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(4月ー5月)「時代をみつめた明治の画家 岡本常彦」

[2024年4月12日]

ID:59219

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概要

会期  令和6年4月4日(木曜日)から5月19日(日曜日)まで

会場  2階視聴覚ホール前 展示コーナー

 岡本常彦は、文化13年(1816)に都窪郡水江村(現在の倉敷市水江)に生まれ、京都で叔父の画家、岡本豊彦に師事しました。

 幕末から明治へ移る時代の動きを目撃し、明治24年(1891)に没するまで岡山などで活動したこの画家を、当館の所蔵品で紹介します。


1 岡本常彦の叔父、岡本豊彦と関連の画家たち

 江戸時代後期に京都の画家、円山応挙が創始した写実を追求する画法は、それまでの絵画の常識を変える斬新なものでした。応挙とその門下で四条通りに画室を構えた松村呉春が進めたこの画風は、円山四条派と呼ばれ、現代の日本画の直接の源流ともいえます。

 岡本常彦の叔父で、呉春の高弟となる岡本豊彦(安永2年(1773)生、弘化2年(1845)歿)は、都窪郡水江村(現在の倉敷市水江)に生まれ、高松出身で玉島に来住していた画家、黒田綾山から最初に画技を学びました。そして寛政10年(1798)に父が亡くなると京都へ上り、松村呉春に入門して、師の作品をすべて模写して学習したと伝えられるほど熱心に研鑚を積みました。

 呉春の歿後は、岡本豊彦が円山四条派の中心的な画家となり、京都の錦小路に開いた画塾で多くの門弟を育て、特に塩川文麟、柴田是真らが活躍しました。塩川文麟の門下が幸野楳嶺で、その門下が竹内栖鳳、さらにその門下から小野竹喬、池田遥邨らが育ちました。

 また備中から所縁を通じて豊彦に入門する人も多く、現在の倉敷市出身の古市金峨が故郷に帰って活躍したほか、豊彦の甥の岡本常彦も京都で叔父から画技を学び、明治期には岡山などで活動しました。

 当館には岡本豊彦の作品こそありませんが、関連の画家として、豊彦が最初に学んだ黒田綾山、邑久郡出身で豊彦とともに呉春に学んだ柴田義董、黒田綾山と柴田義董に学んだ白神皥々、および柴田義董に学んだ大原呑舟の作品を紹介します。


展示品

黒田綾山(画)「群馬図」

黒田綾山「群馬図」の画像

 黒田綾山(宝暦5年(1755)生、文化11年(1814)歿)は、池大雅の門人で、大坂で活躍した福原五岳から南画を学びました。生まれたのは讃岐国の高松ですが、20歳代後半に玉島に立ち寄ったのを機に、以後没するまでの30年あまり、ここに定住して活動しました。そして近辺を出身地とする岡本豊彦、白神皥々、小野雲鵬らを優れた画家に育てました。
 なお、中国・華北の宮廷画院で発達した謹厳な画風(院体画)に対して、華南で在野の文人が発達させた自由闊達な画風を南画(文人画)と呼びます。日本へ伝わった南画は、江戸時代に池大雅と与謝蕪村が大成させ、岡山地方へは黒田綾山が本格的に伝えました。
 柳樹の下の群馬を描いたこの作品は、細部まで丁寧に描かれて気品を備え、色彩も豊かです。(書画 A2-55)

白神皥々(画)「山水図」 天保12年(1841)

白神皥々(画)「山水図」の画像

 白神皥々(安永6年(1777)生、安政4年(1857)歿)は、窪屋郡中島村の豪農の家に生まれ、少年であった天明6(1786)年頃から玉島に来住していた黒田綾山に画技を学びましたが、岡本豊彦も皥々を介して綾山に学ぶようになりました。
 皥々は文化8(1811)年かその翌年頃から京都へ出て松村呉春の弟子の柴田義菫から学び、このときから皥々と改名しました。30歳代半ばから画名が高まり、漢学者の頼山陽と親交を結びました。京都、高砂、生野、大坂と居を移し、弘化2(1845)年に病を得て帰郷するまで画業に取り組みました。この山水図には、微妙な墨の濃淡で描き分けられた、穏やかで静かな世界が広がっています。(書画 A2-4)

