒石村の文書についても見ておきましょう。

「六月四日洪水に付潰家書上帳 児島郡黒石村 嘉永3年」(藤原家文書093.6/53)の本文1頁めの画像

「六月四日洪水に付潰家書上帳 児島郡黒石村 嘉永3年」(藤原家文書093.6/53)の本文1頁め

一 潰れ家壱軒 長四間半 横弐間半 茂三郎
右は去る月四日洪水にて潰れ家に
まかりなりそうろうにつき、間尺吟味つかまつり
書き上げ申しそうろう 以上
戌七月 黒石名主 嘉茂治(印)
同所五人組頭 源五郎(印)

こちらは大庄屋の確認の文面が次のページに書かれているので、写真には写っていません。そしてこれを受け取った下役人の藤原深蔵は、同じように朱字で間数を坪数に訂正しています。
そしてここで、もういちど先の粒江村の文書に戻り、報告の最後の部分を見ておきましょう。

「六月四日洪水に付潰家書上帳 児島郡粒江村 嘉永3年」(藤原家文書093.6/50)の本文2頁めの画像

「六月四日洪水に付潰家書上帳 児島郡粒江村 嘉永3年」(藤原家文書093.6/50)の本文2頁め

上掲の写真は粒江村から提出された報告(書き上げ帳)の2ページめ(末尾)です。前のページで名主からの報告を大庄屋が確認していましたが、最後のところに下役人の藤原深蔵が確認を加えています。その内容は、

(朱字で)
右、改め寄せ
家数弐軒
坪数拾八坪

(黒字で)
右、流れ家あい改め、坪数、
朱書・印判の通り相違
なく御座そうろう。 以上
藤原深蔵

藤原深蔵は黒石村と藤戸村の文書でも末尾にこれと同じ文面で、坪数の合計と、自分が内容を確認した旨の文を加えています。
このような報告文の内容を精査して集計した結果、下役人の藤原深蔵が作成した「改め寄せ帳」を、最後に紹介しておきましょう。

「嘉永三年戌十一月 御郡々流家潰家改寄目録」(藤原家文書093.6/82)の最初の頁の画像

「嘉永三年戌十一月 御郡々流家潰家改寄目録」(藤原家文書093.6/82)の最初の頁

改め寄せ帳は、紙を半分に使った小さいサイズの帳面です。文字は走り書きのように少し乱雑で、末尾の署名にも印判がないので、郡代へ提出した報告はきちんと清書されたものであって、これはその草稿か写しを自身への控えとして残したものでしょう。
上掲の写真にある最初のページの内容は、

御郡々流れ家ならびに潰れ家改め寄せ目録
一 家数三軒 潰れ家 津高郡弐ヶ村
坪数五拾八坪五合
一 家数九軒 潰れ家 磐梨郡三ヶ村
坪数九拾六坪六合壱勺
一 家数七軒 潰れ家 和気郡五ヵ村

となっており、岡山藩領内の各郡の集計が同じように次のページにわたって続いていて、すべての郡について、全壊家屋のあった村の数と、軒数と、坪数の合計を書き出しています。
そこで途中のページを省いて、改め寄せ帳の最後のページの写真を次に掲出しますが、その内容は下記のとおりです。

百五拾六坪七合五斗 流れ家
(朱字で)この米、拾石九斗七升弐合五勺
(朱字で)但し、壱坪につき七升免
うち、三百五拾弐坪三勺 潰れ家
(朱字で)この米、拾七石六斗壱合五勺
(朱字で)但し、壱坪につき五升
(朱字で)米、あわせて 弐拾八石五斗七升四合
嘉永三年戌十一月 藤原深蔵 守井貞作 中山常次郎

つまり、黒字で流失家屋と全壊家屋の坪数の合計を書き、朱字で米の石高を書き添えています。坪あたり流失家屋で七升、全壊家屋で五升の免租です。この文書の日付は嘉永三年(戌年)の十一月ですが、11月末日がその年の収穫米から年貢を納める期限なので、この文書は年貢の減免と関係しているはずです。
末尾に署名のある3名が郡方下役人で、筆頭の藤原深蔵は上道郡、守井貞作は御野郡、中山常次郎は邑久郡から任ぜられていました。

