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足守の人物について

[2014年6月26日]

ID:4804

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緒方洪庵と木下利玄

ここ足守は、自然と歴史と文化のまちです。また、足守藩誕生後は代々の藩主が教育に力を入れ、緒方洪庵や木下利玄という幕末~明治期の偉人を生み出す源となりました。

緒方洪庵 1810(文化7)~1863(文久3)

緒方洪庵生誕地の写真

緒方洪庵は足守藩士佐伯惟因の三男として生まれました。父の仕事に伴って大阪に移り、十六歳のときに蘭方医中天遊から蘭学を学びます。江戸に移ってからも坪井信道、宇田川玄真に蘭学を学びました。
二十七歳で長崎に移り、オランダ医師ニーマンに師事した後、大阪に戻り蘭学塾「適塾」を開きました。この適塾からは福沢諭吉や大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介など、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの門弟が育っています。
1849(嘉永二)年に大阪で「除痘館」を開き、翌年に足守藩の要請で足守除痘館を開いて多くの命を救いました。
1862(文久二)年には将軍家の奥医師兼西洋医学所頭取を拝命しましたが、その翌年に五十三歳でその生涯を終えました。
蘭方医として、教育者として数多くの業績を残した緒方洪庵。その面影は誕生の地に建つ像によって偲ぶことができます。

木下利玄 1886(明治19)~1925(大正14)

木下利玄生家入口の写真

木下利玄は、足守藩十三代藩主利恭の弟利永の二男として足守に生まれました。五歳のときに藩主利恭の死去に伴い養嗣子となって上京。学習院、東京帝国大学国文科に学びます。
文学を学ぶとともに、十四歳で師事した短歌革新運動の旗手佐佐木信綱に学び、1910(明治四十三)年には学習院時代の学友であった武者小路実篤、志賀直哉らと共に雑誌「白樺」を発行。白樺派の中心作家として散文や短歌を発表しました。その歌風は「利玄調」と呼ばれ、歌壇に新風を巻き起こすと共に明治大正の文学史に大きな足跡を残しました。
「白樺」廃刊後は雑誌「日光」の創刊に加わり、その後大正十四年二月に四十歳の若さで逝去されました。
木下利玄が生まれ育った家は、今も足守に閑静なたたずまいを見せています。(現在は修復中です)。
数多くの歌から、代表的な一部を紹介します。
『花ひらをひろけつかれしおとろへに牡丹おもたく萼をはなるゝ』
『街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る』
『牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ』
『曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径』

足守に縁の深い歴史上の人物

吉備黒日売

「古事記」に登場する吉備海部直の娘。仁徳天皇の寵愛を受けたが、大后に嫉妬され吉備国に逃げ帰った。黒日売を忘れられない天皇は吉備に赴き、しばしの時を過ごしたという。
同様の話が「日本書紀」に応神天皇と吉備兄媛の物語として収録されている。

栄西禅師 1141(永治元)~1215(建保3)

鎌倉時代の禅僧。吉備津宮の神主賀陽家にに生まれ、足守の安養寺にて得度した後、十四歳のときに比叡山で受戒し栄西と号した。
一旦安養寺に戻った後二度の入宋を果たし、臨済宗を学んで帰朝。京・鎌倉を中心に臨済禅の布教に努めた。また、宋風の喫茶法を持ち帰り、「喫茶養生記」を著した。

寂厳 1702(元禄15)~1771(明和8)

江戸時代中期の僧、書家。足守藩士の家に生まれ、幼少にして僧籍に入る。上洛時に悉雲の講義を聴いたことがきっかけで生涯を悉雲研究に捧げ、宝島寺(倉敷市)の住職となった。書家としても著名で、直截簡明な書風で知られた。

お問い合わせ

北区役所 足守地域センター

所在地: 〒701-1463 岡山市北区足守718 [所在地の地図]

電話: 086-295-1111 ファクス: 086-295-9081

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