ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

スマートフォン表示用の情報をスキップ

Language

企画展示「戦災を免れて 国富家文書が岡山市立図書館に収蔵されるまで」

[2023年9月15日]

ID:51316

ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます

展示の概要

会期  令和5年7月21日(金曜日)から、8月30日(水曜日)まで

会場  2階視聴覚ホール前 展示コーナー

 江戸時代の岡山城下町の市政の記録、国富家文書は、昭和20年6月29日の岡山空襲に際し、市内中心部の国富家本邸にありましたが、堅牢な土蔵の中で奇跡的に焼失を免れました。

 文書は、当主の国富友次郎(教育者で、戦時中に岡山市長を務めた)が岡山市への寄附を希望。戦時下でしたが、渡辺知水たちが搬出して分類・整理し、昭和20年9月9日に寄附の手続きが取られました。このことは、戦災で全焼した岡山市立図書館の戦後の再出発につながっていきました。

 そこで関連資料を展示して、国富家文書の図書館への収蔵経緯を紹介します。資料からは、国富友次郎と渡辺知水の信頼しあう関係と、知水が資料保存へ注いだ熱意が浮かび上がってきます。

 

1 岡山城下町の豪商、国富家とその文書

 当館に貴重な古文書を伝えた国富家は、幕末の岡山城下町で当主が惣年寄(そうどしより)という町人の代表者の役を務めた商家です。現在、当館が所蔵する500点あまりの国富家文書は、江戸時代の岡山城下における、町方(まちかた)を中心とする市政の重要な記録です。

 第二次世界大戦末期、昭和20年6月29日未明の岡山空襲で、岡山市は中心市街地の大半が焼失し、尊い人命に加えて多数の文化財や歴史資料も失われました。しかし国富家の文書は市内中心部の紙屋町(現、北区表町三丁目内)の国富家本邸で保管されていたものの、堅牢な土蔵の中で猛火から守られ、奇跡的に焼失を免れました。

 当時の当主、国富友次郎(くにとみともじろう)が、文書を岡山市へ寄附する考えを8月3日に歴史家の渡辺知水(わたなべちすい)たちへ伝えると、知水や岡山市立図書館長の吉岡三平、および市役所の多くの部局の関係者が話をまとめ、焼け跡の中の土蔵から文書を運び出し、臨時市役所になっていた弘西国民学校(現・岡山市立岡山中央小学校、北区弓之町)へ搬入しました。まだ戦争は終わらず、新たな空襲への警戒が続く中でしたが、学校で文書の整理が続けられました。

 やがて終戦となり、分類と整理が一通り済んだ文書は、9月9日をもって岡山市へ寄附の手続きが取られ、市立図書館の収蔵資料となりました。10月14日には弘西国民学校で展示会が開かれ、市民の財産となった貴重な資料が披露されました。このことは、戦災で建物と蔵書の大半を失った岡山市立図書館の、戦後の再出発につながっていきました。

展示品

幕末の国富家本邸の図面の図

幕末の国富家本邸の図面
「文久二年壬戌(みずのえいぬ)正月 国富源次郎居宅図面」(国富文庫095/3)
 岡山市内の旧紙屋町(現、北区表町三丁目)にあった国富家本邸の、文久2年(1862)の図です。数棟分の町屋をあわせたほどの広さで、商家が密集する中心市街では大規模な邸宅です。明治18年には明治天皇の岡山行幸に随行した北白川宮能仁親王らの宿所になり、若干の改装が加わった可能性がありますが、そのほかには大きく変わらず、昭和20年6月29日の戦災を迎えたとみられます。
 図には3棟の土蔵が描かれており、そのひとつに町方行政の文書が保管されていたようです。また、屋敷地内には海老井と呼ばれた井戸がありました。この図は、岡山城下で残っている商家の屋敷図の数少ない例としても貴重です。

弘化4年の京橋の渡り初め式を描いた錦絵の図

弘化4年の京橋の渡り初め式を描いた錦絵
「備前岡山京橋渡初(わたりぞめ)図」(国富文庫096/42)
 幕末の弘化4年(1847)に京橋の架け替え工事が終わった際、城下をあげて執り行われた「渡り初め式」を描いた錦絵です。
 この資料が国富家に伝来してきたのには、町役人の一人として工事の采配に関わったことによる可能性が考えられます。江戸時代の岡山市街を生き生きと描いたこの絵は、国富家文書を代表する資料として広く紹介されてきました。本来は5枚組の錦絵ですが、保存のために巻物に改められています。