「嘉永三年戌十一月 御郡々流家潰家改寄目録」(藤原家文書093.6/82)の末尾の頁の画像

「嘉永三年戌十一月 御郡々流家潰家改寄目録」(藤原家文書093.6/82)の末尾の頁

(2)昭和20年の岡山空襲における細堀町の町内会長、横山昊太氏の記録

前置きが大変長くなりましたが、これからいよいよ昭和20年の岡山空襲のときの被害状況の把握について紹介します。

1.横山昊太氏と細堀町内会

これから紹介する文書は、横山昊太氏の子孫から当館へ寄贈の申し出があり、今年度になって手続きを完了した一連の資料の中に含まれていたものです
横山昊太氏(明治22年生~昭和49年歿)は、まだ敗戦後の困難が続いていた昭和26年に岡山市長に当選して昭和29年度まで1期4年間務め、岡山市の復興に大きな役割を果たし、晩年には岡山市名誉市民の称号を贈られました。
横山氏は岡山市旭町(現在の北区岡南町)の佐藤家に生まれ、大正5年に細堀町(現在の北区表町三丁目で、千日前筋のひとつ西に並行する道に沿った街並み)の横山家へ養嗣子として入り、第一岡山中学を経て早稲田大学政治経済学科を卒業後、山陽新聞社の前身紙のひとつである中国民報社の記者となりました。また、義父が携わっていた大福座の経営を引き継いだので、当時の人名事典には興行師とか興業家などと記載されています。これは新西大寺町筋の入口にあり、少し前まで3丁目劇場があった場所にあった劇場です。そして大正10年から岡山市議を務め、大正12年には一時岡山県会議員に転出するものの、大正14年から昭和26年まで再び市議となり、その間の昭和4~8年には議長を1期務めました。
敗戦後の昭和26年に岡山市長に当選し、空襲で被災した市街地の復興に務めるとともに、岡山県市長会や全国市長会で財政基盤の弱い自治体の運営を円滑にするための町村合併の促進を訴え、在職中に隣接14ヶ町村の編入を達成するとともに、公共下水道や万町(よろずちょう)の跨線橋の整備を進めて、空襲で被災した学校施設の復旧にも尽力しました。
その横山氏が市長に就任する前に、居住地の旧細堀町で町内会長を務め、岡山空襲のときは一人の自治会長として住民の安否を気遣い、被害状況をまとめて岡山市へ報告する役目を務めていました。このたびの寄贈資料には、そのことがわかる記録が含まれていました(横山氏が当時、細堀町の町内会長であったことは、昭和20年4月10日付の『岡山市公報』第999号に掲載されている岡山市告示第23号(町内会長と副会長の選任について)から確認されます)。
横山家から当館へ寄贈された横山昊太氏の資料には、市長在任中の演説の草稿など多くの文書がありますが、今回は岡山空襲時の記録に焦点を当てて紹介し、そのほかは今後整理を進めながら少しずつ紹介して行きます。

横山昊太氏の資料のコーナーの展示風景(壁面に掛っているのは洋画家の岩井新吉氏によって昭和33年に描かれた横山昊太氏の肖像画)の画像

横山昊太氏の資料のコーナーの展示風景(壁面に掛っているのは洋画家の岩井新吉氏によって昭和33年に描かれた横山昊太氏の肖像画)

2.戦時災害救助申請について

「戦時災害救助申請書類」(横山家資料)

横山氏が所持していた岡山空襲に関連する文書の中に、紐つきの厚紙を二つ折りにして表紙にした小さな書類の束がありました。携帯するのに便利な形ですが、表紙には「昭和弐拾年六月六日作製 戦時災害救助申請書類 細堀町内会」とペン書きされています。その周囲には細かい文字でびっしり書き込みがあり、細堀町の住民の避難先と思われる記載が小さな表紙を埋め尽くしています。

「戦時災害救助申請書類」カバーの表紙(横山家資料)の画像

「戦時災害救助申請書類」カバーの表紙(横山家資料)

「戦時災害救助申請書類」カバーの裏表紙(横山家資料)の画像

「戦時災害救助申請書類」カバーの裏表紙(横山家資料)

表紙を開けると、中には半紙の半分くらいの大きさの紙が119枚、重ねられています。通し番号が付せられており、細堀町の全世帯に1枚ずつ用意されていたものです。

「戦時災害救助申請書類」の内容(横山家資料)の画像

「戦時災害救助申請書類」の内容(横山家資料)

表紙に挟まれていたのは、「戦時災害救助申請」の様式1の全世帯分(119枚)の用紙です。その1枚を、個人が特定できないようにして拡大したのが下の写真です。
枠内をみてみましょう。右側は罹災者の情報を書く欄で、一世帯の家族の情報(世帯主との続柄、氏名、年齢)が記され、その下に被害状況と救助種類を続けて記すようになっています。写真の1枚は4人家族のもので、10歳の子どもが空襲で即死し、左側に避難先と思われる住所が少し太い文字で書かれています。
そして左側の欄は「家屋家財の被害状況」とあり、太めの文字で全焼と記されています。枠内の左端は罹災証明の申請様式と落ち着き先(避難先)の記載欄になっています。
この筆跡を、いっしょに寄贈された横山昊太氏の演説原稿等と比べると、右肩上がりの強い癖から本人の自筆と思われます。
文字の太さに着目すると、「細堀」という町内会名と家族情報と被害情報は文字が細く、避難先と家屋家財の被害状況は太字で書かれており、ペンが替わっていることがわかります。厚紙の表紙には「昭和20年6月6日作製」の記載があったので、おそらく、空襲を目前に控えたそのときまでにあらかじめ家族情報が記載されていて、10歳の子どもの死亡を記した被害状況は空襲直後に同じペンで書かれ、少し時間がたってから避難先と家屋家財の状況が別のペンで書かれたのではないかと推定されます。
つまり、空襲を予期して家族情報を記入した申請書が町内の全世帯分、用意されており、6月29日未明の空襲のあと被害状況を把握する努力がなされました。避難先の記載は、空襲の前に書かれていた予定先の可能性も捨てきれませんが、家屋の全焼状況と同じ筆記具で書かれていることから、空襲のあとで住民の実際の避難先を調べ、書き足した可能性が高いように思えます。

