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(2月ー3月) ユネスコ創造都市ネットワーク加盟・第39回坪田譲治文学賞記念 坪田譲治 文学が生まれた風土

[2024年3月1日]

ID:57004

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会期 令和6年2月8日(木曜日)から3月17日(日曜日)まで

会場 岡山市立中央図書館 2階視聴覚ホール前 展示コーナー

 岡山市は昨年、文学の分野でユネスコ創造都市ネットワークに加盟を認められました。

 そこで岡山市主催の坪田譲治文学賞の発表時期にあわせて、岡山市出身の文学者で、児童文学に顕著な業績を残した坪田譲治の資料を、作品の舞台となった岡山の農村の風土を背景に紹介します。


坪田譲治と故郷への思い

 坪田譲治は、明治23年(1890)に岡山近郊の御野郡石井村大字島田(現在の岡山市北区島田本町)で生まれ、ここで幼少期の多感な時期を過ごしました。

 彼は早稲田大学への進学を機に上京し、以後、生涯の大半を東京とその郊外で暮らしましたが、苦心の末にようやく40歳代で文壇に地歩を築くことができ、以後は昭和57年(1982)に92歳で歿するまで創作への意欲を絶やさず、児童文学の分野を中心に数々の優れた業績を残しました。

 坪田譲治の文学には、少年時代を故郷の田園地帯で過ごした体験が息づいています。明治時代の岡山の農村の情景は、数々の作品の中で登場人物が躍動する舞台となり、忘れることのできない魅力となっています。

 そこでこのたびは、当館の所蔵品の中から、坪田譲治の生家にかかわる資料と、故郷の思い出を綴った代表的な作品の初版本を出品するとともに、岡山の農村集落の特徴をうかがい知ることのできる絵図などの資料をあわせて展示して、彼の文学が生まれた背景を紹介します。

 なお、展示品はすべて当館の所蔵品です。坪田文庫(坪田譲治の遺族からの寄贈資料)と町村文庫(岡山市と合併した旧町村の歴史公文書)と他の当館所蔵資料からなっています。


明治時代の島田の村落

 坪田譲治が生まれたのは、岡山城が深い松林の中に聳え、町屋がひしめく岡山の市街の西郊に位置する小さな村でした。

江戸時代から続く島田村は、地方行政制度が発足した明治22年(1889)に、下伊福の村々が明治8年(1875)に合併した巌井村と、上出石村、下出石村、および岡山区のそれぞれ一部などと合併して石井村となりましたが、譲治が生まれたのはその翌年でした。

 村の南と北には、岡山市街を流れる西川から分れて真西の方角へ流れ、笹ヶ瀬川に注ぐ川がありました。島田の村は、このうちの北の川のそばに30軒ほどの農家が建ち並んでいて、家々にはたいてい大きな柿の木がありました。

 譲治は村の友達とともに、この川沿いのまっすぐな道を通って石井小学校へ通いました。子どもたちは川でドジョウ、フナ、ナマズ、ウナギ、ドンコツ(ハゼ科の小魚)、カニなどを捕りましたが、春には小舟で川を下り、蓮華畑や野殿の池で夕暮れまで遊ぶと、北の方の山から響き渡る妙林寺の鐘を聞きながら舟を曳いて家に帰りました。兵役に就いた頃の譲治は、この道を馬で駆けるのが楽しみでした。田にはイナゴが飛び交い、カエルの声が賑やかでした。

 彼の家は村の中心にあった豪農の坪田本家から分かれた3つの分家の中の1つでした。彼の父は時勢をみて農家をやめ、石油ランプの芯を織る工場を経営して成功を収めましたが、譲治が8歳のとき病気で亡くなり、親族で工場の経営が続けられました。


坪田譲治の文壇での活躍

 彼は早稲田大学で学んだ後、大学の先輩にあたる小川未明らの指導で短編を発表するようになりました。昭和2年(1928)からは同じ早稲田大学出身の鈴木三重吉が主宰する児童文学雑誌「赤い鳥」へ作品が掲載されて徐々に注目され始めましたが、文筆の生活は苦しく、生活難が続きました。しかし昭和10年代に入る頃、自身の体験に題材を得つつ、工場の経営権をめぐる親族間の葛藤を背景にして、翻弄される子どもたちの心を描いた一連の作品(『お化けの世界』『風の中の子供』『子供の四季』)で、文壇に名声を確立しました。