柴田義菫(画)「豊干禅師、寒山、拾得、虎の図」

柴田義菫(画)「豊干禅師、寒山、拾得、虎の図」の画像

 柴田義菫(安永9年(1780)生、文政2年(1819)歿)は、邑久郡尻海村(現在の瀬戸内市)出身で、少年の頃から京都へ出て松村呉春に師事し、人物画を得意としました。岡山では児島半島の瑜伽山蓮台寺で他の画家と分担して作画しており、杉戸絵の唐獅子図が知られています。
 展示品は、墨を薄くぼかして濃淡だけで形象を描く没骨画と呼ばれる技法のため、最初はぼんやりした印象も受けますが、人物や虎に機智の利いた表情があり、構図も巧みに組み立てられています。渓流のほとりの松の樹の下で、豊干禅師と弟子の寒山、拾得が、虎とともに熟睡し、悟りの境地(静寂)を表す「四睡図」という主題をもとにしながら、4者を生き生きとした目覚めの表情で描いています。(書画 A2-13)

大原呑舟(画)「達磨禅師図」

大原呑舟(画)「達磨禅師図の画像

 大原呑舟(生年不詳、安政4年(1857)歿)は、津軽出身で松前藩に仕え、京都で活動した画家、大原呑響の子(あるいは養子)と伝わります。
 柴田義董に師事し、玉島出身で少年期に黒田綾山に学んだ小野雲鵬と同居して修業したことから、おもに京都で活動しましたが、岡山地方の人々と親交があり、誓願寺(倉敷市)、吉備津神社(岡山市)、総社宮(総社市)など、岡山近辺にも作品が残っています。 仏教関連の作品も多く、展示品には妙峰という僧が文を記しています。(書画 A2-59)

2 岡本常彦と山川家の人々の肖像画

 岡本常彦は、岡本豊彦の兄、行廉の子として文化13年(1816)に都窪郡水江村で生まれ、京都で活躍する叔父、豊彦のもとへ赴いて画技を学びました。

 常彦は幕末まで京都で活動しており、『平安人物誌』の嘉永5年版には東洞院四条北に、慶応3年版には木屋町四条南に在住と記されています。しかし岡山県内でも真庭市久世の薬王寺の客殿の襖絵制作に岡本豊彦一門の画家として参加し、安政6年(1859)には常彦が中心になって児島郡の一等寺の客殿の襖絵を描いています。そして当館にも常彦の幕末期の作品として、倉敷の山川家の人々の肖像画2点があります。

 そのひとつは、天保11年(1840)に歿した山川在久の肖像画です。倉敷の有力商人であった山川家(讃岐屋)は、在久のとき足袋の製造販売で家産をなしたと、穂積(鈴木)重胤の讃文に記されています。穂積重胤は江戸で活躍した日本書紀の研究で知られる国学者で、万延元年(1860)と文久2年(1862)の西国旅行で倉敷や玉島に滞在し、この地方の人士と交歓を重ねましたが、文久2年12月には岡本常彦も来訪したと、重胤の『筑紫四歴日記』に記されています(『倉敷市史』第5冊、148-153頁)。

 もうひとつは在久の曽孫、山川正之の肖像画です。慶応2年(1866)に幕府が長州藩を征討した際、長州を脱走した一隊が倉敷代官所と蒔田氏の浅尾陣屋を襲撃しました(倉敷浅尾騒動)。倉敷代官所では櫻井代官らが征討軍に加わり不在で、武芸を習う近隣の商家の子弟が当直にあたっていて、数え年17歳の山川正之を含む多数の少年が殉難しました。この肖像画は正之の一周忌に追善のため描かれたもので、追悼文は山川家と親しく、穂積重胤とも親交があった倉敷の商人、和栗淵(春望)が記しています。


展示品

岡本常彦(画)、穂積重胤(記) 「山川在久像」

岡本常彦(画)、穂積重胤(記) 「山川在久像」の画像

 倉敷の富商、讃岐屋の当主、山川在久の肖像画です。岡本常彦が描き、穂積重胤が讃文を記しています。富裕な商家では歴代の当主の肖像を掛幅に描かせることがあり、このほかに当館には岡山城下の豪商、河本家の歴代当主の肖像画(岡山市指定重文)も収蔵されています。
 穂積重胤の讃文に「追記」とあるのは、旅行中に倉敷・玉島へ滞在した彼が、あらかじめ岡本常彦が描いていたこの作品に讃文を依頼されたため書き加えた、という趣旨なのかもしれません。文久2年の10月から12月にかけて倉敷などに滞在した穂積重胤には、和栗淵(山川正之の肖像画に追悼文を記した人)が終始付き従っており、2人の深い親交がうかがわれます。そして12月には岡本常彦も一緒になっています。(『倉敷市史』第5冊、148-153頁)(書画 A2-41)