「戦時災害救助申請」様式1の内容(横山家資料)の画像

「戦時災害救助申請」様式1の内容(横山家資料)

では、枠の外に印刷されている文字を見て行きましょう。
右の枠外には、

1.災者被害状況ハ即死、瀕死、傷痍、疾病、流産、早産、出産等トス
2.救助ノ種類ハ住宅、食糧、衣服、寝具、医療、助産、埋葬、生活必需品、学用品等トス
3.家屋家財ノ被害状況ハ家屋所有○印全焼、半焼、全壊、半壊等毀損、滅失ノ程度

とあり、被害状況の報告は、あらかじめ定められていた選択肢から選ぶようにして、わかりやすく端的に伝えるようになっています。
左の欄外には、

4.罹災証明ヲ要スル者ハ所要欄ニ代表者ノ職業、氏名、家族人員ヲ記載シ直ニ転出スル者ハ落付先ヲ記載スルコト
5.氏名並数ヘ年並世帯主トノ続柄等ハ予メ記載シ置クヲ可トス

とあり、空襲の後に速やかに被害状況を集計できるように、町内会長はあらかじめ町内の全世帯の家族情報を把握して、この申請書に記載しておくことを推奨しています。

様式1は町内の全世帯に1枚ずつ用意されていましたが、次に写真を掲出する様式2は、町内会長が被害を集計して岡山市へ報告するためのものでした。

「戦時災害救助申請」様式2(横山家資料)の画像

「戦時災害救助申請」様式2(横山家資料)

様式1の枠外に書かれていた項目とほぼ対応して、様式2では、家屋被害(全焼、半焼、全壊、半壊、収容救助)、死傷病者(即死、瀕死、傷病、埋葬救助、医療救助、助産救助)、食品給与、寝具貸与(掛蒲団、敷蒲団)、生活必需品配給(薪炭、マッチ、手拭、炊事具、食器具、蝋燭)、衣服給与(大人、小人)の欄があり、それぞれについて町内全体の人数や数量を集計するようになっています。
左の枠外は、町内会と町内会長の名前を書いて捺印し、「右、申請に及びそうろう」として岡山市長宛てに申請するようになっています。なお、ここに「深柢」とある丸いゴム印は、次に述べる罹災者相談所が学区ごとに国民学校に設置されることとなったので、細堀町が所属し、申請書を提出する罹災相談所が設けられることになっていた学区名(深柢学区)を表示したものとみられます(あるいは戦災後に一部の町内会に改廃と区域変更が行われたので(昭和20年9月20日付の市告示第48号と『岡山市史 戦災復興編』226および229ページ)、変更後の町内会名(深柢町内会)かも知れませんが、その可能性は薄そうです)。
そして右の枠外には小さな文字で、

罹災シタル場合ハ直チニ1表及2表ヲ作成シ所属罹災相談所ニ提出スルモノトス

と印字されていますが、これによって申請書の目的と、それが罹災相談所に関係していることが明らかになります。

すなわち、『岡山市史 戦災復興編』52~54ページに、

「災害救助本部設置
岡山市では空襲必至の急迫した情勢に鑑み、従来厚生課の所管であった戦時災害事務を竹内市長の手許に移し、市長自ら岡山市戦時災害救助本部長となり陣頭指揮をとると共に市役所の諸機構が一体となって機動力を発揮するように改めた。救助本部には総務、救助、配給、食糧、経理、教育、工作、運輸、水道の九係を設け、各係で所管事務につぐ救助計画を立ていつでもその機能を発揮できるように準備した。」

とあり、続けて昭和18年11月12日付の庁内通達第8号から戦時災害救助本部規程の条文を掲載しています。
これは現在でも、大規模災害があると行政職員は平常の業務分担を離れて救助本部の指揮下に入り、それぞれの役割に従事しますが、当時も同様であったことがわかります。
そして『市史』はその次(54~55ページ)に、当時の岡山市公報から戦時災害緊急措置のことを記しています。これは展示した文書の理解にとって重要な情報を含んでいます。

「岡山市の戦時災害緊急措置要項
岡山市では戦時災害扶助規定にもとづき、二十年四月に戦時災害緊急措置要項を決定した。その主なる事項、
戦時災害により町内に罹災者が発生した場合町内会長は応急の保護を加え所属国民学校に設置された罹災者相談所に連絡する。
至急に町内会単位に救護所を設けて応急処置に万全を期する。
町内会長は戦時災害救助申請書(世帯別)によって罹災世帯に所要事項を記入せしめ審査の上さらに戦時災害救助申請書(町内会別)に集計し所属罹災者相談所に提出する。
罹災転出者は町内会長が転出先を適当な場所に掲示する。
罹災者への炊出しは概ね三日間食品給与は五日程度を原則とし救助は二箇月、扶助は十箇年。
医療は十四日間以内を原則とし重体は二箇月まで延長することを得、その後は医療扶助を行う。
戦時災害により傷痍を受け疾病に罹り若しくは死亡した時または住宅、家財の滅失などの場合は一箇月以内に岡山市長を経由し県知事宛に危害証明交付申請書を提出する罹災者には町内会単位に寝具、被服、薪炭等の生活必需物資の給与配給を優先的に行う。(当時の岡山市公報より)」

