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企画展示「ハレノワ開館に寄せて 所蔵資料にみる戦後岡山の演劇」

[2023年9月15日]

ID:52828

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概要

会期:令和5年9月1日(金曜日)から10月1日(日曜日)まで  9月18日(月/祝)を除く、毎週月曜休館

会場:岡山市立中央図書館 2階視聴覚ホール前 展示コーナー

 「岡山芸術創造劇場 ハレノワ」が令和5年9月1日に開館するのにあわせて、岡山市立中央図書館の所蔵資料で戦後岡山の演劇のあゆみをたどります。


関連講座 「戦後岡山の演劇と上演施設」

 日時  令和5年9月10日(日曜日) 午後2時から午後4時まで

 会場  岡山市立中央図書館 2階視聴覚ホール   先着60名(申込不要)  聴講無料

 講師  飯島章仁(当館学芸副専門監) 

戦後の岡山の演劇をたどると

 岡山市は昭和20年6月29日の岡山空襲で中心市街地の大半が焼失し、演劇を上演できる施設も多くが失われました。しかし戦時中には抑圧されていた文化的な活動への渇望から、この時期には演劇にも熱気が込められ、物資の欠乏の中でも苦労をいとわず上演が行われたのでした。

 こうしてバラックで応急的に再建されたばかりの市内の劇場や、弘西国民学校など戦災を免れた学校の講堂、そして昭和24年の岡山産業文化大博覧会を機に修理が施された岡山市公会堂などで上演が始まり、昭和28年には天満屋百貨店の屋上に本格的な設備をもった劇場である葦川会館が完成しました。これらの施設で数々の名舞台が演ぜられ、昭和38年の岡山市民会館の開館へ結実して行きました。

 そこで当館の資料から、公演パンフレットやポスター、上演施設の図などを展示し、岡山市民会館が開館するまでの戦後岡山の演劇を振り返ります。

山陽演劇コンクールから始まった戦後の演劇

 合同新聞(現在の山陽新聞)の関連紙、山陽朝報は、昭和21年11月から同24年2月まで2年あまり発行された朝刊紙ですが、戦後の岡山で演劇活動が再出発するきっかけになる重要な事業を行いました。山陽演劇コンクールです。

 これは、昭和22年と翌年の2ヵ年にわたり岡山県内の数ヶ所の会場で社会人や学生の演劇を上演し、成果を競ったものでした。審査は、玉島へ疎開していた小山祐士や、邑久郡に疎開していた北村寿夫らの劇作家が行いました。山陽朝報は、この事業を昭和22年元日の社告で知らせ、各会場での上演後は結果を詳しく報じました。極度に物資が不足し、新聞用紙も統制下にあって毎日の紙面が紙1枚の表・裏しかなかった時代に、コンクールの報道には大きいスペースが割かれていました。

 そして昭和22年11月25日、26日には中山下(後のトポス岡山店の場所)に急ごしらえで再建されていた千歳座で、新協劇団の「雷雨」(原作・オストロフスキー、演出・村山知義、全5幕)が満員の熱気の中で上演され、戦後の岡山で最初の本格的な演劇公演として人々の記憶に残りました。

 表だって名前は出ていませんが、これらの事業を仕掛け、支えたのは山陽朝報の守田健次郎と、詩人で日本文教出版社を興す吉田研一であったことが知られています。

 岡山県社会教育課でもさまざまな事業を主催しましたが、そのひとつが『青年演劇脚本集』の刊行(昭和22年)です。第1集で終わった試みですが、戦後の新時代にふさわしい演劇の脚本を前年から募集し、京都大学の山本修二や劇作家の小山祐士らが審査して、入選作品と岡山県にゆかりがある劇作家3名(額賀六福、小山祐士、北村寿夫)の作品を掲載しました。

展示品

「山陽演劇コンクール」を報ずる山陽朝報の紙面の画像

「山陽演劇コンクール」を報ずる山陽朝報の紙面
  第1回 昭和22年2月、3月。第2回 昭和23年2、3、4、5月のうち昭和23年の岡山大会の記事
 守田健次郎は、報道記者として戦前の東京に駐在したとき、在京の優れた演劇を見て深い感銘を受け、劇団の人々との間に親交を結んでいました。戦後、山陽朝報の記者となった守田は、詩人の吉田研一とともに岡山県で演劇の活動を興すことを考え、文化事業として「山陽演劇コンクール」を推進し、岡山県内を5ないし6の地区に分けて、それぞれで学校や社会人の劇団の上演を競い、審査を行って新聞紙上に発表することを行いました。
 しかし旅芸人一座の興行などを見慣れていた地域の人々の間には、近代演劇への理解はまだ少ないと感じられました。矢掛で開催された備中南部大会の終了後の夕食の席で、本格的な劇団の公演を招致し、多くの人に見てもらうことの必要性が意識され、それが次の「演劇教室」の開催へと結びついていきました。
 また、このときの関係者が中心になって、岡山芸能懇話会が結成されて行きました。