京橋の架け替え工事の文書(表紙)の画像

表紙

京橋の架け替え工事の文書(内容)の画像

京橋の架け替え工事の文書
「弘化四年丁未四月五日 京橋御懸ケ替御渡リ初之留」(国富文庫095/41)
この文書(横帳)には工事中のさまざまな取り決めや、渡り初め式の次第などが記されています。

京橋の架け替え工事の図の画像

京橋の架け替え工事の図
「弘化四年 京橋掛替図」(国富文庫095/43)
 この図には工事期間中の交通規制や、代替手段として藩が運営した渡船の発着場所が描かれています。代替交通手段の手配のことは、渡り初め式の錦絵(5枚組)の右端にも記されています。

西川にかかる田町橋の付近の、岡山空襲後の写真の画像

西川にかかる田町橋の付近の、岡山空襲後の写真 
撮影:宗政博氏
 どこの民家のものか、左の遠方に焼け残った一棟の土蔵が写っています。市内紙屋町にあった国富家の土蔵の写真は残っていませんが、被災地の各所でこれと同様の光景があったことと推察されますので、参考としてここに掲出します。これは、当館で保存している岡山市史の編集の際に作成された紙焼きからの複写です。

爆撃による焼失範囲と国富家および弘西国民学校の位置

昭和20年9月の国富文庫目録の表紙の画像

表紙

昭和20年9月の国富文庫目録の内容の画像

「国富文庫目録」(昭和20年9月) 
 渡辺知水らが空襲後、臨時市役所になっていた弘西国民学校(現在の北区弓之町)へ国富家文書を運び、分類・整理した際の目録です(上の図が表紙、下の図が内容の一部)。戦時下のため大変粗末な紙に書かれており、破損や劣化が進んでいますが、いまも図書館で保存しています。
 標準的な図書館の図書分類記号に沿った分類がなされていることから、この段階では岡山市立図書館長の吉岡三平が作業に参加しているものとみえます。この目録が、現在も当館で使用している国富文庫の目録の基礎になりました。

国富家文書の公開を報じる合同新聞(現、山陽新聞)の記事の画像

国富家文書の公開を報じる合同新聞(現、山陽新聞)の記事「古文書に見る郷土民情」(昭和20年10月15日付)
 臨時市役所になっていた弘西国民学校で分類・整理され、9月9日に寄附の手続きがなされた国富家文書が、昭和20年10月14日に学校で展示され、市民に披露されたことを報じた記事です。
 当時の新聞は金属の不足から活字が摩耗したままで、文字が飛び飛びになり読みづらいです。記事の最下段に「備前岡山京橋渡初図」の図版が掲載されています。

国富家文書の蔵書印(「国富文庫」)の画像

国富家文書の蔵書印(「国富文庫」)
 岡山市立図書館では専用の蔵書印を用意し、国富家文書を特別文庫のひとつ(「国富文庫」)として収蔵してきました。なお、これに加えて昭和23年には橋本富三郎(元市長、俳人)の仲立ちで俳人で俳諧史の研究家、西村燕々の蔵書が(「燕々文庫」)。昭和31年には沖新田の大庄屋などを務めた藤原家の文書が(「藤原文庫」)。そして昭和34年には国富家と並んで岡山城下の惣年寄役を務めた河本家の資料が(「河本文庫」)、それぞれ当館に寄附されました。

岡山市立図書館で改訂・発行された国富文庫・藤原文庫の目録の画像

岡山市立図書館で改訂・発行された国富文庫・藤原文庫の目録
 左が昭和35年7月版、右が昭和61年1月改訂版。

国富家文書の収蔵経緯(『岡山市史 戦災復興編』から)

『岡山市史 戦災復興編』(昭和35年、岡山市発行)に収録された「渡辺知水日誌抄」の中で、589頁から593頁にわたり国富家文書の収蔵経緯が記されています。ところどころ省略しながら下記に引用したのが関係個所です。なお、文中の「市役所」は、臨時市役所になっていた弘西国民学校のことで、原文は縦書きのため数字が漢数字になっています。

八月三日 快晴 (中略)それより国清寺に到る華山師本堂跡にあり同行して大竜寺に入る、国清寺の松林の西に「大東亜戦争国難民霊之塔」の木柱あり、七月三日供養の時に建てたもの、大竜寺の座敷で桃一つ喰ふ、茶も出る、その時に国富友治郎老人来る、南瓜の花を挿し堀出の道具で共に茶を頂く、ビスケットの如き菓子五、六あり国富喜ぶ、曰く

