会期 令和8年7月9日(木曜日)から8月26日(水曜日)まで
場所 岡山市立中央図書館 2階 視聴覚ホール前の展示コーナー
現在の岡山市域は、児島湾や瀬戸内海を通して広い世界とつながっています。
この土地で暮らす人々は、近海を拓き、長い時間をかけて生活圏を広げてきました。
そこで海の日(7月20 日)にちなみ、所蔵資料から絵図や文書などで海との関わりを紹介します。
四季を通じて穏やかな瀬戸内海。4 世紀に始まる沖ノ島(福岡県)と三輪山(奈良県)の祭祀遺跡が示すように、畿内に生まれた統一政権は波静かな瀬戸内海を通して船を送り、大陸の国家と交渉しました。この航路を確実に掌握するため、政権にとって吉備地方が格別に重要な場所であったことは、ここに残る数々の巨大古墳からもうかがわれます。
豊臣秀吉の全国統一と徳川氏による江戸幕府の開府により、日本近海の航路は安全が増し、航海が活発になりました。江戸時代にはまだ動力を用いない風まかせの航海ではありましたが、沿岸の港の整備や、船舶と船籍の管理、海図や航路図の精度の向上、万一海難にあったときの処理方法の確立など、当時行い得た社会的な方法を尽くして航海の安全を高める努力が払われました。その結果、日本列島を巡る近海航路が整備され、年貢米の廻送などに携わる多数の船舶が行き交うようになり、大坂と江戸が全国からの物資の巨大な集散地に発展しました。
岡山藩では、国家間の交渉で来航した朝鮮通信使の迎接など、政治的な目的では牛窓港を用いましたが、東北地方や北陸地方の物資を大坂へ廻送した北前船など、多くの船籍の船が立ち寄って商取引が行われたのは下津井港でした。岡山船籍の船にも年貢米の廻送などで児島湾を出て大坂や江戸へ出かけるものがあり、備讃瀬戸の沖合は最速で大坂湾をめざす各地の多数の船舶で輻輳しました。
また、瀬戸内海の航路はその先で長崎へ続いており、ここから世界へつながっていました。
![[備讃瀬戸の図]の画像](./cmsfiles/contents/0000084/84019/bisanseto.jpg)
[備讃瀬戸の図]
江戸時代後期か(年記なし)
図の上の方が南(四国の側)で、下の方が備前国(児島半島)です。塩飽諸島は赤色、直島諸島は白色で示されています。児島半島の沖に引かれている朱線が、東北・北陸の各地から来航した北前船が大坂湾へ直行するのに利用した航路の幹線とみられます。
中央の下方に「下津井より所々へ道のり」として各地への距離が記されており、この港町で海事に携わる人のために描かれた図とわかります。 (松田久子氏寄贈品)

「外七番友右衛門船大坂ゟ(より)帰懸(かえりがけ)西宮ニ而(にて)破船仕(つかまつり)浦手形并(ならびに)御注進(ごちゅうしん)書写」
天保8年(1837)
沖新田の外七番村の友右衛門は船一艘で商売をする船頭でしたが、岡山で鱧(はも)を積み入れて大坂の商人に売却し、代わりに線香の原料の粉などを積んで帰る途中、西宮の付近で暴風雨に遭遇し難破しました。
すると沿岸の村の役人たちが人足を出して友右衛門と乗組員たちを救助し、散乱していた荷物も集めてくれて、友右衛門が所持していた浦手形を確認すると、当時の取り決めに従って、残った船具や積荷を売り捌いて金銭に換え、その十分の一の額を彼らに支払うことで事後処理が円滑に進められました。
沿岸の村々の役人たちからは、法令に従って処理したのでそれ以上の謝金を払う必要はないと言われ、浦手形を返却されたので、友右衛門たちは厚く礼を述べ、便船を得て帰国したのでした。
この文書は友右衛門から事情をきいた故郷の村役人が岡山藩へ行った報告の控えです。 (藤原文庫096.8/76)