以上によって、横山昊太氏が残した書類の意義と役割が少し明らかになってきました。災害への準備については、大規模災害に対するこんにちの行政の対応と変わっていないところもありますが、当時は町内会などの住民自治会が大きな役割を与えられており、行政と市民をつなぐ多端な業務の一端を担っていたことが特徴です。戦時の緊迫した状況の中で、考えうるあらゆる方途が講じられようとしていたのでしょうか。
そして『岡山市史 戦災復興編』の103~105ページには、罹災者相談所の設置のことと空襲後の動きが記されています。

「本土空襲が激しくなった二十年五月ごろ(日時の記録が無い)岡山市でも空襲必至と考え、戦災対策を各般にわたって準備したが、その一つに罹災者相談所がある。その相談所は罹災に応じて開設されるもので、戦災の規模や地域又はその状況により、適切な方法をとらねばならぬため、予め罹災者相談所設置要項を定めておき、万一の場合はこの設置要項に基づいて適時適所に相談所を開設する仕組みになっており、六月二十九日の戦災に際してはあの大混乱のさなかに、必要カ所に相談所を開設して罹災者の相談に応じたのである。」

『市史』はこれに続いて、総務課の文書から罹災者相談所の設置要項の主要箇所を書き出しています。それをさらに要約すると、罹災者相談所は原則として国民学校に設けられ、本部は市役所市民課とし、係員は学校職員、市職員、町内会役員から置かれ、戦時災害救助申請書の取扱いや罹災者証明書の交付その他の扶助手続き等を行うことになっていました。

以上をまとめると、岡山市では空襲に備えて町内会ごとに被害状況を把握し、町内会長を通じて行政へ報告させ、その情報に基づいて必要な救援を行い、罹災証明を発行するなどの事務を準備していました。そのため町内会長は町内全世帯の家族の情報の把握に努め、この申請書を通じて被害を申告し、行政の救護が届くように手続きすることになっていました。
しかし、実際に岡山市を襲った空襲は予想をはるかに超えるものでした。中心市街地の8割以上が数時間で燃え、市庁舎も全焼して行政の機能は失われたかにみえます。
『市史 戦災復興編』の125ページには7月7日に緊急開催された連合町内会会議のことが出ていますが、「一般罹災者の住宅については資材供給等の援助不能につき自由に任す」とあり、住宅再建のための資材の支給は不可能な状態でした。しかし戦時災害救助申請は罹災証明書の発行のためには活かされたものとみられます。
そして以後も町内会長は、住む家を失って市外へ避難した住民たちと連絡を取り合い、町の再建のために奔走しました。

3.空襲下で町内会長が担った役割

岡山空襲に関係する横山昊太氏の資料には、このほかに細堀町の住民について3通りの名簿が含まれていました。どれも粗末な紙にペンや毛筆で書かれており、歳月が経過しているので劣化が進んでいますが、空襲下の町内会の状況がうかがえる点で、さきの戦時災害救助申請と並んで貴重な資料です。

「戦災者氏名」は、6月29日の岡山空襲に際して細堀町で被災した人の名簿です。細堀町では22ないし23名の死亡者があったことが後に紹介する『岡山市町別戦災調査資料』に記されているので、ここに書かれている人数はそれよりやや少なく、おそらく被災から程を経ない頃の把握で、空襲による死亡者の氏名とみられます。しかし表題は「戦災者」とあり、他の種類の被災者も含まないか、精査の必要はあります。

「戦災者氏名」1枚(横山家資料)の画像

「戦災者氏名」1枚(横山家資料)

「細堀町民避難先」は、粗末な紙の5枚の罫紙に毛筆で書かれています。市街地の中心部にあった細堀町は空襲で全戸が焼失したため、住民は縁故を頼って市外へ避難していました。後に紹介する『岡山市町別戦災調査資料』によると、町内会長の横山氏は旭東方面に避難を試みますが、結局市街地の西南の東古松に避難し、やがてバラックの町内会事務所を建てて事務を再開しました。
この書類からは、そういう状況にあった町内会長が、住民の避難先を丹念に調べて把握するように努めていたことがわかります。「戦時災害救助申請書類」の厚紙の表紙にも住民の避難先が細かい文字で書かれていましたが、聞き取りをしながら携帯していたこの表紙に書きとめた情報が、名簿に集約されているのかも知れません。
欄外にはペンなどで新しい情報が書き加えられています。刻々と変化する避難先を追加していった様子がうかがえます。
なお、前に『市史』を引いて紹介した「戦時災害緊急措置要項」で、「罹災転出者は町内会長が転出先を適当な場所に掲示する。」ことが定められていましたので、この名簿はそれと関連しているかも知れません。

「細堀町民避難先」5枚(横山家資料)の画像

「細堀町民避難先」5枚(横山家資料)