 第二次大戦中は従軍記者としてフィリピン、スマトラなどを訪れましたが、昭和29年(1954)に新潮社から発行された最初の全集(全8巻)が絶賛されて、その翌年に日本芸術院賞を受賞し、評価を不動のものにしました。

 昭和36年(1961)には雑司ヶ谷の自宅の敷地に「びわのみ文庫」を設けて蔵書を児童文学研究のために開放し、翌々年にはここで児童文学雑誌『びわの実学校』を創刊して、その編集作業を通じて多数の優れた後進作家を育てました。

 彼が晩年に執筆した随筆2作(『かっぱとドンコツ』、『ねずみのいびき』)の中で、少年期を過ごした故郷の村の思い出を詳しく綴りましたが、それは岡山近郊の農村における明治時代の暮らしと社会の雰囲気を知る上で、かけがえのない記録となっています。

 坪田譲治は昭和57年(1982)に92歳で歿しましたが、岡山市は彼の遺志を継ぐために、その翌々年に坪田譲治文学賞を制定して、優れた新進作家の紹介に努めています。


<展示品>

・児童文学雑誌『赤い鳥』

 鈴木三重吉が心血を注いで発刊を続けた雑誌『赤い鳥』から数冊を展示しました(初版本)。坪田譲治の作品の掲載は昭和2年(1926)から始まり、鈴木三重吉が歿して雑誌が終刊になる昭和11(1936)年まで続きました。 

・『お化けの世界』 昭和10年(1940)、竹村書店

・『子供の四季』 昭和13年(1938)、新潮社(装幀:小穴隆一)

 プロレタリア文学の全盛期に重なった不運もあってか、譲治は作品がなかなか世間に認められませんでしたが、昭和10年代に入る頃、大人たちの社会の不和や争いが子どもたちの心にも暗い影を投げかける主題で小説を次々と発表し、名声を得ました。その中の2作の初版本です。

・『故郷の鮒』 昭和15年(1940)、協力出版社(装幀:坪田譲治か)

・『ふるさと 小説と随筆』 昭和18年(1943)、実業之日本社(装幀:中村好宏)

・『故園随筆』 昭和18年(1943)、十一組出版部(装幀:中村好宏)

・『故里のともしび』 昭和25年(1950)、泰光堂(装幀:中尾彰)

・『せみと蓮の花』 昭和32年(1957)、筑摩書房(装幀:小穴隆一)

 譲治は幼年期の体験を小説や童話だけでなく、随筆や自伝小説で直接的に述べることもありました。以上はおおむね戦中から戦後までの時期に発表された作品で、そうした内容からなるものの初版本です。

・『かっぱとドンコツ』 昭和44年(1969)、講談社(装幀:小松久子)

・『ねずみのいびき』 昭和48年(1973)、講談社(装幀:小松久子)

 80歳代になった坪田譲治が、70年前の故郷の記憶を綴った随筆の初版本です。装幀は、徳島県出身の洋画家で、独立美術協会で活躍し、数多くの書物をデザインした小松久子氏で、追憶の中の故郷を、ぬくもりのある色彩で印象深く表しています。ただし、曲がりくねった川や、起伏のある野原は、より普遍性の高い田園風景とみることができ、岡山の農村には、ここにない特徴もあります。その理由は次のコーナーで説明します。

・『坪田譲治全集』(全8巻) 昭和29年(1954)、新潮社(函の装幀:山田申吾、装幀:須田寿、カット:井口文秀)

 坪田譲治の最初の全集で、日本芸術院賞の受賞のきっかけになったものです。展示品は一緒に保存されている帯から受賞記念で発行された特別限定版とわかるもので、函の装幀を日展で活躍した日本画家、山田申吾が行っています。

・『びわの実学校』から、創刊号、22号、39号、69号、101号

 昭和38年(1963)10月の創刊号の表紙には、大きなビワの木の頂きに、雛を育てる赤い鳥が表されており、鈴木三重吉の遺志を継ぐ決意が込められています。『びわの実学校』の表紙は、すべて版画家の山高登がデザインしました。

 なお、上記の中で『故郷の鮒』『ふるさと 小説と随筆』『故里のともしび』『せみと蓮の花』の4冊は当館所蔵の一般の蔵書ですが、他はすべて当館所蔵の「坪田文庫」(坪田譲治の遺族からの寄贈資料)の書物です。