「備前岡山神力丸漂流本人之口書」(または「備前漂流人一件本人之口書」)
天保3年(1832)
岡山藩の年貢米を廻送していた神力丸が文政13年(1830)に嵐にあって遭難し、太平洋を漂流してパタン国(ルソン島)に流れ着きました。乗組員19名のうち5名は水難で落命しましたが、14名が現地の人々によって助けられ、中国の定期船に乗って2年後に帰国することができました。
遭難時の状況や、言葉が通じない現地の人々と懸命にコミュニケーションをとる様子、パタン国の地方の行政官が漂流者を見つけると保護して故国へ送還する手続きをとっており、こうした取り決めが関係国の間で整備されていたこと、長崎奉行が帰国者を審問し、ねぎらった上で、呼び寄せていた岡山藩の担当藩士に付き添わせて故郷へ帰還させたことなどが綴られています。
この書物は漂流者が帰還後に岡山藩の役人へ申し述べた内容が書き写されて広く流布したものとみられ、多数の写本が各地に残っています。 (資料番号37917)
「・・・一同恐れ入り、これは殺すやとぞ・・・口赤く流れしは大分残りのものを食い殺すことかなと恐るるところ、左様にもなく、かの唐人我々に何やら咄(はなし)する様に見え候(そうら)えども、一向こと(言)ぞ分かり申さず、日本かと申し候(そうろう)ように聞こえ候につき、この方より手の指を二本出して見せ候ところ、うなづき、日本人と推量致し候やと存ぜられ候。
(途中略)
・・・正月六日にこの所出帆の積もり相極まり候(そうろう)あいだ、この段申し渡され候。皆々悦び申し候ことにつき、大将(セニヨル ※このときは病中だった )の所に御暇乞いに参るよう申し来たり。十四人の者、大将の枕元に手をつき、永々御厚意に相成り候御礼申し上げ候ところ、大将も頭を上げ、十四人の顔を見て涙を流し・・・一生の別れに相成り候ことを歎き申す趣にて感涙致し候。又、土産として十四人へ巻きたばこ五つづつ下され、そのほか羹など出して門出の印とて皆々食べ申し候。その終にて礼義を致し、ともに名残の出立致し候・・・」
江戸時代後期に岡山藩領の寺子屋で暗唱された「備前往来」は、詳しい成立年代がわかりませんが、「さても備前岡山は 往古より有名の府なり、およそ六十余町 甍を並べ、以来年々繁華にして、事物の自由 京・大坂に異ならず」で始まる歯切れのよい口調の中に、岡山城下の繁栄と、領内各地の産物の豊かさを謳いあげています。
この「産物尽くし」の前半では、児島湾や瀬戸内海と河川や湖沼で獲れる水産物が列挙されており、「日比の鯛(たい)・鰆(さわら)、金岡川の鱒(どじょう)、牛窓の烏賊(いか)、下津井の蛸(たこ)、虫明の海鼠(なまこ)、宇藤木(うとうぎ)の牡蛎(かき)、八浜の鰻(うなぎ)、阿津北浦の鮩(あみ)・水母(くらげ)、平井の白魚(しらうお)、額鹿瀬(がくがせ)の蜆(しじみ)、川口の鱸(すずき)、坂根の鯉(こい)、野殿の鮒(ふな)、牟佐の鮎(あゆ)、島浦の海老(えび)、雑喉(ざこ)、辛螺(にし)、栄螺(さざえ)の類・・」と続いています。
児島湾沿岸の多くの地域は、近世以降に大規模に進められてきた干拓事業によっていまでは広大な農地に変えられていますが、かつては遠浅の海が広がる豊かな漁場で、人々の暮らしを支える数々の海産物を産していたのでした。
とくに旭川の河口に近い平井村の汽水域では、冬の厳寒期に上質の白魚が豊富に獲れ、食卓に季節の彩りを添えました。しかし児島湾の開墾が進み、次第に漁場が失われてゆくにつれて、この白魚や鰻など、かつて岡山の名産として全国に知られていた魚種の多くがその姿を消し、人々の記憶からも遠ざかってきました。

岡潔矩(序、校訂)「備前往来」
天保7年(1836)
岡山藩領内で寺子屋の教科書に使用された「備前往来」は、文政年間の写本が存在するものの、岡潔矩が校訂した版本が天保7年に出版されて普及しました。
口調のよい言葉で書かれ、岡山城下の繁華に始まって領内各地の産物(水産物、農産物、工芸品)を列挙しています。この中で取り上げられた児島湾内外の海産物は、岡山では子どもの頃から唱えられ、記憶に刻まれてきたものです。 (資料番号35741)

