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(10月~12月)「橋本富三郎氏(元岡山市長、俳人)の活動と書

[2019年10月18日]

ID:17826

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  • 会期
    令和元年10月18日(金曜日)~12月8日(日曜日)
  • 場所
    岡山市立中央図書館 2階視聴覚ホール前展示コーナー

滋賀県出身で、倉敷紡績勤務から合同新聞社社長等を経て、昭和20年11月から昭和22年2月まで岡山市長を務めた橋本富三郎氏(明治19(1886)年~昭和35(1960)年)は、岡山市の戦災復興に情熱を注ぐとともに、俳人としても知られ(号、魚青)、文化面でも多数の業績を残しました。
近年に、橋本富三郎氏の書で、所管替え等により当館の収蔵品となったものがありましたので、この機会に所蔵するさまざまな関連の資料をあわせて展示して、その活動と業績を振り返ることにしました。

経営の手腕と文化への造詣をあわせもつ人

岡山市長の在任期間が短かったためか、こんにちでは橋本富三郎氏の名前を聞く機会が少なくなっているようにも感じられます。しかしその経歴からうかがわれるように、企業の経営や行政の運営において卓抜した手腕を発揮した人であるとともに、俳句に造詣が深く、文化人としての優れた側面もあわせもつ、たぐいまれな人であったと評されます。
橋本富三郎氏は明治19(1886)年に滋賀県甲賀郡水口町に生まれ、早稲田大学経済学科で学び、大正2(1913)年に倉敷紡績株式会社に入社しました。倉敷工場に勤務の後、松山工場、丸亀工場の工場長等を歴任、大正9年から昭和12年まで倉敷中央病院の事務長として経営の建て直しにあたり、昭和12年から倉敷人工絹糸(現倉敷レイヨン)の工場長を務めました。そして昭和14(1939)年10月に合同新聞社(山陽新報と中国民報が合同した新聞社で、戦時中の統制下では岡山県内で唯一の代表的地方紙となり、戦後に山陽新聞と改名)の取締役社長に就任し、岡山空襲後の復旧を指揮するなど、戦時中の困難な時期に経営にあたりました。

1 岡山市長として

岡山市では、予備役の陸軍中将でもあった竹内寛市長が、敗戦後の情勢をみて辞任を申し出ると、しばらくの空白ののち、橋本富三郎氏が推されて昭和20年11月22日に岡山市長に就任しました(終戦後すぐの頃までの市長は、市会が複数名の候補者を推薦し、その中から内務大臣が1名を指名して選出される仕組みでした。民選は橋本市長の次の田中弘道市長からでした)。
橋本市長は、家を失った多数の市民のために簡易住宅を建設するための国庫補助を申請したのを皮切りに、空襲で焼き払われた市街地の復興をめざしました。
市街地にはまだ空襲の火災でできた瓦礫が高く積もり、東中山下にあった市庁舎が焼失したために、市役所は内山下小学校の校舎の一部に間借りしている状態でしたが、最初の復興都市計画案はそのような中で練り上げられ、昭和21年1月21日の市会で発表されました。
この案は、国の戦災復興院で進められていた復興計画のガイドラインに沿ったもので、全国の空襲罹災都市でも同様の動きがあったはずですが、都市の将来の発展を見据えて高い理想を掲げたものでした。その主眼は、空襲のときのような大規模な災害が再び起こったときに木造家屋が密集する市街地で延焼を防止するためと、将来に予想される自動車交通の激増に備えて、幅員70メートルの広幅道路を2本建設して、市街地を大きく3つに分けようとしたことでした。橋本市長は土木と水道を中心とする復興事業を集中的に進めるために市役所の機構の中に復興局を設けて、戦前は朝鮮総督府で都市計画に携わっていた山岡敬介氏を局長に招き、計画の実現に邁進しました。
ところが戦後の経済は混乱をきわめており、岡山市の財政も火の車でした。そして区画整理による減歩率が高く、市民の負担が大きいこの計画案には、時期尚早との声が高まってきました。市会では復興計画案をめぐる綱引きが続けられていました。
そのような状況にあって、進駐軍による占領下では、戦争を指導したとみなされた人物の公職からの追放が図られていました。はじめのうちは戦争の直接的な指導者と極端な国家主義者が対象でしたが、昭和22年1月の勅令で公布された第二次の公職追放では報道機関を含む大企業の経営者までが対象に加えられました。
橋本市長は昭和22年2月22日をもって唐突に辞職しました。当時は一身上の都合とされましたが、上記の状況からみて、橋本氏は戦時中に報道機関の経営者を務めたことから公職追放の対象に加えられたとみられます。
橋本氏が情熱を傾けた復興計画案は後任の市長に引き継がれましたが、市会などでの長い議論の末に規模を大幅に縮小され、いわば身の丈にあったかたちで実現をみることになりました。