「細堀町内会復帰者」は、避難先から少しずつもとの町へ帰ってきた人の名簿です。いちど9月15日の時点で書かれ、10月15日の時点の情報を朱文字で加えて改訂しています。
空襲の前は約120世帯が住んでいた細堀町ですが、9月15日の時点では10世帯31名が帰還しています。しかし多くの人は応急の建物で雨露をしのいでいたものと想像されます。
この次に添付ファイルで開くようにした画像は、家族と思われる2名の細堀町民に宛てて届けられる郵便物を、芳田村米倉(現在の南区米倉)の寺院へ転送するように依頼している文書で、これも横山昊太氏が保管してきたものです。

「細堀町内会復帰者」2枚(横山家資料)の画像

「細堀町内会復帰者」2枚(横山家資料)

(3)岡山空襲の記録を残す試み

復興が進められる中で、さしもの戦災の記憶も時とともに薄れて行きます。しかし岡山市では終戦後のきわめて早い時期から被害状況の聞き取り調査をして、戦災の正確な記録を残そうとする動きがありました。そのときに大きな役割を果たしたのが、戦災の被害状況をつぶさに把握していた町内会長でした。

1.昭和21~22年に行われた岡山空襲の被害状況調査

戦後の混乱からようやく落ち着いてきた頃、昭和30年から新編の『岡山市史』の編集が始まりました。その中の1冊として昭和35年に刊行された「戦災復興編」は、以下のことを伝えています(138頁)。

「岡山市の復興がようやく緒につきかけた昭和二十一年の秋、市では戦災史を作る計画を樹て、委員会をつくって被害状況の調査に着手した。用紙さえ不自由なときではあったが担当者岡秀俊は同年十月から翌二十二年三月まで五ヵ月にわたって戦災前の町内会単位に資料の採集につとめ、なまなましい戦禍の記録数百枚を書きのこした。」

また、岡山市議会の歴史をまとめた『岡山市会史』(岡山市議会事務局編)の第3巻の1275頁に収録されている市会議事録の概要でも、昭和21年度の予算案を説明する中で、当時の教学課長が

「社会教育費一万百四十円の内訳は社会教育費九千百四十円、戦災史編纂調査費一千円で、前者は(途中略)、後者については編纂調査費で資料の散佚しない間に取り敢えず調査を進めたいため計上した。」

と答弁しており、『市史』の記述と符合しています。
ところが『市史』には続いて、この調査記録が「当時は諸般の事情で出版するに至らず、未成稿のまま岡山市立図書館の書庫に納められた。」と記されており、進駐軍による占領下の困難な状況や、刊行に要した物資や予算の欠乏などをうかがわせます。
しかし、このときに日の目を見なかった調査の記録は、当時の図書館長で後に市史編集委員のメンバーとしても活躍する吉岡三平氏が編集し、『岡山市町別戦災調査資料』と題した1冊の本にまとめています。こうして岡秀俊氏が実地に回って聞き取ってきた、かけがえのない情報は、当館に伝存してきたのでした。

吉岡三平(編)「岡山市町別戦災調査資料」の画像

吉岡三平(編)「岡山市町別戦災調査資料」

『岡山市町別戦災調査資料』は、前半の約3分の2が岡秀俊氏による調査の記録で、町内会ごとにおおよそ1ページをあてています。訪問先の現場で速記されたノートがそのまま綴じられているように見えますが、素早く書きとめた割には文字は丁寧に、ひとつひとつ字画をきちんと書かれているので、判読で困ることは少ないです。ただし、細かい文字でびっしりと書き込まれており、随所に追加の文や語句が括弧や矢印で挿入されているので、行をたどるときに判断に迷うことが多く、読解は大変困難です。
後半の約3分の1は、吉岡三平氏がさまざまな統計データを集めて付編とした部分です。ちなみに『岡山市史 戦災復興編』111~113ページに「空襲後の死者収容数(累計)」として掲出されている表は、ここに綴じられている手書きの表がもとになっています。市史に掲載されたために、現在でも岡山空襲の死者数として取り上げられるのが通例となっている1737名という数字は、8月6日までの東西両警察署における死者収容数の累計をここに記していたものです。

吉岡三平(編)「岡山市町別戦災調査資料」を開き、岡秀俊氏の調査報告の部分を示したところの画像

吉岡三平(編)「岡山市町別戦災調査資料」を開き、岡秀俊氏の調査報告の部分を示したところ

岡山市では、大正期と昭和戦前期に続いて、昭和30年から3回目の市史編纂が行われました。戦後の新編は昭和33年に『概観岡山市史』が刊行されたのを皮切りに、昭和43年までに全9冊が刊行されました。戦後に激変した社会の様子を新たに描き直すとともに、戦後の新編では特に「戦災復興編」1冊が設けられていて、戦災の記録を残そうとした関係者の執念のようなものが結実しています。この中には昭和21~22年に試みられた戦災被害状況の調査の成果も随所に取り入れられています。

戦後に新編が編集・発行された『岡山市史』(全10冊)の画像

戦後に新編が編集・発行された『岡山市史』(全10冊)