岡本常彦(画)、穂積重胤(記) 「山川在久像」の部分画像

<穂積重胤の讃文の読み下し>
山川在久翁通称ハ讃岐屋与右衛門となむ云
ける号を積一と云りとそ風流文雅に遊ふ事を
好す稟性篤実にして心を経済のかたに用ひ 
らる初家貧しかりける時に業を企る事ふさ
ハす文化の初のこと足袋と云ものを巧ミ出して
世に在る所よりハ大に積ること多なりけれハつひ
に家産とハなれりこれを初としてここにもそこにも
吝物ちるを他處なとのよりハ甚よかりけれハ世
に金数え袋と云て行ハるゝも翁のこゝ許より出
て一ツゝの哆をさそ大銀すに至れる其功大な
りと云へくなむ翁天保十一子年六月丗日に身
まかれる年六十八歳となむ翁のこの業を初ら
れたるより里人のたつきなきものこれをなりハひ
として飢寒の愁を忘しに至れりけれハ里こそり
て父母を亡なへるひとりとなむ  穂積重胤追記

岡本常彦(画)、和栗淵(春望)(記)「山川正之像」 慶応3年(1867)

岡本常彦(画)、和栗淵(春望)(記)「山川正之像」の画像

 慶応2年(1866)4月に長州藩奇兵隊の脱走部隊が倉敷代官所などを襲撃した倉敷浅尾騒動で不慮の死を遂げた少年のひとり、山川正之(真喜太)を追悼して、一周忌に作成された作品です。
 追悼文を記した和栗淵(春望)は、山川家と親しかった倉敷の商家の人で、幼い頃の正之が彼のもとへ手習いに来ていたことや、正之が商家の子弟でありながら武芸を好むようになり、代官所の当直に参加していて不幸にあったこと、そして櫻井代官も彼の死を嘆き、墓石の文字をみずから書いてくれたことなど、犠牲者へ公儀からも手厚い哀悼がなされたことが記されています。(書画 A2-38) 

岡本常彦(画)、和栗淵(春望)(記)「山川正之像」の部分画像

<和栗春望の追悼文の読み下し>
いはまくはゆゝしけれどいにしとし卯月のとをかの日の暁の雲と消失し山川の正之よ
いとけなきよりおのが許にものならひに通ひていとすくよかなる生質なりしが太刀
つかふわざなど好みたれバ御代官桜井君のもとにもしばしばめしてこよなく愛され
けり 軍のこと起りて桜井君広島におもむかれしほど庁の中人なきハい
かにぞやとて若人これかれ召置れし列に正之も在しがゆくりなく兵あま
た襲ひ来り火を放ちて攻撃ちけるには終に討死をハしたりけるさばかり
の事ハ思ひもかけぬ事なるをいちはやくたちむかひて防ぎけむ志憐にやさ
しとて公に聞ゑ上られしかバいたくめでおはしましてやがて金若干を賜
ひ又家のかぎり氏を名のり太刀佩くことはた宅地の租をさへゆるされつるハ
いとかたじけなしや桜井君も限なくをしみて自ら筆執て其石碑の面に
朽せぬ名をぞしるされたる凡いけるもの命ばかりあやしきはあらねど末
の世かけてくちせぬ績に換たらむハなどかをしまむいまハ亡鬼も憾むる事
なかるべし親はらからの人たち甚くなげき給ふなといふことをやをら
涙おしのごひて其肖像の上にかいしるしてぞ 和栗の春望
いろしろき光を世ゝに遺しける露の命を玉とくだきて  此は
正之の従祖父石井の義彦のよまれしを筆のついでになむ
   慶応三年卯月一とせの忌にあたれる日