橋本富三郎氏肖像(『魚青句鈔』(昭和43年)掲載写真から)の画像

橋本富三郎氏肖像(『魚青句鈔』(昭和43年)掲載写真から)

橋本富三郎氏の肖像(『魚青句鈔』(昭和43年)の掲載写真から)

市長時代の肖像は岡山市役所の3階特別会議室の油彩画が『岡山市史』にも掲載されて知られていますが、これは歿後に橋本氏から俳句を学んだ人々によって刊行された句集に掲載されている、晩年の肖像写真から複写したものです。

昭和20年6月30日付の合同新聞の画像

昭和20年6月30日付の合同新聞

昭和20年6月30日発行の合同新聞

昭和20年6月29日の岡山空襲で岡山市の中心市街地は焼き払われ、市民の犠牲者はおびただしい数に上りました。合同新聞社(戦後に山陽新聞社と改名)も罹災し、中心街にあった本社社屋と工場を焼失しましたが、郊外にあった民間事業者の設備を「疎開工場」として借り受け、空襲の翌日から版型の小さいタブロイド版で発行を続けました。
情報の統制から空襲の被害が軽微であったかのように報道している点はともかくとして、輪転機がうまく回らず、ゆがんで印刷されているところなど、危機の中の切迫した状況を私たちに語りかけてきます。
こうしてこの紙面は、当時の不屈の精神を伝えて広く知られているものですが、このときに社長として陣頭指揮にあたっていたのは、ほかならぬ橋本富三郎氏であったことを強調しておきます。
橋本氏は倉敷紡績と倉敷絹織で経歴を積んできましたが、昭和14年に合同新聞社の杉山栄社長が急逝したため、中国民報以来、経営に大きく関与していた大原孫三郎の推挙で社長に就任したと伝えられています(『山陽新聞社七十五年史』昭和29年、山陽新聞社、302~303頁)。以後、戦時中の困難な時期を経営にあたりましたが、岡山空襲は新聞社社長時代で最大の試練であったかと思われます。

岡山市復興局(編)『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社発行)の表紙の画像

岡山市復興局(編)『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社発行)の表紙

岡山市復興局(編)『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社発行)

橋本市長の時期に作成され、公表された最初期の岡山市の戦災復興計画を広く市民に伝えるために合同新聞社から発行された冊子です。上着のポケットにも入るようなB6判の版型の小さな本ですが、ここには現在では想像もつかないような驚くべき都市計画(その多くは幻に終わったものですが)が記されています。