(三世)歌川広重(画)「大日本物産図会 備前国白魚漁之図」
明治10年(1877)
日本各地の名産品とその製造方法を描いた錦絵(多色刷り木版画)の連作に含まれる、備前国の白魚漁を描いた一枚です。
かつて児島湾は白魚の名産地として全国に広く知れ渡っており、それは岡山の海の幸を代表する魚種でした。白魚漁は篝火を燃やす小舟から四手網を下ろして行われた、厳寒期の風物詩でした。 (資料番号2004674)
![[児島湾の漁場の図]の画像](./cmsfiles/contents/0000084/84019/kojimawangyojo.jpg)
[児島湾の漁場の図]
宝暦8年(1758)以後、文政6年(1823)以前
この絵図は上が南(児島半島)になっています。
児島湾の東部では岡山藩が江戸時代前期に沖新田などの干拓を進めましたが、各藩の領地が接する西部では権利をめぐる紛争が続き、文政年間の興除新田まで大規模な開発が行われませんでした。
この図は岡山藩(備前、黄色)と庭瀬藩(備中、桃色)の境界を定めた宝暦8年(1758)の幕府裁定図がもとになっており、これに海中の澪(水尾)筋に設けられた漁の仕掛けが描き重ねられています。裏面には児島半島の北浦村の名主の名前が記されています。
湾内の漁の仕掛けはもともと児島半島の村々に権利がありましたが、備中の村々でも沿海に仕掛けをする者が現れるようになって、文化年間(1804〜1818)には争論になっており、確定的なことはわかりませんが、もしかしたらこの図はそれに際して作成されたのかもしれません。
その後の文政6年(1823)に完成した興除新田がここにはまだ描かれていないので、この絵図はその間の児島湾内の状況を示しています。 (令和6年度の新収蔵品)
記録がよく残るようになった近世以降に限っても、遠浅の海が広がる児島湾では各地で干拓による大規模な開墾が行われてきました。これにより豊かな漁場の多くが失われましたが、代わって多くの人々の食糧を満たす広大な農地が作られ、児島湾は穀倉地帯に変わりました。
かつて岡山藩では、津田永忠が沖新田の開発を進めようとしたとき、熊沢蕃山はこれに反対し、百間川の下流域を干拓堤防で締め切ると上流の農地が水害に見舞われやすくなることや、漁業者の生活を守る必要を主張しました。しかし永忠は優れた土木技術の導入によってこの障害を乗り越え、漁業者には適切な補償をすればよいとして事業を強くおし進めました。開発か保全かという現代にも通じる重い課題が、このときすでに鋭く論じられていたのでした。
海上からはなかなか見えませんが、陸上の河川からの水の流れは海の中にもそのまま続いています。これは澪(みお。「水尾」とも書く)と呼ばれ、船の通路になったり、魚を獲る仕掛けをする場所になったりします。
干拓工事が完成すると、それまでの澪筋が悪水(使用済みの汚れた水)の排水路となりますが、干拓で新たに作られた農地には、しばしば水利権がないため、用水(これから使用するきれいな水)をいかにして確保するかが常に大きい課題でした。
![[妹尾地区を中心とする水路の図]の画像](./cmsfiles/contents/0000084/84019/senooyousui.jpg)
[妹尾地区を中心とする水路の図]
明治9年(1876)以後、明治14年(1881)以前
干拓などで新田が開かれるとき、重要な問題だったのは用水の確保でした。
この絵図には年記がありませんが、記入されている村々の名前から判断すると、明治10年代前半頃の水路の状況が示されています。図の中央よりやや下で東西に長く広がっている範囲を占めているのが興除新田で、そのさらに南側の海面では、明治初期の開墾に続いて、さらに近代の大阪の藤田組による大規模な干拓工事が行われました。
この1枚の図からも、長い歴史の時間の中で陸地に近い浅い海から段階的に開発が行われ、水路を残しつつ耕地化が進んできた様子がわかります。 (町村文庫 興除096.14)
現在の児島湾の西部には、近代になってから大阪の藤田組が請け負って造成された広大な干拓地がひろがっています。旧藤田村から当館へ移管された写真によって昭和14 年頃の藤田干拓の工事の様子を紹介しています。

藤田組による干拓工事(締切堤防の建設)の様子
昭和14年頃
演題 「児島湾の昔の暮らしを知る資料」
日時 令和8年8月1日(土曜日) 午後2時から午後4時まで
場所 岡山市立中央図書館 2階 視聴覚ホール(参加自由、事前の申込受付なし)
講師 岡山市立中央図書館 主査学芸員 飯島章仁
所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]
電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093