会期 令和8年5月21日(木曜日)から7月5日(日曜日)まで
場所 岡山市立中央図書館 2階 視聴覚ホールの前の展示コーナー (観覧無料)
岡山医学専門学校(現在の岡山大学医学部)の高橋金一郎教授は蔵書家として知られていました。膨大な書物は氏の歿後に岡山市立図書館へ収蔵されましたが、昭和20年の戦災で多くが失われ、直前に疎開されていた約100冊が罹災を免れています。そこでこのたびは、それらを通して明治時代に学んだ医学者の幅広い知識への関心をご紹介します。

大正7年12月頃の高橋金一郎の肖像写真(坪田鳴水「高橋金一郎言行録」より)
高橋金一郎は、慶応2年に下野国(現在の群馬県)で代々医者を輩出した家に生まれ、東京大学医学部に入学し、帝国大学に改組された同校を明治23年に卒業するとその助手に採用され、明治政府が招聘したドイツ人医師ユリウス・カール・スクリバに学びました。そして明治26年には第三高等中学校医学部に採用され、赴任しました。
岡山にあったこの学校は、当時は西日本における医学教育の中心的施設でしたが、やがて組織の上でも京都の第三高等学校から独立し、明治34年には岡山医学専門学校となって、その後もさまざまな改組を経て現在の岡山大学医学部につながってゆきます。
高橋金一郎は大正7年まで岡山医学専門学校で教授を務め、外科学、皮膚病学、花柳病(性病)学を担当しました。ただし学位には無頓着で、博士号をなぜ取得しないのかと尋ねられると、それより先に大博士を取得するからと返していたそうです。
このように、高橋は専門の医学や、それを取り巻く人間社会をめぐって独特の見解をもっており、当時の人々からは奇人と認識されることも多かったようです。頭脳の明晰な人で、語学に優れ、国内外の書物を短時間で読み通し、医学と語学の分野では著作も多く残しています。岡山医学会雑誌の編集主幹を長く務めたため、医学に関するさまざまな考えを巻末の雑録にしばしば記していますが、とりわけ医者の倫理には深い関心を寄せており、ドイツ人医師フーゴー・フォン・ツィームセンが若い医師たちのために著した書物を「チームセン医則」として翻訳し、南江堂から出版して紹介しています。
彼は岡山県内で最初に自転車を使用した人といわれ、各地を回って実際の知見を集めました。国内外の書物の収集は大変有名ですが、刀剣や古器物や各地の玩具などにも興味をもち、集めていました。そして川柳にも取り組み、文芸を通して親しい友人を作っていました。

C・デモクリトゥス(著)「アダムの堕落、および罪とすべての悪の起源についての物語」1736年 扉
著者は神学者ヨハン・ディッぺルの変名とみられ、教会から異端視された思想を擁護する内容です。出版地も荒地(Wüsten)と記されており、本当の出版地が秘匿されています。
バルトロマエウス・エウスタキウス(著)「解剖図譜」1722年 扉
ルネサンス期のイタリアの医学者の解剖図が18世紀になって集大成され刊行されたもので、後世に大きい影響を与えた書物です。
バルトロマエウス・エウスタキウス(著)「解剖図譜」1722年 解剖図の1枚
ラウレンツ・ハイスター「外科書」1724年 扉
ドイツの医学者が集大成した外科学の書物で、前野良沢や杉田玄白らに大きい影響を与えました。

