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松田元成、大村盛恒墓所

[2010年2月3日]

ID:6524

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自害した金川城(北区御津金川)の城主松田元成とその家老大村盛恒を弔った墓所で、岡山県指定史跡となっています。

松田元成、大村盛恒墓所

向かって右が元成、左が盛恒の墓塔です

元成と盛恒はなぜ自害したのでしょうか。
15世紀に京で起こった応仁の乱は全国的な戦いに発展し、時代は戦国時代へと移ります。
このような時代背景の中、文明15年~16年(1483~1484)にかけて、瀬戸地域周辺では福岡城(瀬戸内市長船町)をめぐる福岡合戦が起きています。
元成は、山名家との連合軍で、赤松家家臣浦上則国の守る福岡城を攻め、互いに引かずの攻防を繰りひろげていました。
ところが、赤松氏と不仲になった浦上則国は、福岡城を捨て、高田城(兵庫県上郡町)へと引き上げます。

松田・山名連合軍は、福岡城を焼き払い、山名軍は引き上げましたが、松田軍は勝った勢いにまかせ浦上則宗の居城三石城(備前市)を攻め取ろうと兵を進めます。
しかし、松田軍は天王原(瀬戸内市長船町)の戦い、続く千種山(東区瀬戸町鍛冶屋)の戦いに敗れ、手傷を負った元成は光長寺(東区瀬戸町塩納)であえなく自害しました。
一方、大村盛恒は雲州(島根県)の尼子氏へ援軍を求めに行きましたが、時すでに遅く、元成は自害していたため、後を追って切腹しました。

元成の子、元勝は当地に立雲山大乗寺を建立し、二人の墓塔を建て供養したと伝えられています。

現在、光長寺と立雲山大乗寺は残っていません。

なお、千種山の名前は、この戦いで多くの戦死者の血で草が染まり、血草山と呼んだのが、千種山になったと伝えられています。

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