岡山県社会教育協会(編)『青年演劇脚本集』の画像

岡山県社会教育協会(編)『青年演劇脚本集』
  昭和22年8月31日、同協会発行
 戦後いちはやく、岡山県社会教育課が新時代にふさわしい青年演劇の脚本を募集する試みを行いました。岡山県社会教育協会(会長は第六高等学校長・黒正巌)の名前で昭和21年10月に作品募集し、京都大学の山本修二や劇作家の小山祐士らが審査しました。入選作品2作と岡山県ゆかりの劇作家(額賀六福、小山祐士、北村寿夫)の作品が掲載されています。表紙などのデザインは竹内清です。

岡山芸能懇話会の活動と「演劇教室」

 山陽演劇コンクールなどの事業を通じて集まった、さまざまな分野の専門家がボランティアで協力する組織、岡山芸能懇話会は、昭和24年3月に発足しました。岡山県社会教育課に事務所を置き、当初のメンバーには石川吉郎(県社会教育課)、石津良介(写真家)、梶正一(岡山放送局)、松本純夫(山陽新聞社)、守田健次郎(山陽朝報記者、のち天満屋嘱託)、野上義臣(音楽家)、竹内清(画家)、山本遺太郎(県社会教育課)、山本松代(山陽新聞社)があり、幾人かは入れ替わりつつ、昭和30年代まで岡山の文化・芸術・芸能を牽引しました。

 岡山芸能懇話会が携わった事業は、天満屋百貨店での「名宝展」、西大寺会陽や備前加茂大祭などの写真集の出版、葦川会館の劇場設計など多岐にわたりますが、演劇の分野で最初に取り組んだのは「演劇教室」の開催でした。これは在京の優れた劇団を招致し、学生など地域の若い世代の人々に鑑賞してもらおうとするもので、第33回まで開催されました。

 その第1回が、前進座のシェークスピア劇「ベニスの商人」(主演・河原崎長十郎)でした。昭和23年4月30日に倉敷高等女学校講堂で、5月1日に岡山市弘西小学校講堂で開催され、満員の聴衆に感動を与えましたが、講堂の広いガラス窓を暗幕でふさぐなど苦労も並大抵ではありませんでした。

 そして第6回は、俳優座の「桜の園」(原作・チェーホフ、演出・千田是也、主演・東山千栄子、東野英治郎)で、昭和26年2月9日と10日に、戦災で破壊された屋根をトタン板で改修し再開された岡山市公会堂で行われました。舞台道具の借用に駆け回り、公会堂の電気配線を一夜で作り変えるなど、大勢の人がボランティアで手伝い、数々の困難を越えて成功を収めた歴史的名演でした。

展示品

前進座公演「ベニスの商人」パンフレットの画像

第1回演劇教室、前進座公演「ベニスの商人」パンフレット
  昭和23年4月30日、倉敷高等女学校講堂
  昭和23年5月1日、岡山市弘西小学校講堂
 「演劇教室」とは、新しい演劇を普及させるためには“本物”の公演を実現するのが何よりと考えた岡山芸能懇話会が、岡山県社会教育課の主催で在京の優れた劇団を招き、若い世代のために鑑賞の機会を設けた事業で、第33回まで開催されました。
 第1回はシェークスピア劇で、東京から前進座を招き、倉敷と岡山で開催されましたが、岡山では弘西小学校の講堂が会場になり、大きいガラス窓に暗幕を張って行われました。周囲で遊んでいる学校の児童の声がよく響きわたるような環境で、主演の河原崎長十郎が舞台衣装のまま、子供たちに少し静かにしてもらえるように諭して回ったというエピソードも知られています。

俳優座公演「桜の園」パンフレットの画像

第6回演劇教室、俳優座公演「桜の園」パンフレット(2種)
  昭和26年2月9日、10日、岡山市公会堂
 チェーホフ原作、千田是也演出、東山千栄子・東野英治郎主演。会場は、現在の岡山県庁の付近にあった岡山市公会堂でしたが、昭和24年の岡山産業文化大博覧会に際して戦災で破壊された屋根をトタン板で修理したばかりの状態でした。そのような悪条件下でも守田健次郎らが俳優座に懇請し、招致した公演でした。
 舞台を臨時に拡張し、国鉄職員の協力で電気配線を行って、舞台上で使用されるさまざまな道具類も関係者が方々で借用して回るなどの厳しい条件下でしたが、公演を実現させることができ、満員の観客の熱狂のうちに歴史的な成功を収めた上演でした。パンフレットは竹内清のデザインです。