坪田譲治の作品の展示の画像

坪田譲治の作品の展示

島田の村と条里制の地割

 岡山平野の農村は、南部に発達した近世以降の干拓地を除くと、多くの地域で一辺100mあまりの正方形に区画された耕地が整然と並んでいます。これは大宝2年(702)までに整備された古代の律令制による、条里の遺構が各地で色濃く残っているためです。

 1町(約109m)四方の方形区画が「坪」(つぼ)で、これが東西・南北に6つ並んだ6×6の方形区画が「里」(り)です。現在の島田の地域は鉄道の用地で分割されていますが、島田本町、西島田町、東島田町の区域をあわせると6坪×6坪からなる1つの里を復元することができます。

 そのことは、36の坪に反復式(耕牛式)で一ノ坪、二ノ坪、三ノ坪・・・と名付けられた小字(こあざ)の名称からも推測されますが、当館が所蔵する新島村の文書(江戸時代の享保13年(1728)に、下伊福村の農民が廿一ノ坪に島田村の枝村として新島村を開いた経緯を記した文書)に含まれている絵図にも示されています。島田の地域の北辺と南辺に沿って真っすぐ流れている2つの川も、条里制の地割に従っています。

 長い歴史とともに地域へ刻まれたこれらの特徴は、坪田譲治の随筆『かっぱとドンコツ』、『ねずみのいびき』を読むとき、そこで繰り広げられていた人々の生きざまや、川で遊んでいた子どもたちの目に映る風景がしのばれて、私たちの前に甦ってきます。

 なお、奈良時代の天平20年(748)に作成された奈良の大安寺の財産目録「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」には、備前国の御野郡にあった「長江葦原」という寺領が記されています。 

  御野郡五十町 長江葦原

  四至  東 丹比眞人墾田  南 海  西 津高界江  北 石木山之限

 四至(四方の境界)のうち、西の津高郡との境とは笹ヶ瀬川のことですが、北の石木山が矢坂の山々のことなら、大安寺の所領はその南に広がっており、東で丹比眞人(たじひのまひと)という人の開墾地と接していたことになります。島田はこの人物の墾田に含まれていたと考えられます。そしてこれらの開墾地の南はすぐ、海に続いていました。


<展示品>

・「御野郡島田村三拾六町田地絵図」 享保年間 (町村文庫093.2市)

 江戸時代の絵図は南を上にして描かれることが多く、この図もそのようになっています。現代の地図と見比べるときは、注意が必要です。

 「坪」と呼ばれる一辺100mあまり(一町四方)の正方形(絵図では少し長方形に描かれています)の区画が、6×6の形態で整然と並び、この地域が古代の条里制の地割に沿っていることが明白です。

 坪田譲治が作品の中でしばしば言及する、島田の北と南を流れている真っ直ぐな川も朱色の広い二重線で記入されていますが、地割に沿っていることからみて、ひょっとすると古代の灌漑水路に由来する可能性もあるのかも知れません。

 この絵図は、一ノ坪と二ノ坪の箇所に「只今屋敷」と朱字の記入があり、坪田譲治が語っている明治期における島田の集落の範囲と一致しています。譲治の生家は新家(分家)だったので集落の中心から南へ少し外れており、狭い道と絵図には表されていない細い用水路を超えた、十一ノ坪と十二ノ坪の境にありました。

 第二十一番目の坪のところに貼り紙がありますが、これは享保13年に出作者たちがここへ新島村を作ったことを表しています。

島田村の坪が示されている絵図(「御野郡島田村三拾六町田地絵図」ただし南を上にして描かれている)の画像

島田村の坪が示されている絵図(「御野郡島田村三拾六町田地絵図」ただし南を上にして描かれています)

島田の里(東西6坪、南北6坪の区画が正方形に並んだ区域)の推定域と坪田譲治の生家の位置(国土地理院の地理院地図に重ねて表示)の画像

島田の里(東西6坪、南北6坪の区画が正方形に並んだ区域)の推定域と坪田譲治の生家の位置(国土地理院の地理院地図に重ねて表示)


・「御野郡島田村出屋敷二十一坪ニ関スル絵図及諸書付」 享保13、14年 (町村文庫093.2市)

 岡山藩士の石丸定良が享保年間に著した『備陽記』の巻第十には「享保十三申歳出来 新島」という記載があり、このとき島田村の枝村として新島村が作られたことがわかります。

 当館には、新島村に伝来してきた、このできごとに関わる一連の文書が所蔵されています。それは下伊福村の大庄屋、孫兵衛が内容を吟味して藩へ取り次いだ文書の控えなどからなっており、享保13年に島田の「廿一ノ坪」へ農民の入植と竿入れ(検地)が行われ、毎年の貢納高が決まった状況が記されています。さきにみた「御野郡島田村三拾六町田地絵図」は、この文書に含まれているものです。