岡山市復興局(編)『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社発行)の付図の画像

岡山市復興局(編)『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社発行)の付図

岡山市復興局(編)『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社発行)の付図

上述の小冊子『岡山市は如何に復興されるか』の末尾にある折り込みの図を広げた写真です。
この図で特に注目されるのは、大規模災害が起こったときの延焼防止と、将来に激増することが予想される自動車交通に備えて、幅員70メートルの広幅道路が2本、市街地の中心部に通されるように計画されていたことです。名古屋市や広島市で実現をみた100m道路に近い構想が、岡山市でも検討されていたことがわかります。
その1つは岡山駅の前から柳川交差点を経て城下交差点までを結ぶ東西の街路(駅前城下線)ですが、現在は「桃太郎大通り」の愛称が付されており、幅員を70mから50mに縮小して実現をみたものです。それまでは路面電車の線路を除けば片側1車線の道路でした。
他の1つは、新屋敷~大供交差点~大雲寺交差点~新京橋西詰を通る路線(瓦町線)で、現在ここに路面電車を延伸させられないかと、さかんに議論が行われている区間が含まれています。この街路も駅前城下線と同様に当初は幅員70mで構想されていましたが、激しい議論の末に幅員36mまで削られて実現をみたものでした。
また、図の中で斜線が引かれている部分が、大規模な区画整理を施して入り組んだ路地や細街路を整理し、公園や緑地や公共施設の用地を確保して、秩序と利便性を増さしめようと考えた復興事業の対象範囲でした。空襲で罹災した範囲をすべて含むとともに、市街地の南西部にやや広めに対象範囲をとり、国鉄が構想していた標準軌の高速列車(いわゆる「弾丸列車」)の新駅が大元駅付近に設置された暁には、ここが岡山市の新しい玄関口になることを見越して周辺の開発を進めようとしたものでした。しかし、この「新岡山駅」構想は、そののち国鉄が弾丸列車計画を放棄したため実現を見ませんでした。
このほか市街地面積の1割を公園緑地にあてるなど、初期の復興計画は高い理想を掲げたものでした。

岡山市復興局(編)『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社発行)1頁(橋本市長の緒言、前半部分)の画像

岡山市復興局(編)『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社発行)1頁(橋本市長の緒言、前半部分)

岡山市復興局(編)『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社発行)2頁(橋本市長の緒言、後半部分)の画像

岡山市復興局(編)『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社発行)2頁(橋本市長の緒言、後半部分)

岡山市復興局『岡山市は如何に復興されるか』(昭和21年、合同新聞社)1~2頁

この小冊子の冒頭には、橋本市長の「緒言」が収録されています。復興へかける思いが強く高い調子で述べられています。読みやすくするために括弧内の語を補いました。

緒言
我国の都市の多くは、今日まで全く無秩序と言つてもいゝ様な状態で発達して来た。従つて道路網、公園、緑地等の配置、土地の利用方法、建築物、或(あるい)は又(また)地上、地下の諸施設等についても、そこには殆(ほと)んど一貫した方針がなく、保健上は固(もと)より防災能率、何(いづ)れの面から見ても遺憾の点が少くなかつた。
我が岡山市も維新以来無統制な都市形態を以(もっ)て、発展変貌しつゝあつたのであるが、大正十二年都市計画の指定を受け同年十二月都市計画道路網が内閣の認可を得て決定せられ昭和三年事業に着手し昭和十三年一応第一期事業と見るべきものは終つたのであるが、結論として満足すべきものではなかつた。
然(しか)しながら吉備文化の淵叢として交通に、産業に、文教に、西日本の枢要の地位を占めて戦争終了までに尠(すく)なからざる役割を果しつゝあつたのであるが、偶々昨年六月二十九日空襲に依(よ)り一朝にして市域の大半を焼土と化したのである。
かくて戦争は終結した。洵(まこと)に不幸なことではあるが、一面今こそ思ひ切つた、理想の都市を建設すべき絶好の機会である。
将来の日本が平和国家、高度文化国家として、再び世界人類に貢献出来る日のある事を信ずる以上飽迄(あくまで)理想的計画を実施する必要がある。敗戦国の故を以て、将来の計画に対してまで卑屈であつては絶対にならない。
今回の岡山市の復興計画は県、市、当局を主体として衆智を集め、研究しつゝあるのであるが、之(これ)は相当思ひ切つた案である。之が実施の可能は当事者の誤らざる信念と不退転の努力にあることは申すまでもないのであるが市民各位の燃ゆるが如き愛郷の精神と互譲融和の精神とによつて、当面する様々の隘路(あいろ)は克服され初めて此の一大事業は完遂せられるものである。そして我々は再建岡山市を期待しそれから生まれ出づる香り高き文化を我々子孫が享受し得る事を切に祈るものである。
岡山市長 橋本富三郎