上道に疎開して初めて下駄を十五円出して買ふた、紙屋町の屋敷の庫の一つは無事であった、家具は上道の方へ運ぶが文書類は困る市へ寄附するといって置いたがそのままであるから至急何とか方法を講じてもらいたい。(中略)

国清寺を出て三勲校の西から相生橋を渡って池田事務所で松村(見二)に会い、天主のシャチのことを話した。帰りに市役所により今度総務部長になった大賀(矢太郎)に会見して国富文書のことを話すと明日返事をするといふ。

八月四日 昨日より昨夜にかけて平穏也、九時前に吉岡来る同行して大賀を訪ふて国富文書の返事をきく、(中略)夜中一度警報あり海上を二機西へ。

八月五日 むし暑し、土用天候なり、(中略)午後八時頃蚊帳に入る間もなく空襲警報なり五六十機も来る、何れも島根県方面に飛ぶ、暫くして退去するのか三度も頭上を通過する。

八月六日 朝は多少の雲あり、明七日に国富老人が来るので、市役所に行き吉岡も来り原田と話し市民課の妹尾をも訪ふ、午後は在宅、一度警報が出る。

八月七日 多少雲あり、午後は快晴也、八時半頃国富宅に行く、吉岡と尾川とが来る、市役所の原田も来る、古文書を一車に積んで帰る、茶席の編笠を一枚貰ふ。女子師範へ古金属を持参する、銅四〆匁、鉄三〆匁にて八十六円受取り勝札一枚買う。三時頃に突如として空襲警報あり、隣りの人曰く市役所に焼夷弾落ちたりと、夜になり警報あり、やはり日本海方面に行く途中なり、十二時頃に南下するのか又々三度通る。東山の墓所にも焼夷弾が落下したとか、何処かに米機の宣伝ビラ散布したとか、その文句に曰く、「八月九月は灰の国云々」。

八月八日 大詔奉戴日であり快晴、午前相当多数の敵機が近畿九州に飛来した様子、今日話によると、過日広島を攻撃したアメリカの兵器爆弾は新式のもので被害甚大、広島には死人多く惨を極め居りたりと、当時岡山県医師会より治療応援に出張した倉敷の赤木元蔵の話。夜八時頃に空襲ありといふので出て見ると西の方に火の手あり福山市らしい、相当に焼けている。

八月九日 朝市役所に行き国富文書の整理をする、十一時空襲警報が出て帰宅する、広島は新型爆弾にやられ師団の兵隊も県庁の役人も多数死傷し、師団では下級参謀僅か二、三人が無事だったのみと伝へる。(以下略)

八月一〇日 快晴、朝市役所に行き国富の宅に行く、市役所にて西宝寺住職と光清寺の住職に会ふ、(中略)帰途鐘撞堂の焼跡による、鐘は六、七部焼け、下部と竜頭とが残った、堂の石垣は残りその上に鐘が焼け落ちたが不思議と横にはならなかった。さてこの鐘を如何にして保存すべきか、あの石垣の上を整理して置くべきか、よい戦災記念品ではある、九時過ぎに警報あり。 

八月一一日、八月一二日(略)

八月一三日 快晴、市役所に行き国富文書の整理をして十二時に帰宅。聞くと市の南部の小屋掛の人々に赤痢患者が多数発生した、しかし医者もなく治療もしてないと。(以下略)

『岡山市史』の画像

国富家文書の収蔵経緯が記されている文献(1)
『岡山市史 戦災復興編』(昭和35年、岡山市史編集委員会編集、岡山市役所発行)
 「戦災復興編」の589頁から593頁までの箇所に、渡辺知水が国清寺(小橋町)の末寺の大龍寺で被災した国富友次郎と再会することができ、土蔵の文書が無事で、寄附の意思を伝えられたことと、まだ空襲への警戒が続く中で、連日にわたり文書を整理したことが記されています。

2 国富家の当主と岡山市政

 国富家の祖先は宇喜多氏に仕えた武将と伝えられていますが、江戸時代には岡山城下の海産物問屋となり、江戸時代後期までには岡山で有数の財力を有する豪商となりました。そして嘉永7年(1854)には当主の国富源次郎(三代)が岡山藩から惣年寄役に任ぜられ、藩札の切り下げや安政大地震によって城下の社会が混乱していたのをしのぎ、民政の安定に力を発揮しました。