俳優座岡山公演「夜の来訪者」パンフレットの画像

俳優座岡山公演「夜の来訪者」パンフレット
  主催・山陽新聞社、昭和27年6月25日、岡山市公会堂
 岡山県社会教育課が主催した「演劇教室」や「実験劇場」のほかにも、県内のさまざまな団体が主催して多彩な演劇が上演されました。また、昭和26年の「桜の園」以来、東京から俳優座を招くことも軌道に乗り、岡山の市民は数々の名舞台を直に見ることができるようになりました。
 俳優座の「夜の来訪者」は東京の三越劇場で上演され好評を博した作品です。岡山のほか津山でも公演されました。

「夜の来訪者」チラシの画像

「夜の来訪者」チラシ

「夜の来訪者」ポスターの画像

「夜の来訪者」ポスター

「実験劇場」 演劇の創造をめざして

 「岡山演劇教室」が優れた公演の鑑賞の機会を設けようとする活動であったのに対して、次の段階では岡山県社会教育課の主催名義で「岡山実験劇場」が開始され、演劇を創ることの支援を試みるようになりました。戦後は各地に誕生した新制高校の演劇部で活動が盛んになり、卒業生が各地へ巣立つと社会人の演劇活動にも新風を吹き込みましたが、演劇をめぐる創造的な活動を活発にし、優れた舞台を生み出そうとする努力がなされました。

 昭和25年3月21日に岡山市公会堂で第1回が行われた「実験劇場」には、岡山操山高等学校演劇部とそのOGが中心になって結成されたメンバーが上演しましたが、以後、岡山県内各地の学校や事業所の演劇部、およびアマチュア劇団の先進的な試みが取り上げられ、上演の機会を設けられました。

 その中で高い評価を受けた劇団のひとつが「あかしあの会」です。第5回の実験劇場には「燈台」(原作・三島由紀夫)が選ばれて昭和28年3月29日に岡山市民会館で上演され、第9回には「不漁期」(原作・野崎氏治)が選ばれて昭和31年4月28日に葦川会館で上演され、第10回には「猿の手」(原作・ジェイコブス)が選ばれて昭和32年4月7日に葦川会館で上演されました。

 劇団「あかしあの会」は、昭和27年から昭和33年までの活動期間中に21回の公演を行いましたが、難易度が高い多幕の作品に積極的に挑み、岡山の演劇史に名前を残しました。

展示品

「劇団あかしあの会」公演パンフレットの画像

「劇団あかしあの会」公演パンフレット
  第1回試演会「湖の娘」ほか(昭和27年11月30日、朝日高校国富校舎講堂)
  第2回試演会「たつのおとしご」ほか(昭和28年7月5日、山陽学園淑徳館)
  第1回公演「瀬戸内海の子供ら」(昭和28年11月15日、天満屋葦川会館)
  第2回公演「怒涛」(昭和29年11月21日、天満屋葦川会館)
 岡山の劇団の中で大きく注目されたのは、「劇団あかしあの会」でした。守田健次郎らが顧問となり、昭和27年の試演から昭和33年の第18回公演まで21回の公演を行いましたが、演劇を「人間創造の場」と捉え、難易度の高い多幕の劇に積極的に取り組むなどして果敢な成果をあげました。試演会は学校の施設で行われましたが、第1回公演から天満屋の葦川会館で上演が行われています。
 「劇団あかしあの会」の活動は「劇団うちうみ」および「劇団ひびき」に引き継がれるとともに、「劇団うちうみ」からは「劇団どろんこ」が分かれ、「演劇企画行動集団八幡船」「劇団銀仮面団」へと続きました。そのほかには昭和27年から「劇団岡山新劇場」も活動を始め、社会の問題を鋭く扱った劇を上演しました。

新見演劇研究所 第8回発表会「演劇の会」パンフレットの画像

新見町制五十五周年記念 新見演劇研究所 第8回発表会「演劇の会」パンフレット
  昭和25年5月13日、新見町・思誠校講堂
 戦後の岡山県内で、いち早く近代演劇を行った自立劇団(社会人の劇団)のひとつに、三石青年団などと並んで、現在の新見市内に拠点を置いた新見演劇研究会があります。山陽朝報の第1回演劇コンクールで優勝して注目され、劇作家・小山祐士の指導で技量を高めました。第3回の「実験劇場」でも取り上げられるなど、岡山県内の演劇界をリードする存在でした。
 このパンフレットは新見町内での公演のもので、小山祐士の作品「田園の月」などが上演されています。この劇団からは後に俳優の垂水悟郎が出て、劇団民芸で活躍しました。