確認書(横山昊太氏あての)の画像

確認書(横山昊太氏あての)

確認書

これは橋本氏の2代後に岡山市長を務めた横山昊太氏のものですが、GHQ覚書の「公職従事に適しない者の除去に関する事項」に横山氏が該当しない旨を調査で確認したことを、岡山県知事が本人に通知した文書の貴重な例であり、橋本氏の場合の参考にもなるので展示しています。
連合国総司令部が進めた公職追放は、政府にあって戦争を直接指導した人物や、極端な国家主義者を当初は対象としていましたが、昭和22年1月の勅令を通じて公布された第二次追放では、報道機関を含む大企業の経営者も含められるなど、対象が大きく広げられました。そして米ソの対立が深まり冷戦が始まると、公職追放は左翼系の人物を排除するためにも利用されました。
橋本氏の市長辞職は、当時は一身上の都合と発表されましたが、状況からみて第二次の追放に該当したためとみられます。

岡山市秘書課渉外係で使用された英文タイプライターの画像

岡山市秘書課渉外係で使用された英文タイプライター

岡山市秘書課渉外係で使用された英文タイプライター

かつて広く使われていた、ありふれた機種の英文タイプライターかも知れませんが、箱の内外に「岡山市役所秘書課渉外掛」の付箋があるので、進駐軍との折衝にあたっていた市長直属の「渉外係」の備品であったことがわかります。したがってこれは、おもに岡山に駐屯していた進駐軍の司令部との間で交わされた連絡文書の作成のために用いられたとみられます。
このタイプライターが当館で保存されてきた経緯は詳しく伝わっていませんが、占領下の時代の雰囲気を伝える貴重な証言者です。

2 俳人・文化人として

橋本富三郎氏は、学生時代に俳句を内藤鳴雪から直接学び、昭和3年頃から松瀬青々の『倦鳥』、横山蜃楼の『漁火』、野田別天楼の『雁来紅』に出句していました。これらの俳人は、いずれも正岡子規の門人ですが、中でも大阪の俳人、松瀬青々(明治2(1869)年~昭和12(1937)年)には、深く傾倒しました。そして倉敷紡績に勤めると、その機関誌『倉敷時報』で俳壇の選者を務めました。
橋本氏の作句の盛期は松瀬青々が死去する昭和12(1937)年までといわれ、以後は尊敬する師を失った傷心から、しばらくは俳句から遠ざかるほどでもあったようです。しかし、俳句は生涯にわたって続けられ、昭和30(1955)年1月には古稀を記念して自筆の句集『魚青句鈔』を作成し、知友に配布しています。俳号は、はじめは自身の名前の読みをもじった「風餐楼(ふうさんろう)」を用い、晩年は「魚青(ぎょせい)」を用いました。
昭和23(1948)年2月には、橋本氏の後任の合同新聞社社長で、俳人であり文化面でも活躍した谷口久吉氏(号、古杏(こきょう))らが、会派の別なく誰でも参加しやすい句誌として『合同俳句』(山陽新聞社発行)を創刊すると、その第2号から選者となり、この俳誌の創設に協力しました。
また、ハンセン病患者の療養施設、長島愛生園をを支える活動を行って、「長島友の会」の会長を務めました。そして鎌倉時代に東大寺を復興した俊乗坊重源の遺蹟の顕彰を行いましたが、その碑の除幕式を翌日に控えた昭和30(1955)年5月3日に、自宅で急逝しました。
歿後13年の昭和43(1968)年には、橋本氏から俳句の指導を受けた人々が約300句を集めて句集を刊行し、生前に作成した句集の名前をとって『魚青句鈔』と題されました。
中国民報記者で、戦前に俳誌『唐辛子』を発刊し、岡山における俳句と俳諧史研究の中心として活躍した西村燕々(本名、繁次郎)が、戦後に故郷の滋賀県大津市へ退く際、岡山に関する蔵書を地元へ残すように強く勧めたのも橋本富三郎氏でした。こうして江戸時代以来の岡山の俳諧史研究に欠かせない貴重な文献1286冊が昭和23年に岡山市立図書館へ寄贈され、「燕々文庫」として利用されています。