C・フーフェラント(著)「医学必携・臨床入門」1851年(第9版)
著者はベルリン大学教授を務めたドイツの医学者で、足守出身の蘭学者、緒方洪庵が「扶氏経験遺訓」と題して翻訳・紹介した臨床医学の書物です。
高橋は、大正7年9月に岡山医学専門学校を辞職して市内の石山に外科病院を開業し、あわせて念願のドイツ語辞典の編纂に打ち込みました。しかしそれから間もない大正8年2月16日に突如亡くなります。医学専門学校からはそれまでにかかっていた病が急に重篤になったためと発表されましたが、言行録に記されているところでは、所持していた日本刀で自殺を企てており、その3日後に治療の甲斐なく帰らぬ人となりました。自殺の理由については謎が多く、辞典の編纂が思うように進まないのを深く悩んでいたという証言もありますが、はっきりしたことはわかっていません。
後に残されたのは膨大な蔵書でしたが、生前の彼の活動を公私にわたって支えた梅野夫人がその散逸を惜しみ、ゆかりの岡山で整理公開されることを望んで前年に開館したばかりの岡山市立図書館(当時の名称は岡山市立岡山図書館)へ相談をされたため、当時の中山寛市長が市会へ諮って書庫などを増設する予算を措置し、大原孫三郎など多数の人々からも寄付金が寄せられて、同館で特別文庫として収蔵されることになりました。
それから岡山市立図書館では、大正10年に図書を一般に公開するとともに、翌年までに和漢の図書10,678冊について目録を完成させましたが、ほぼ同数の10,298冊を数えた外国語図書については目録の作成に至らなかったようです。
戦前の岡山市立図書館は旭川の東岸の小橋町にありましたが、昭和20年6月29日未明の岡山空襲で罹災し、それまでに収蔵していた図書の大半が建物とともに失われました。しかしその直前から重要図書の疎開が始められていて、第一便として約300冊が現在の中区沢田にある恩徳寺へ運ばれていたため、この中に含まれていた高橋文庫の100冊あまりの図書が焼失を免れました。それらは当初20,974冊を数えた冊数の約200分の1でしかありませんが、当時の図書館員が最初の疎開の候補に選んだだけあって、貴重な書物が取り上げられています。
わずかな部分になってしまったとはいえ、それでも残された書物からは、明治期に学んだ一人の医学者の知性をうかがうことができます。知識への飽くなき渇望と、専門の医学だけに限られない、人間存在を取り巻くさまざまな事象への幅広い関心のあり方には、いまも多くの人が深く心打たれるのではないでしょうか。

O・ダッペル(著)「都市アムステルダムの史的記述」1663年 挿図の1枚

A・モンタヌス(著)「東インド会社遣日使節紀行」1669年 扉
日本を訪れたオランダ商館員らの報告をもとにまとめられたこの書物は、織豊時代から江戸時代初期までの日本の歴史が記されており、早い時期に日本を紹介した書物として後世に大きい影響を与えました。

A・モンタヌス(著)「東インド会社遣日使節紀行」1669年 挿図の1枚
銅版画で作成された数多くの挿図の中で、これは大坂城を描いたものです。

E・ケンペル「日本帝国の自然、社会、宗教の歴史(日本誌)」(仏訳版)全3巻のうち第1巻の扉 1732年
江戸時代に日本を訪れたオランダ商館長が残した有名な記録ですが、オランダ語の原語より英語版が先に刊行されており、これはそれをさらにフランス語に訳した版です。

M・C・ペリーと乗組員(著)、F・ホークス(編)「ペリー艦隊日本遠征記」1856年
黒船艦隊を率いて日本を訪れたペリー提督の米国海軍使節がまとめた公式の報告書です。琉球と日本の習俗について詳しい情報が記されています。