「倉敷足袋製法の図」

「倉敷足袋製法の図」の画像

 岡本常彦が描いた肖像画の中で穂積重胤は、山川在久が足袋の製造販売で家産をなしたと紹介しています。このことと直接の関係はありませんが、当館には「倉敷足袋製法の図」として伝わり、描かれている人物の服装からすると江戸時代とみられる足袋製造の様子を描いた作品がありますので、参考に紹介します。なお、画面の右下に作者名を示す印章がありますが、あまり鮮明でなく、よく読みとれません。(書画 A2-37)

3 明治維新後の岡本常彦

 幕末の京都は政情不安が続いており、岡本常彦は明治維新を前後する頃に帰郷したようで、明治期には岡山を中心に活動します。しばらく県庁へ勤務したという伝えもありますが(『岡山市史』美術映画編、106-107頁)、明治12年(1879)には岡山城の本丸で開催された博覧会を紹介する錦絵の原画を描きました。

 岡山城は、明治4年(1871)の廃藩置県を機に新政府軍に接収され、しばらく陸軍の鎮台として地方の反乱に備えましたが、明治10年(1877)に西郷隆盛らの西南戦争が終結すると軍事要塞としての必要性が失われ、広大な施設の維持管理に困難をきたし、荒廃が進んでいきました。

 そのような城郭を、いまいちど華やかな行事の舞台にした明治12年の博覧会は、岡山県からの働きかけがあって開催されたものと推察されます。それまでは庶民が立ち入ることのできなかった城郭の諸施設が、近代の科学や技術を紹介する真新しい器具や装置を並べた展示会場になり、天守閣から見渡された市街の眺望とあわせて、人々が親しく観覧できたことは新時代の訪れを告げる出来事でした。

 明治期の岡本常彦は、歴史家の木畑道夫と深い親交があったことが当館の資料などからうかがえます。木畑は、岡山県庁と旧藩主・池田家の事務所に勤めて史料編纂に携わり、旧岡山藩の膨大な文書を整理して、後に池田家文庫(岡山大学附属図書館蔵)として保存される礎を築いた人ですが、岡山城、後楽園、閑谷学校などを歴史遺産として保存することにも尽力しました。展示した「岡山後楽園真図」は、木畑道夫と岡本常彦の合作になるものです。


展示品

岡本常彦(原画)「岡山城内博覧会図」 明治12年(1879)

岡本常彦(原画)「岡山城内博覧会図」の画像

 明治12年4月から岡山城本丸で開催された博覧会は、空前の評判となり、多数の入場者で賑わいましたが、その様子は山陽新報(山陽新聞の前身紙)などで報じられています。この錦絵には、空を飛ぶ気球など、一見すると奇想天外にもみえる情景が描かれていますが、当時の記録と照合すると、それらは空想の産物などではなく、画家が現実のできごとを克明に描いたことがわかります。
 陸軍の所管になった岡山城は、施設の維持が困難になり、明治15年3月に天守閣と月見櫓を除くほとんどの建物が取り壊されて、古材が競売にかけられました。岡本常彦のこの錦絵からは、櫓が林立する往時の岡山城の威容がしのばれ、櫓や城門などの構造が細部まで精密に描かれた図としても資料価値を有しています。(書画 A2-93) 

木畑道夫(著作)、岡本常彦(画)、丸山三造(彫刻)、大島晴海(発行)  「岡山後楽園真図」  明治22年(1889)

木畑道夫(著作)、岡本常彦(画)、丸山三造(彫刻)、大島晴海(発行)  「岡山後楽園真図」 の画像

 岡山城は、明治8年に外堀が埋め立てられ、明治10年頃までに内山下の重臣屋敷が取り払われて練兵場になり、明治15年には天守閣と月見櫓を除く本丸の建物が破却されました。西の丸の殿舎は医学校や高等小学校の校舎としてしばらく使用されましたが、西手櫓など、ごく一部の建物を残して明治30年代には取り壊されました。いっぽう後楽園は、一部に激しい反対意見もありましたが、明治17年に岡山県が旧藩主の池田家から購入することができ、県庁の附属地として保存されることになりました。
 明治という新しい時代の中で、顧みられなくなっていた藩政期の遺産に歴史上の価値を見出し、保存と研究の必要を訴えたのが歴史家の木畑道夫たちでした。この木版画は、木畑が後楽園の諸施設を考究し、岡本常彦が俯瞰図にまとめたもので、彫刻は野田屋町の彫刻師、丸山三造が行っています。(資料番号13286359)