『俳諧歳時記』(昭和22~25年再刊、改造社)の画像

『俳諧歳時記』(昭和22~25年再刊、改造社)

『俳諧歳時記』(初版は昭和8年、展示品は昭和22~25年の再刊版、改造社発行)

橋本富三郎氏の俳句の師、松瀬青々の著書が当館にも入っていないかと探してみたところ、改造社から刊行された『俳諧歳時記』(春・夏・秋・冬・新年の全5冊)のうち、「秋」の巻は松瀬青々が中心になっており、そのほかに多数の人々が協力して編集されていました。そして「春」と「冬」の巻は、高浜虚子が中心になって編集されています。
俳句の百科事典ともいえる俳諧歳時記は、季語などに対する該博な知識が必要であるうえに、その具体例として取り上げるのに好適な俳句を選択することに編集者の器量がかかっています。
展示品は、昭和22年から昭和25年にかけて逐次刊行された再刊版ですが、「例言」をみると、それぞれの編集主幹は昭和8年の日付で結んでいるので、その年が初版の年代かと思われます。

『魚青句鈔』(昭和30年)の表紙の画像

『魚青句鈔』(昭和30年)の表紙

『魚青句鈔』(昭和30年)の内容の画像

『魚青句鈔』(昭和30年)の内容

『魚青句鈔』(ぎょせいくしょう 昭和30年)

生前の橋本氏が、古稀(70歳)を機に自身で手作りし、知友に配布した句集です。当館が所蔵し、展示している一冊は、郷土史家の巌津政右衛門氏(戦前は山陽新報社の記者として知られ、戦後は夕刊岡山社(のちの岡山日日新聞社)の設立に参加し、岡山市史の執筆や岡山県の文化財保護などで活躍した)から寄贈されたものです。
開いているところを紹介したページには、「凧の子が足袋ふところに戻りけり」の句が書かれています。図版を掲載していない別のページには、ほのぼのとした挿絵も描かれています。

『魚青句鈔』(昭和30年)の表紙の画像

『魚青句鈔』(昭和43年)の表紙

『魚青句鈔』(ぎょせいくしょう 昭和43年)

橋本氏の歿後十三回忌を機に、橋本氏から俳句の教えを受けた人々が中心になって、方々の俳誌に掲載されていた約300句の遺作を集成し、刊行された同名の句集です。
冒頭には高梁市出身の歌人・書家・画家で、元日光町長の清水比庵(明治16(1883)年~昭和50(1975)年)が序文を寄せています。橋本氏は日光へ家族旅行をしたときに、偶然、清水比庵の書に接し、深い感銘を受けてその作者を探しました。やがて同じ岡山県の高梁市の出身の人とわかって深い交友を結び、以後は比庵の芸術の紹介に努めました。
また、山陽新聞に掲載された論説2編もあわせて再録されています。もとは山陽新聞社主催の展覧会に寄せて書かれた文章ですが、俳句への造詣をベースにして、生け花においても季節感が尊重されたことを鋭く論じたもので、橋本氏の豊かな知識がうかがわれます。

『合同俳句』(合同新聞社~山陽新聞社発行)創刊号~第8号の表紙の画像

『合同俳句』(合同新聞社~山陽新聞社発行)創刊号~第8号の表紙

『合同俳句』第2号、8頁、選者就任の辞の画像

『合同俳句』第2号、8頁、選者就任の辞

『合同俳句』(合同新聞社~山陽新聞社発行)

橋本氏の後任の合同新聞社社長で、俳人でもある谷口久吉氏が中心になって昭和23年2月から創刊した俳句誌で、橋本氏は第2号から選者の一人になっています。
ここに掲載した画像には創刊号から8号までの表紙を示していますが、展示では当館に所蔵がある昭和25年2月号まで25冊を出品しています。
第2号には選者に就任したときの辞が掲載されているほか、第3号には橋本氏の俳句に対する考え方がうかがわれる興味深い選評も掲載されていますので、それを以下に掲出して紹介します。括弧内は読みやすさのために補った句です。