新島村(享保13年に取り立てられた島田村の枝村)の関係文書の展示の様子の画像

新島村(享保13年に取り立てられた島田村の枝村)の関係文書の展示の様子

享保13年に新島村の耕地の取調べが行われたことを示す文書の表紙の画像

享保13年に新島村の耕地の取調べが行われたことを示す文書の表紙

耕地の等級(上田)と面積と耕作者名が記されている箇所の画像

耕地の等級(上田)と面積と耕作者名が記されている箇所

田畑の生産高は六斗六升五合、物成(年貢高)は三斗七升四合とあり、「右の通り・・・竿入れあい改め、書き上げ申しそうろう」と名主が記名し、上伊福村の大庄屋、孫兵衛が吟味した旨が書き記されている文書の末尾の箇所の画像

田畑の生産高は六斗六升五合、物成(年貢高)は三斗七升四合とあり、「右の通り・・・竿入れあい改め、書き上げ申しそうろう」と名主が記名し、上伊福村の大庄屋、孫兵衛が吟味した旨が記されている文書の末尾の箇所

「廿一ノ坪」の中の耕地と耕作者を記したいくつかの絵図の中のひとつの画像

「廿一ノ坪」の中の耕地と耕作者を記したいくつかの絵図の中のひとつ

新島村の設立に関わる一連の文書が入っていた袋(昭和4年に新島村の二百周年を機に文書が取りまとめられたことが記されています)の画

新島村の設立に関わる一連の文書が入っていた袋(昭和4年に新島村の二百周年を機に文書が取りまとめられたことが記されています)

坪田譲治の生家と島田村

 島田村の家々は一ノ坪と二ノ坪に集まっていましたが、譲治の家は新家(分家)だったので、道を挟んだ南向いの十一ノ坪から十二ノ坪にかかる場所にありました。ここには北の川から分れた細い用水路が流れており、家の前に小さな石の橋がかかっていました。譲治の父は仕事から帰るとそこでエヘンと咳払いし、これを合図にして母が昼食の用意をしたことが『かっぱとドンコツ』などで回想されています。

 条里制の地割は岡山平野の各地に分布しています。現在の中区では龍ノ口山の南麓の平地に多く、岡山の中心市街の西側では矢坂山の南の平地に広がっており、おおよそ現在の宗忠神社や今村宮のあたりの位置まで認めることができます。

 譲治は随筆『ねずみのいびき』の中などで、坪田家には戦国大名の斎藤竜興に仕えた武士、坪田長門守が祖先であったとする伝承のあったことを記しています。この人は斎藤家が滅亡したため秀吉に仕えますが、本能寺の変で京都へ引き返すときに病気にかかってしまい、従軍できなかったため農民になって、島田の村へ住み着いたとのことです。

 室町時代後半から畿内を中心に各地で住民の自治が高まり、惣村(そうそん)と呼ばれる共同体が歴史の中に現れます。その中には一人の土豪が指導的な立場を得て勢力をもつ村もありました。島田村の西隣りにあった高柳村には、かつてそのような土豪の居城があったとみえ、北の丸という地名が残っていました。譲治の随筆『ねずみのいびき』に記されている少年時代の回想の中には、この隣村の「北の丸」というところでたくさんの鶏を飼い、卵を岡山の街へ売りに行くときにいつも島田の村の川沿いの道を通っていた、友さんという人物が登場します。

 坪田家の墓所は村の北方の山上に伽藍が聳える妙林寺にあり、そのことは下伊福などの北部の村々から海のほうへ向かって開墾が進められてきた、長い歴史の過程を暗示しているかのようです。譲治は少年のとき、妙林寺へ登ってそこから数多くの船の白帆が浮かんでいる児島湾を望見し、海への関心をかき立てられました。


<展示品>

・「今村空中写真測量図(3000分の1)」  昭和12年5月 (町村文庫092.9今12)

 この地図に描かれているのは昭和27年に岡山市と合併した旧今村の地域で、山陽本線より南の村々の昭和戦前期の様子がわかります(島田の集落は山陽本線の少し北で、この地図からは外れています)。「空中写真測量図」とあることから、飛行機から撮影した写真で位置を定め、地籍情報を書き入れて作成されたものとみられます。