郷土史家で戦中戦後に岡山市議を務め、岡山市史編集委員の一人であった岡長平氏は、著書『続・ぼっこう横丁』(昭和47年、岡山日日新聞社発行)の31~32頁で、戦災被害状況調査の舞台裏に言及しています。

「市立図書館に「戦災調査書」という資料がある。翼賛議員で市会に籍があったころだが、戦災後すぐ新市長橋本富三郎氏に、いま精密な被害調査をしとかんとわからんようになるからと進言したところ、そこは新聞社長だっただけに言下に賛成してくれた。苦しい二十一年度予算のうちからたいまい五千円出してくれたのである。
仕事にあぶれていた民俗マニヤの岡秀俊君に、偶然道で出会ったのと、前館長の吉岡三平君が図書館復興の話を持って来たので、この調査を万事委託したためとで、あんな場合だったが、すべてに行きとどいた貴重な「戦災文献」が残されることになった。
同君が真剣になりだしたのは二十一年の秋口からで、翌年三月の年度内だけで終わったのである。そのあとを吉岡君がひきうけてくれ、図書館を内山下校の講堂入口で開店するテンテコ舞いの最中に整理から補修、編さんまでやってくれたんだからまったく感謝しとる。
長いもんだが二十年前をしのぶためにぜひ読んでもらいたいと思ってる。」

先に引証した『岡山市会史』の議会議事録とは予算の金額が異なるものの(岡氏の記憶違いか?)、合同新聞(現在の山陽新聞)の社長から戦後初の岡山市長に就任して復興に意欲を燃やした橋本富三郎氏が、極度の財政難の中でも戦災の記録の作成に理解を示したことと、岡秀俊氏が現地調査に任じられたきっかけを伝えています。

岡長平『ぼっこう横丁』と『続・ぼっこう横丁』の該当部分の画像

岡長平『ぼっこう横丁』と『続・ぼっこう横丁』の該当部分

このように、岡山市で早くから戦災を記録する活動が組織的に行われたのは、その発案者があったことと、敗戦後の混乱が続く困難な時期にもかかわらず、全町内会を踏査してまわり、聞き取りを行った岡秀俊氏の粘り強い努力があったことと、横山昊太氏の資料が示すように、町内会ごとに空襲の被害を把握して、行政に報告する仕組みが作られており、各地の町内会長が万般を承知していたことが大きかったといえそうです。

昭和21~22年の調査はただちに日の目を見ませんでしたが、戦災の記録を残そうとする意志は関係者の間で持続されました。巌津政右衛門、八丹幸八、土井卓治、外山克郎、岡長平、吉岡三平、国末保一(のち金谷達夫)の各氏を編集委員に迎え、昭和30年から編集が始まった新編の『岡山市史』(全10冊)に、このときの調査を土台に「戦災復興編」(昭和35年刊行)が加えられたことは前に述べました。
編集委員の一人であった岡長平氏は、とりわけ戦災の記録を残す必要を強く訴えていた人ですが、岡秀俊氏の調査の成果が埋もれるのを惜しみ、これを自身の著書『続・ぼっこう横丁』へ縦横に取り入れて読みやすい文章に直して紹介しています(同書32~267頁)。この書物は戦前の岡山のまちを該博な知識と親しみやすい言葉で描き出した『ぼっこう横丁』(昭和40年、夕刊新聞社)の続編をなすもので、両編は対になってあたかも失われていったふるさとのまちへの讃歌と挽歌を奏でているかに見えます。

吉岡三平(編)「岡山市町別戦災調査資料」の細堀町のページの画像

吉岡三平(編)「岡山市町別戦災調査資料」の細堀町のページ

上に写真で掲出したのは『岡山市町別戦災調査資料』の中の細堀町のページです。これよりさらに5行が紙の裏側に書き続けられています。
先にも触れたように、矢印や括弧書きによる挿入句が非常に多いため、文の続き方がわかりづらく、判読は困難をきわめます。それでもかろうじて読み下してみたものを以下に紹介します。

天瀬細堀町
(現深柢中部町内会)
天瀬東町 同本町
荒神町 千日前 七ヵ町合同ス
細堀町
新西大寺町
大雲寺町

当時現在町内会長 横山昊太
昭和二十二年二月二十二日調査
被害家屋数 町内全焼失ス 百戸 (百二十世帯)
倉一棟 外廊ノミ残存ス
正一位稲荷大明神(一坪)三和土地岡山出張所 松村電機雑貨店
出羽理髪店 森下歯科医院(他町ニテ復興)木村内科医院(同)
岡本医院(内科)(同)水月料理店(建築中)中山西洋洗濯(同)
関医院骨つぎ(復興)新興喫茶店(同)上方屋(小西)染物店(同)正本染物商店(同)
鈴木魚店(同)京屋旅館