『合同俳句』第3号(昭和23年4月、合同新聞社発行、16頁) 選者のことば

  • 本月はなべて佳句乏しく、つらかつた。気を励まし選はしたが及ばぬ感あり。御宥しを乞ふばかりである。春の句の成り難いのは自分も体験する処である。
  • 題詠は練習手段又時として無已(やむなき)場合もあり 必ずしも不可とは云へぬが、併(しか)し動(やや)もすれば観念で捏ね上げる弊に陥る。努めて目前の風物境涯の実感を句にする事が望ましい。
  • 初心者は殊(こと)に写生第一を可とする。主観を詠ずるは難しく危険が多い。斯(か)かる場合主観をよくよく掘り下げ深省して真の自己を洗ひ上げた上にするを要する。併(しか)し恐れてはならぬ。大胆に自由に詠む方がよいのであるが
  • 出来た句を疎略に手放してはいけぬ。由来少し上達すると一句が纏(まと)まればそれで完成と即断し安心し勝(がち)になる。自己陶酔癖から抜け出る事は容易ではない。吟味を重ね所謂(いわゆる)古頭千転、彫琢の工を作(な)すのは勉強である。勿論(もちろん)斯(か)くして句を殺す危険も伴ふが、固(もと)より把握が確(たしか)で、せめ方が厳しければ推敲の研きは工成に至るばかりである
  • 採録句の配列は大体数と住所別の通例による事にしたが、都合により変更もする。配列は一種の技巧と考経(かんがへ)られるが今私にはそんな根気と暇がないのである。
橋本富三郎氏の書「雲和」の画像

橋本富三郎氏の書「雲和」

額装のこの書は、岡山市立中央公民館で保存されてきましたが、このほど閉館に伴い、平成31年2月に当館へ移管されたものです。
橋本氏のしなやかで温和な筆致が認められます。落款(署名)は魚青と記されています。

橋本富三郎氏の書の画像1

橋本富三郎氏の書

さきの書と同様に、平成31年2月に岡山市立中央公民館から当館へ移管になった書です。こちらは軸装です。

橋本富三郎氏の書の画像2

橋本富三郎氏の書

軸装のこの書は、岡山市立岡山中央小学校に統合された市内中心部の4小学校(南方、弘西、内山下、深柢の4小学校)の資料が旧内山下小学校の校舎内に集められて保管されてきた中から、とくに貴重と思われる資料を当館へ引き取り、整理にあたっているものの一つです。4小学校の関係文書、写真、書画などがひとつの空き教室に一緒になっていましたが、そばにあった他の書軸から判断して、橋本氏のこの書は深柢小学校に由来するものかと判断しています。
深柢小学校は岡山空襲で校舎を全焼し、戦後は復興都市計画の中で校地の移転があり、再建にあたっては児童、教職員、保護者、地域の人々の並々ならぬ熱意と努力を要しました。確たることはわかりませんが、深柢小学校では昭和24年の復興祭など、学校再建の節目ごとに開催された行事で多数の人が揮毫した書が残されていますので、これももしかしたら、そうしたものの一つである可能性を考えてみます。

橋本富三郎氏の書「松栄」の画像

橋本富三郎氏の書「松栄」

この書はかなり前から当館で保存されてきたものです。横書きで「松栄」と書かれていますが、軸装になっています。青々とした松が、とこしえに栄えるように、ことほぐ内容の書かと思われます。どういう状況で書かれたのかわかりませんが、深い尊敬を払っていた俳句の師、松瀬青々の名前も思い出されます。

橋本富三郎氏の書の画像3

橋本富三郎氏の書

これも軸装の書ですが、当館でかなり前から保存されてきたものです。魚青と記された落款(署名)に続く印章には七十歳を示す文言がありますので、古稀を記念して自作の句集を作成し、知友に配布したのと同じ頃の作品です。筆致はすこしかすれたようになっており、句集に書かれている文字の筆遣いと共通する特徴があります。