 大正時代から工業が発展し、都市化と市街の膨張が進みました。都市計画の必要が叫ばれ、道路網の整備が始まりますが、しばしばそのために写真測量による都市図が作成されました。したがってこの地図には、都市化が及ぶ前の岡山近郊の状況が記録されています。

 図の上半分では、耕地が一辺100mあまりの方形区画になって整然と並んでおり、条里の遺構の中に農村の集落が点在している様子がわかります。ところが現在の大元駅や、下中野村、今村宮を結ぶあたりから南は区画が少しずつ乱れており、曲がりくねった旧河道のような耕地もあります。おそらくここからは中世や近世初期以降に開墾された土地で、干潟を締め切って排水し、段階を追って村々が作られて行ったことかと考えられます。

今村空中写真測量図(昭和12年)の画像

今村空中写真測量図(昭和12年)

村の北部(山陽本線から少し南のところところですが、このあたりまで条里の地割が整然と並んでいます)の画像

村の北部(山陽本線から少し南のところですが、このあたりまで条里の地割が整然と並んでいます)

村の南部(南隣の旧芳田村に近づいたところでは、条里の地割が認められず、旧河道に沿って耕地の並びが曲がりくねるところもあり、古代には開発が及んでいなかったことがわかります)の画像

村の南部(南隣の旧芳田村に近づいたところでは、条里の地割が認められず、旧河道に沿って耕地の並びが曲がりくねるところもあり、古代には開発が及んでいなかったことがわかります)

岡山平野の農村集落の類型

 岡山平野の中に点在していた村落には、島田村のような、古代の条里制の地割に沿って耕地や用水路が整えられていたのとは異なる類型もありました。

 龍ノ口山の南麓に位置する矢津村のように、山並みの中に刻まれている深い谷間に開かれた村もあります。山には樹林があり、地中深く根を張って、土壌に水分を蓄えています。平地を流れる水は旱魃で涸れることもありますが、山中の渓谷は湧水の絶えることがなく、安定した農業を営むことができます。谷川の上流をせき止めて溜池を作り、川下の土地を潤して耕作することは、私たちが想像するよりもはるかの古い時期から行われていたとみられます。

 いっぽう岡山平野の南部には、川が運んできた土砂が堆積し、干潟のような土地が広がっていました。条里制地割の分布域は古代(奈良ー平安時代)の開発の範囲とその限界を示していますが、河川を制御して、海岸に面する低湿地を堤防や土手で締め切って排水し、耕地に変える試みは、長い時代にわたって倦むことなく続けられてきました。

 かつての下中野村や今村の南部のあたりから、明治22年(1889)に芳田村に合併した村々(西市、新保、米倉、泉田、万倍、当新田の各村)のあたりまでは、中世から江戸時代初期にかけての開墾地であったと思われます。このうち、米倉、万倍、泉田、当新田の各村は、南側の村境が緩やかな弓なりにカーブしています。これは干潟のような地域を締め切ったときの、浅い円弧形をした土手の形状に由来することを示しています。

 岡山の中心市街地の東側でも、元禄期に津田永忠の指導で倉田新田や沖新田のような大規模な干拓地が開発される前に、小規模の開墾が重ねられていました。池田光政の時代までの新田開発には、まだわかっていないことも多いのですが、福吉、福泊、および益野、松崎、金岡などの新田村には同様の弓なりになった村境が認められます。まるで魚の鱗が連なるような形状になって村々が続いており、こうして少しずつ開墾が進められていた時期のあることがうかがえます。


<展示品>

・「芳田村大字地図」(7枚)の中から、万倍、泉田、当新田(万倍は実物の展示なし) 明治末年から大正時代頃か (町村文庫092.9芳田6)

 昭和27年に岡山市と合併する旧芳田村を構成していた各村(明治22年までに旧芳田村に合併した西市、新保、富田、米倉、万倍、泉田、当新田の各村で、合併後は旧芳田村の大字)は、旧今村の南に隣接し、笹ヶ瀬川が児島湾に注ぐあたりの左岸に位置しています。万倍村や泉田村は、南側の村境がゆるやかな弧を描いていて、干潟を締め切った土手の形状を思わせます。最も南に位置しており、村が開かれたのも最後とみられる当新田村では、笹ヶ瀬川の河口に近い様子がさらによくわかります。いずれの村も、干潟の頃の水の通り道の形状がそのまま残ったかのように蛇行する用水路が村内のあちこちをめぐっています。おおむね微高地を選んで家々が建てられ、村民の共同の祭祀の場である神社や寺院がありました。