被害人数 死亡者二十二名アリ避難中ノモノ多シ 他町、西川辺、正覚寺、町内一名 老母、八十才余
濠内 ○○ハル(女)
死亡者名ハ宅ニアリ後日聞ク事トス 塩見貞一、剣持聡(学生)、藤田重太郎
中山→妻子供(息男二名)三名、古賀娘二名、京屋旅館仲居一名、水月仲居一名、光岡(主人)一名
岡本内科医院→子供五名、看護婦二名、入院患者一名
負傷者 軽火傷一名アリ
(遅カツタ)→避難第一トシナサシメタ
最初異状ナク北ノ方面炎上シテ居タ。焼夷弾落下ハ大体早クナカツタ 天瀬本町方面、南町、山田質店辺炎
上シカケ コレヨリ町内ニ延焼シタ。又、千日前方面ヨリモ延焼ス
町内最初ノ落下ハ中央部ノ北、佐藤自転車店即時炎上、此時ニハ町内全部避難シテヰナカツタ 防火出来ズ
各自由ナクナレタ
避難ハ南ト西ノ方面多カツタ。遠方迄逃ゲズ空閑地ニ一団トナツテ居タ元高砂座跡。
→燃エテヰナイ処ニ一時避難シタモノガ其内逃ゲラレナクナツタ。
正覚寺域。妹尾町二十二名。(古賀娘二名行方不明)常磐町ノ角家ノ下敷ニナル
岡本医院七人一処ニテ死亡ス
町内会長最后迄残留シテ子息ト二名ニテ町内半分以上炎上シテ居タ時 旭東方面ニ避難シタ
千日前方面炎上シテ居リ京橋ニ来ルノニ困難デアツタ
国清寺ニ避難セントセンモ炎上中デアツタ
最初ノ食料ハ弘西、三勲、旭東学校数名宛
大元、西ノ方面 避難先(大体全部)ニテ炊出ニヨル
町内会長ハ東古松夜、避難シタ田舎ヨリノ炊出ヲ受ケタ

(これより紙の裏面に書かれた行)
町内会事務所ハ最初二三日後焼トタンバラツクヲ建テ昼ノミ事務ヲ執ル、
復興家屋ハ五十戸アリ其内焼トタンバラツク二戸アリ建築ノモノ二戸。
増築二戸。
現世帯数、五十八世帯 人員二百二十三名アリ
一周年六月二十九日 焼跡ニ集リ慰霊祭ヲシタ(黙禱ヲ捧ゲタ)

次には、岡長平氏の『続・ぼっこう横丁』に紹介されている同じ箇所(79~81頁)をこれと比べてみましょう。

「細堀町 元市長・横山昊太君の町内だ。三和土地、松村電機、出羽理髪、森下歯科、木村内科、岡本内科、水月(料理)、中山西洋洗濯、関の骨折膏薬、新興喫茶、上方屋、洗張(小西)、正本染物、鈴木魚店、京屋旅館などのあった筋である。昔は一米ぐらいのドブ川が流れとった。それで「細堀」とあの辺を呼んどった。
当時の町内会長で、現隣組長の横山君や古田時計と東備電機の両主人から話を聞く。(二十二年二月二十二日)

最初の爆音で飛び起きて表へ出たが、町内は何んのこともなかった。北の方は燃えとった。そのうちに南町の山田質店のへんが焼けだし、千日前からも火ノ手があがった。だいぶんしてから中央部の伍藤自転車店へ焼イ弾が落ちて火を吹きだした。その時は避難完了後で、残っていたのは私(横山)と倅と二人きりでした。京橋まで逃げ出すのに命がけでした。目指した国清寺が燃えとるので東山へ行きました。
死者を二十三人も出して申し訳けがないと責任を感じとる。よく調べて見ると燃えとらん空間地へ避難したのが身の誤謬(あやまち)だったようです。あんな大火事になるとは想像できませんからむりはありません。岡本医院の広い庭の隅で子供が五人、患者一人、看護婦二人が手をとり合って焼け死んでいたのには、みんな総泣きでした。田町橋の下からは骨董屋の塩見貞一君一家の屍体が出て来た。正覚寺では光岡の主人や中山の妻君や子供がやられたように思います。逃げ遅れて水月と京屋の仲居さんがどちらか一人死んでたです。町内の濠で一人、八十余歳の老婦人が死んどられましたが、これはショックによる心臓マヒという診断でした。
このあいだの六月二十九日の一周忌には焼け跡に町内中が集まり、黙禱をささげてこの日を追想し、死者の霊を供養しました。
復興家屋は都計の関係で遅れ、今年の二月に一戸が建て始めで、現在は五十戸、建築中二戸、焼けトタン二戸で、五十八世帯、二百二十三人になっていますが、もとは百戸、百二十世帯でしたからまだまだです。

空襲後は焼けトタンで町内事務所を建て、乗物の不便利なのに困りながら毎日、会長は疎開先の東古松から出張して事務をとった。」

確かに、原文に書かれていないことを補ったり、恣意的な読み取りがある箇所もあって、厳密な読み下しとは言えないものですが、調査記録の内容を踏まえつつ、これを読者のために極力読みやすく改めています。早とちりの多いところは原文が難解であることも割引く必要があるでしょう。
しかし、たとえば新西大寺町の箇所「中銀東南角ノコガノ水槽ノ間ニテ潜ミ」にある「コガ」など、よほど大きな辞書では「酒などを造る大きな桶」と説明がありますが、「中銀の東南角にならんどる桶(こが)の水槽の間に潜み」と書き直されているのをみると、博識な岡長平氏のリライトは調査記録の原文を読み解くための助けになることも多そうです。