上演施設の相次ぐ整備 天満屋葦川会館、岡山県総合文化センター、岡山市民会館

 敗戦後は極度の物資不足の中で心の荒廃が極まった感もありましたが、にもかかわらず戦時中には抑圧されていた文化への渇望があり、演劇には異常なほどの熱意と興奮が注がれたのでした。

 大きな問題は、戦災を受けた岡山市内には本格的な上演施設が不足していたことでした。昭和24年には博覧会開催を機に岡山市公会堂が応急修理されていましたが、夕立が降ればトタン屋根が大きい音を立て、演劇の公演どころではない状態でした。

 しかし昭和28年10月1日には、天満百貨店が文化事業として、本格的な舞台装置を備える劇場、葦川会館を本館屋上に開館させました。以後、岡山で開催される重要な演劇公演は葦川会館で行われ、数々の名舞台が記憶に刻まれました。葦川会館は650席ほどの小規模劇場で、補助席を加えて約800席の規模でした。

 昭和37年には市内の天神町に岡山県総合文化センター(現、天神山文化プラザ)が開館し、約300席の小ホールが備えられていました。

 葦川会館の開館から10年度の昭和38年3月には岡山市民会館が開館しました。約1700席のホールを有しており、かくて岡山市内にさまざまな規模の上演施設がそろうことになりました。

 戦後の新しい時代の空気がみなぎる中で、演劇は興行以上のものであると広く認められるようになり、演劇鑑賞を通じて国内外の優れた文化を学ぶことができ、多くの人が協力して演劇を演じることによる新しい芸術の創造が念願されました。演劇を文化活動と捉え、これに注がれた情熱が活動の輪を広げて、市内に数々の上演施設が整備されるまでの結実をみたのでした。

展示品

弘西小学校の講堂の外観の画像

弘西小学校の講堂の外観
 北区弓之町の、現在の岡山市立岡山中央小学校の場所にあった弘西小学校は、岡山空襲による市街地の火災が及ばなかったため、戦後は、講堂が数多くの音楽や演劇の上演のために使用されました。

弘西小学校の講堂の内部の画像

弘西小学校の講堂の内部

岡山市公会堂の外観の画像

岡山市公会堂の外観(落成記念絵葉書から)
 昭和3年に池田侯爵家の寄附で建設された岡山市公会堂は、戦災で大破しましたが屋根などを応急修理し、戦後の数多くの音楽や演劇の上演で使用されました。昭和30年代に現在の岡山県庁が建設されると、解体撤去されました。

岡山市公会堂の内部の画像

岡山市公会堂の内部(落成記念絵葉書から)

岡山市公会堂の平面図の画像

岡山市公会堂の平面図(落選記念絵葉書から)

岡山市民会館の空撮写真の画像

落成したばかりの頃の岡山市民会館(昭和38年)
 天満屋葦川会館(最大約800席)の開館から10年後の昭和38年3月に、岡山市民会館が開館しました。大ホールは約1700席で、昭和37年に開館した岡山県総合文化センター(現、天神山文化プラザ)の小ホール(約300席)とあわせると、岡山市内に多様な席数のホールがそろうことになりました。
 こうして数多くの上演施設が建設され、整備されるようになった背景には、演劇や音楽などの上演する文化活動への市民の幅広い熱意があり、それを引き出した岡山芸能懇話会などの専門家の活躍がありました。

岡山市民会館を紹介するパンフレットの表紙の画像

岡山市民会館を紹介するパンフレットの表紙

岡山市民会館落成式式次第の画像

岡山市民会館落成式式次第

岡山市民会館落成記念行事のパンフレットの画像

岡山市民会館落成記念行事

岡山市民会館の舞台の図の画像

岡山市民会館の舞台の図

「入場税法ノ改正ニ付テ、昭和21年3月9日」の画像

「入場税法ノ改正ニ付テ、昭和21年3月9日」(岡山県映画演劇興行組合資料から)
 財団法人大日本興行協会岡山県支部(理事長は郷土史家・岡長平)の書類など、戦前から戦後にかけての映画と演劇に関わるさまざまな書類が綴じられた簿冊から、演劇関係者を悩ませた戦後の入場税に関する書類を展示しています。
 これをみると、入場料が、1人1回、3円50銭以上の映画、演芸、演劇等では、入場料の百分の百、つまり入場料と同額の税金を納めることになっています。こんにちでは考えられないことですが、入場料が額面200円の演劇公演なら、その半分が関係者の収入となり、残り半分は税金として納めることになります。
 このため、公演をするたびに税金に相当する金額がほぼ赤字になるという状態が続き、関係者はその穴埋めに苦労しました。入場税は、映画、演芸、演劇を、営利目的の興行とのみ考えることが背景にあるとみられ、演劇が文化活動として発展することを阻んでいた大きな要因でした。

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教育委員会事務局生涯学習部中央図書館

所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]

電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093

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