西村燕々『吉備俳諧略史』の表紙の画像

西村燕々『吉備俳諧略史』の表紙

西村燕々『吉備俳諧略史』に寄せた橋本富三郎氏の序文の画像

西村燕々『吉備俳諧略史』に寄せた橋本富三郎氏の序文

西村燕々(著)『吉備俳諧略史』(昭和16年)

岡山を中心とする吉備地方の俳諧史を手際よくまとめたこの書物は、戦前に出版されたもので、体裁は頁数の少ない小著かも知れませんが、ぎっしりと深い内容が込められており、現在でもこの分野の最も重要な研究文献として価値を失っていません。
橋本富三郎氏が敬愛する著者のために寄せた序文は、この書物の内容をよく理解した上で、研究書としての重要性と意義を余すところなく紹介しています。
以下に橋本氏の序文を紹介します。括弧内は読みやすくするために補った句です。

西村燕々著『吉備俳諧略史』(岡山県郷土史学会、昭和16年)序

吉備芸林、郷土文化に於ける俳諧の地位は決して軽いものではない。詩文、和歌に雁行するかどうかは姑(しばら)く措(お)き幽光顕現しなかつた憾(うら)みは俳史研究の不足によるものであらう。われらの知識をもつてしても古(いにしえ)に備中の除風、備前の松後、美作の八千房など優れた作家も尠(すくな)くなかつたし、現代に中塚一碧楼、赤木格堂を産めることも偶然ではないと思ふ。
この未開拓の分野を切り拓いた人は西村燕々先生である。先生は俳人として聞えてゐる外(ほか)、俳史研究に於ては当代斯(き)界の一権威者である。元来俳壇ゆかりの近江出身だが、長く岡山に在住して行余句作と史的研究に没頭し、殊(こと)に吉備俳諧史は先生の研究によつて体系づけられ、多年の業績はまさに集大成せられんとしてゐる。此度(このたび)郷土史学会の請に応じ、その便概を会報に掲載さるゝことになつたのは、吉備俳壇のためにも、文化史資料としても、世人の知識を深め、後学を裨益(ひえき)するところ頗(すこぶ)る多い事と信じ、この推重すべき文献の上梓(じょうし=出版)を欣(よろこ)ぶものである。

江戸時代以来、俳諧を通してさまざまな人士の交流があったことを思うなら、そのことが冒頭の言葉でこれ以上ないまでに簡潔に言い切られていることが感じられますし、そうした吉備の俳諧史の幅広く深い流れを、西村燕々が初めて体系づける試みを行ったことも、要を得た言葉で紹介されています。

橋本富三郎氏の講演録「留岡幸助先生」の画像

橋本富三郎氏の講演録「留岡幸助先生」

橋本氏は早稲田大学に在学中に、東京で高梁市出身の社会事業家、留岡幸助(元治元年~昭和9年)が主宰する巣鴨の家庭学校でアルバイトをしていたことがあり、彼に身近に接してその思想を深く理解していました。これはその体験をもとにして、留岡を紹介する講演を行った記録ですが、残念ながらこの講演録には開催の場所と日時が記されていません。
留岡幸助の人柄や魅力を存分に語る中で、彼が監獄の改善や問題を抱えた少年の保護などについて、書物を集めてよく学び、現実の経験を通して確固とした意見をもっていて、それを政府に働きかけ、政策の中で実現していく手腕のすばらしさを特に熱意をもって語っており、企業の経営者であり、市長の重責を果たした経験のある人が紹介する留岡幸助の人物像が、新鮮な魅力を放っています。

写真画報『長島愛生園』(昭和29年)の表紙の画像

写真画報『長島愛生園』(昭和29年)の表紙

写真画報『長島愛生園』(昭和29年、長島愛生園発行)の表紙

ハンセン病患者の療養施設、長島愛生園から発行された写真誌ですが、題字を橋本富三郎氏が揮毫しています。
現在では隔離政策が厳しく批判されていますが、かつて療養施設には多くの人が慰問に訪れ、善意からの支援が行われてきました。橋本氏もその一人で、「長島友の会」の会長を務めたことが伝わっています。

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