2.民俗学の研究者、岡秀俊氏について

岡秀俊氏は民俗学の研究者で、岡山の方言・民謡・地名など、学者として本来の分野で執筆した著書も当館には所蔵されています。戦前から戦後にわたる著書をあわせて展示して、困難な聞き取り調査を粘り強く成し遂げた人のことを紹介します。

岡秀俊氏の著書の画像

岡秀俊氏の著書

上掲の写真にある図書は、いずれも岡山空襲の被害状況調査をした民俗学の研究者、岡秀俊氏の著作です。発表年代順に列挙すると、下記のとおりです。

岡秀俊『備前童謡集』(昭和9年、中国民俗学会発行)
岡秀俊『児島湾方言集』(昭和9年、中国民俗学会発行)
岡秀俊『備前遊戯唄』(昭和10年、中国民俗学会発行)
岡秀俊(編)『備前国小字地名調査報告』第1輯(昭和12年、発行者の記載なし)
岡秀俊(編)『岡山方言 江戸時代』上(昭和25年、岡山民俗学会発行)

どの著書も説明文は簡潔で短く、むしろ各地を回って集めた事例を数多く列挙することに努めているのが特徴です。
『児島湾方言集』では、漁具などの説明のために美しい手書きのイラストも添えています。
この写真の上段中央に写っている『備前国小字地名調査報告書』は、表紙に「谿石文庫」の蔵書印があり、戦前に刊行された旧版の『岡山市史』の編集で中心的な役割を果たした郷土史家の小林久磨雄氏がかつて所蔵していた本です。旧知の間柄だったのでしょうか、この本の見返しの裏には新聞の記事の切り抜きが2枚貼付してあり、それによって岡秀俊氏の経歴がわずかに判明しました。次に掲げるのが記事の写真です。

岡秀俊氏の表彰を報じる新聞記事の切抜きの画像

岡秀俊氏の表彰を報じる新聞記事の切抜き

上掲と下掲の2つの記事は、岡秀俊氏の『備前国小字地名調査報告』第1輯が昭和12年に刊行されたあと(第2輯以降は刊行の形跡なし)、この書物が岡山県郷土史学会から認められて、昭和13年3月28日に岡山県立図書館で開催された通常総会の際に表彰されたことを報じているものです(切り抜き記事のため、2枚とも誌名は不詳)。
記事から岡秀俊氏は、このとき25歳で、岡山女子商業学校に勤めていたことがわかります。表彰は、貴族院議員で中央文化連盟常務理事の松本学氏や、岡山県の萱場知事、高橋学務部長、国富友次郎教育会長らが臨席して盛大に行われたようです。
岡秀俊氏は、民俗学者で備前焼の研究家としても名高い桂又三郎氏から薫陶を受けたようで、桂氏によるこの書物の推薦文があり、桂氏は岡氏の他の著書にもしばしば序文を寄せています。
当時は学問活動というと家産のある裕福な人が携わることが多かったためもあってでしょうか、記事では「刻苦精励」という言葉を使い、苦学者のような称え方がされていますが、自転車を使って各地を調査して回った粘り強さには大きな称賛が寄せられています。
『備前国小字地名調査報告』は、備前国内の字(あざ)の地名を収集した研究の報告書です。児島郡だけは少し手薄になったことを著者が自身で記していますが、広い範囲にわたっての調査であり、労作と呼ぶにふさわしいものです。
新聞の切り抜き記事では、明治時代にたびたび作成された地籍図や土地台帳にもある不正確さを訂正するため、実際に各地を訪れて地域の住民から聞き取りを行い、正確を期した点が大きく評価されています。ここには現在では忘却され、失われてしまった地名も数多く収録されており、地名から地域の歴史の歩みを解き明かすには大変貴重な研究です。
たとえば岡山市中区浜には次の地名があげられていますが、それは古代に条里制がしかれ、早い時期から開発されていた土地であることを物語っています。

上一ノ坪 中一ノ坪 下一ノ坪 下二ノ坪 中二ノ坪 上二ノ坪 上三ノ坪 中三ノ坪 下三ノ坪 下四ノ坪 中四ノ坪 上四ノ坪 上五ノ坪 中五ノ坪 中六ノ坪 下五ノ坪 下六ノ坪 上六ノ坪

大供は次のとおりです。

中道 西中道 駅跡 中道北 カモ 十二丁 森敷 大橋 ヘリ田 田中 胡磨黒 鯨 東畑間 大道端 宮北 中須加 春日沼 宮 宮西 左神 七反地 松ノ木 東浦 買手 村相 前場 東安原 古寺 西出口 東下川田 一ノ向 北浦 西下川田 西安原 足カヤ 平松 九日伝 竹田 大正伝 北橋本 六ノ坪 小正伝 五ノ坪 奉下花 九ノ坪 八ノ坪 十ノ坪 奉役田 三ノ坪 二ノ坪 一ノ坪 西十一 八反地 正田 奉田 奉敷

岡秀俊氏の表彰を報じる別の新聞記事の切抜きの画像

岡秀俊氏の表彰を報じる別の新聞記事の切抜き

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