芳田村大字万倍地図の画像

芳田村大字万倍地図

芳田村大字泉田地図の画像

芳田村大字泉田地図

芳田村大字当新田地図の画像

芳田村大字当新田地図


・矢津村の絵図 江戸時代  (町村文庫092.9富山8)

 この図は左が北、右が南になるように展示しています。中区の北部に屏風のように聳えている龍ノ口山は、ところどころに深い谷が刻まれています。矢津村は、山並みの南麓に開けている規模の大きい谷の一つに位置しています。現在は道路などが通されていますが、図中に描かれている巨岩の露頭は、いまも同じ場所にあります。

 谷川の上流を堰き止めて溜池を作っており、山上の森林から湧き出す水が涸れることなく、旱魃の時でも安定した農耕を営むことができる環境とみられます。岡山平野の農村のさまざまな類型の中で、こうした村落は意外なほど古い歴史をもつことが多いものです。

矢津村絵図の画像

矢津村絵図

心の中の故郷

 ふるさとを離れて東京で暮らし、作家としての成功を収めるまでには世間の辛酸も味わい尽くした坪田譲治ですが、両親や、兄弟姉妹や、学友や、村の人々らとともに楽しく過ごした少年時代を懐かしく思い、時代の趨勢とはいえ、故郷の村がだんだんと姿を変えて、明治時代の穏やかな暮らしが失われて行くのを悲しく感じていました。

 経営をめぐる親族間の軋轢から製織会社を離れることになった譲治は、郷里との間にしばらくは疎隔を感じるようになり、むしろそのことが東京で文学によって身を立てる決意を促したのですが、心の中の故郷はますます遠くなり、郷愁を誘うようになりました。

 産業化社会が進展して行く中で、都会に暮らす人々の孤独な気持ちを描くことは、坪田譲治の文学を支えるもうひとつの重要なテーマです。大正期から昭和初期にかけて、全国で都市化の傾向がはっきりと現れ、のどかな田園の風景が姿を消して行きました。譲治の故郷の村でも、岡山の市街地が郊外へと広がって行く中で、たくさんの人家や工場が建ち並ぶようになり、開発が進められて、情景が一変してしまいました。

 彼の作品の中に登場する子どもたちは、それぞれ少年時代の記憶をたどって描かれたもので、譲治自身の自画像でもありました。彼は心の中の故郷が遠ざかって行く感懐を、しばしば詩文などに表し、色紙や書にしたためました。

 譲治は『ねずみのいびき』のあとがきを、次の言葉で結んでいます。

 「記憶は、他人にはわかりません。そこで、それをわからせるものがことばです。・・・・自分は死んでも、自分が百年近く生きてきたこの世界をえがき、これをいつまでも生きたすがたでつたえたい。それは自分が百年行きたいという、その心でもあるわけです。・・・・これが作家というものの創作の気持ちなのです。生きた人生を、生きた世界を、生きたすがたでのこしたい。・・・・」


・坪田譲治の生家の鬼瓦(当館蔵)

 鬼瓦といっても、岡山の民家では、いかめしい鬼面の細工を施さないことが多く、むしろ風景に穏やかに溶け込むことが特徴です。この瓦も、中央に家紋のような紋章が浮き彫りされているのを、波濤の模様が囲んでいるだけです。坪田譲治の生家が惜しまれつつも取り壊された現在、現地には、用水路にかかる石橋(「エヘンの橋」)と、土蔵のそばに生えていたクスノキの大樹が大切に保存されて、名残をとどめています。

坪田譲治の生家の鬼瓦の画像

坪田譲治の生家の鬼瓦


・坪田譲治の色紙など

 譲治が折々に書き記した色紙(当館坪田文庫)の中から、下記を選んで展示しています。

「故郷の花なり名を知らず」(姉の政野の絵に文を添えたもの)

「心の遠きところ花静かなる田園あり」

「古里の小川に鮒はまだ居るだろうか」

「古里忘じ難し」

 また、坪田譲治の書「浮雲遊子意 落日故人情」(軸装、当館坪田文庫)を展示しています。

内容は李白の詩で、自身と重ね合わせて、故郷を離れて旅立つ人の心情を詠んでいます。

坪田譲治の色紙の展示の画像

坪田譲治の色紙の展示

最後のコーナーの展示の情景の画像

最後のコーナーの展示の情景

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教育委員会事務局生涯学習部中央図書館

所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]

電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093

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