ペリー提督指揮下の日本遠征艦隊乗組員(編)「水路誌と航海上の註記」1857年
ペリー艦隊遠征記の1冊で、江戸幕府との間で交わされた和親条約の原文がファクシミリ版で収録されています。
当初は2万冊あまりが存在した高橋文庫の書物の中で、現在の時点では、外国語図書が50冊、日本語図書が52冊からなる、合計102冊の書物が現存するのを確認しています。
このうち外国語図書には、高橋が得意にしていたドイツ語のみならず、オランダ語や、フランス語、英語、ラテン語で書かれた書物があり、欧米の諸言語にわたっています。
内容も多岐に及び、専門の医学はもちろんですが、そのほかにも世界各地の探検記や、アムステルダムの都市史、各地の民族誌、キリスト教の教義に関する書、武具の歴史の書、数学と動植物の書、ナポレオン法典や刑事手続の書、語学(オランダ語、ドイツ語、ラテン語、中国語)の辞書や文法書など、人間の社会、習俗、文化等に関わる多方面の書物が集められています。この中にはモンタヌスの日本誌や、オランダ商館長ケンペルの日本紀行の仏訳版、ペリー艦隊の公式の遠征記、フランスの東洋学者ギメの「日本逍遥」など、日本を欧米世界へ紹介した古典的著作が多く含まれています。
専門の医学には、ルネサンス期の解剖学者で後世に大きい影響を与えたエウスタキオスの「解剖図譜」や、前野良沢らにも影響を与えたドイツの外科医ハイスターの「外科書」、緒方洪庵が苦心して訳出したベルリン大学教授フーフェラントの「医学必携」など、医学史を飾る数多くの名著の原典が含まれているほか、包帯の使用方法や性病に関する学術書など、高橋が専門にした領域の図書もあります。
和書に関しては、江戸時代の蘭学者がオランダ語を学ぶために使用した文法書や、ドイツの法令を紹介する書物もありますが、自転車で県内の各地を回り、実地に見聞することを大切にしていた人だけあって、地理や地誌に関する書物が数多く含まれています。
このうち岡山藩士で農政に通じていた石丸定良が著した備前藩の地誌書「備前記」の写本は、原本が成立した翌年に書写されたもので、著者の自筆本が失われている現在はその最良のテキストとして貴重なものです。
作者不詳「吉備前秘録」、小寺清先「備中名勝考」なども地誌の重要な書物ですが、近代に入ってから出版された岡山市内外の案内記や郷土の人物誌も多く、現在では入手が困難な書物もあります。
「萬宝雑書大全」は、幕末の文久年間に江戸幕府の使節に選ばれて渡仏したものの、欧州の文明に接して開国の必要を悟り、帰国後にそのことを幕府へ強く進言したため蟄居を命じられた悲劇の人、池田長發がその後の折々に記した覚え書きです。
このほか高橋金一郎は川柳に親しんでおり、歿後に彼の言行録をまとめて出版した坪田鳴水は、文学を通じて交際のあった親しい友人でした。そのため江戸時代の川柳の書「柳樽」の各シリーズが高橋の旧蔵書には含まれています。

石丸定良「備前記」全9巻
元禄17年(1704)(巻四は元禄13年) 宝永2年(1705)書写
これは岡山藩領内の地誌をまとめた書物です。各巻をそれぞれの郡にあて、村々の位置、地形、石高、人数、史蹟などが記されていて、元禄期頃の領内の状況がよくわかります。著者は岡山藩で長く農政に携わった藩士で、晩年に「備陽記」も著しています。高橋金一郎旧蔵のこの写本は原著が成立した翌年に書き取られた写本で、著者の自筆本の行方がわからない現在、この書物の最良のテキストを伝える写本として貴重です。

池田長發「萬宝雑書大全」 明治元年(1867)
著者は備中国井原の旗本で、幕末の文久年間に鎖国中の幕府から遣欧使節に選ばれて渡仏したものの、欧州の文明に接して開国の必要を痛感し、帰国後にそのことを幕府に強く進言したため蟄居を命ぜられて政治的生命を失うことになった悲劇の人物です。この書にはその後の折々の覚え書きが記されています。

川崎源太郎「山陽吉備之魁 上道郡」 明治16年(1883)
大阪府堺の川崎源太郎が出版した市街と繁昌する商店の案内書で、これは備前西大寺を中心とする上道郡の地域の版です。

八島岳翁「画本柳樽」(外題「柳樽 絵草紙」) 初編から五編まで(5冊) 天保12年(1841)
高橋金一郎は川柳に親しんでおり、歿後に言行録をまとめてくれた俳人の坪田鳴水など、文芸を通した親しい友人がありました。蔵書には江戸時代の川柳の本、柳樽のシリーズが数多く含まれています。

高橋金一郎の歿後、図書を整理する梅野夫人と手伝いのお松さん
(坪田鳴水「高橋金一郎言行録」から)
令和8年6月20日(土曜日) 高橋金一郎氏が収集した書物
令和8年7月4日(土曜日) 岡山藩領の地誌書について 「備前記」を中心に
いずれも
時間 午後2時から午後4時まで
会場 岡山市立中央図書館2階 視聴覚ホール (参加自由、聴講無料)
講師 岡山市立中央図書館 主査学芸員 飯島章仁
所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]
電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093