木畑道夫の書

木畑道夫の書の画像

(書画 A1-55、岡長平氏旧蔵品)

木畑道夫の書の画像

(書画 A1-76、木畑文庫097.28/26)

『烏城名家詩歌集』

『烏城名家詩歌集』の表紙の画像

 作成年の記載がない手稿ですが、明治期の岡山の文人の詩文集で、木畑道夫(坦斎)と岡本常彦の作品も収載されています。この書物は、木畑道夫が藩政文書の編纂を行った池田家事務所に勤務して、木畑から歴史学を学んだ山田貞芳の旧蔵書です。 (山田文庫 099.19ウ)

『烏城名家詩歌集』の内容の画像

 なお、山田貞芳の膨大な蔵書は、彼の没後、山田から学んだ銀行家の公森太郎の尽力で散逸を免れ、昭和2年に岡山市立図書館へ移管され、特設山田文庫として保存されてきました。戦災で多くが失われましたが、約90冊が現存しており、これはその中の1冊です。木畑道夫(坦斎)など10数名の文人の漢詩文に交じって、岡本常彦は5首の和歌が収録されています。

このほかの展示品

・木畑道夫(著) 『津田永忠君年譜』 明治21年(1888)、著者発行

 熊沢蕃山と比べて明治時代には記憶が薄れがちになっていた岡山藩の重臣、津田永忠について、史料を集めて年譜を作成し、干拓事業や数々の施設の建設の経過を明らかにし、顕彰のきっかけを作った著作です。明治15年(1882)に手稿と活字稿が成立していましたが、明治21年(1888)に著者の名義で初めて出版され、以後、発行所を変えて版が重ねられています。(木畑文庫092.89/143)

・木畑道夫(著) 『岡山城誌』 明治24年(1891)の稿本と明治36年(1903)の初版本(岡山県発行)

 明治15年の岡山城の破却を嘆き、城の沿革と建築の詳細を調べてまとめたもので、岡山城を史跡とみて歴史価値を訴えた最初の著述というべきものです。明治24年(1891)2月に原稿がほぼできあがっていましたが、明治36年(1903)に江戸時代の文書「岡山城私考」とあわせて岡山県から出版され、以後も版を重ねました。(木畑文庫095.2/7および木畑文庫095.2/8)

 なお、この初版には岡山県の地理歴史委員が以下の序文を寄せています。

 「維新ノ際 陸軍省令シテ岡山城郭ヲ壊チ 余ス所ハ唯 天守閣及月見櫓ノミ 旧岡山藩士木畑道夫氏 深ク名城ノ跡ヲ失フ事ヲ嘆キ 博ク探リ深ク究メテ此書を著シ 以テ此城ノ起源沿革及築造ノ制ヲ述ブ 其苦心察スベシ 今氏ノ手稿ヲ版ニ附スルニ当リテ 特ニ氏ノ功ヲ挙グルニナン」

・木畑道夫(著) 『後楽園誌』  明治23年(1890)、著者発行    

 本書は後楽園に関する最初の解説書です。上巻では後楽園の沿革と各施設の概要を述べ、下巻では城下と近郊の史跡を紹介して、近代で最初の岡山市街の歴史案内となっています。明治21年(1887)6月に西毅一から序文の原稿が寄せられ、翌年に「岡山後楽園真図」が発行され、その翌年に著者自身が本書を発行しています。明治28年(1895)に森禎蔵が上下合冊本を出版して普及しました。 (木畑文庫096.29/4)

・木畑竹三郎(編) 『坦斎遺稿』 昭和14年(1939) 

 木畑道夫(坦斎)の子で、英語学者として旧制岡山中学や第六高等学校で教鞭をとった木畑竹三郎が、父の漢詩文の遺稿を集めて出版したものです。(木畑文庫099.19/10)

・岡本立彦から木畑竹三郎へあてた礼状 昭和14年(1939)         

 岡本常彦の子(あるいは甥で養子)の岡本立彦が、『坦斎遺稿』を贈り届けてくれた木畑竹三郎に送った礼状です。このとき立彦は鹿児島市に在住で、手紙の中で亡父どうしの旧交を振り返り、生前の2人がともに漢詩文に打ち込んでいたことを述懐しています。(木畑文庫092.89/217)

お問い合わせ

教育委員会事務局生涯学習部中央図書館

所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]

電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093

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