 幕末期に惣年寄格に列した国富源次郎(四代)の後には、養嗣子の国富大三郎が当主になり、明治維新を迎えました。諸制度の近代化が進められる中で、国富家は引き続き名望家として市政を陰で支えました。たとえば明治18年の明治天皇の岡山行幸では、国富家は随行した北白川宮らの宿所として本邸を提供しています。

 国富友次郎(明治3年生、昭和28年没)は、浅口郡鴨方町の名望家、高戸家に生まれ、国富大三郎へ婿入りして養嗣子となり、岡山県尋常師範学校を卒業後、若くして岡山市立岡山高等小学校(のちの内山下小学校)の訓導や岡山市立深柢尋常小学校の校長などを歴任し、教育者として名をあげました。とりわけ女子教育、幼児教育、および障害児の教育の発展に取り組み、岡山実科女学校(現、就実学園)の創設に参画し、岡山県吉備保育会を結成して幼児教育の向上をはかり、岡山市や岡山県の教育会長に推されて改革を進め、県教育会を通じて盲唖(もうあ)院(現・岡山県立盲学校、岡山県立聾学校)の開設にも力を尽くしました。やがて岡山市会や岡山県会の議員に選ばれて岡山市会の議長を務め、昭和15年には岡山市長に推されて、昭和19年まで困難な時局の中で市政の舵取りを担いました。

 しかし戦後は、戦時中に市長を務めたことがGHQの公職追放令に抵触し、昭和26年に解除になるまで不遇を忍びましたが、終生にわたり教育の発展に心を砕きました。

展示品

明治天皇の随行者のため本邸を一部改装した記録(表紙)の画像

表紙

明治天皇の随行者のため本邸を一部改装した記録(内容)の画像

明治天皇の随行者のため本邸を一部改装した記録
「明治十八年七月 御巡幸供奉北白川御宮御旅館被仰付候節(おおせつけられそうろうせつ)
調度諸般扣(ひかえ)」(国富文庫092/85)
 明治天皇の岡山行幸に随行した北白川宮能仁親王と鷹司中尉の宿所として、岡山県の指示により国富大三郎は紙屋町の本邸を提供しました。その一件を記した文書の中の、宿所となる座敷の改装を示した箇所を展示しています。

国富友次郎の写真の画像

国富友次郎
 昭和24年10月、深柢小学校復興祭に来賓として出席したときの写真です。

国富友次郎の歌集の画像

国富友次郎の歌集
(右)『海老井の滴』
(昭和14年、著者発行。展示品は渡辺知水から当館へ寄贈された本です)
(左)『小屑籠』
(昭和21年、著者脱稿。昭和44年、国富興一編集発行)

国富友次郎の和歌の色紙の画像

国富友次郎の和歌の色紙(当館蔵 書画A-1-89)
 国富友次郎が、戦災で焼失した自邸を懐かしむ和歌「見ても又 またも見まくもほしきかな むかしの庭の苔の緑を」を記した色紙です。
 国富友次郎は、就実学園の前身、岡山実科女学校の創設に携わり、岡山県教育会長として幼児教育、女子教育、障害児教育のために尽力した教育者で、小学校教員をしていた渡辺知水に歴史家の資質を認め、岡山県教育会の会報誌の編集を任せるなどして引き立てました。国富友次郎は、義父の大三郎とともに、岡山神社の宮司で万葉調の歌人であった国学者の岡直盧(おかなおり)に歌道を学んでおり、速水流の茶道にも通じていました。直香と号し『海老井の滴』、『小屑籠』などの歌集を残しました。
 このほかの和歌を4作、歌集から選んで紹介します。下記の添付ファイルから開きます。

3 郷土の歴史家、渡辺知水

 渡辺知水(明治18年生、昭和45年没。本名頼母)は、吉備郡久代村(現・総社市)の出身で、実家の風光にちなむ「知水」(山を楽しみ、水を知る)や、在野の歴史家を誇り、標榜する「吉備外史」など、多くの号を用いました。幼い頃から歴史に関心を寄せ、独学で小学校教員になりますが、石井十次の岡山孤児院で2年間働いたこともあり、下津井小学校へ在職中に『児島郡誌』の編纂を任されて完成させ、広く名を知られました。

 大正2年から国富友次郎に招かれて、盲唖学校で教える傍ら岡山県教育会の事務につき、約10年間にわたってその会報誌を編集しました。大正14年には国富友次郎の勧めで山本農学校の校長に就任しますが、この学校は岡山市立図書館の建設にも資金を寄附した実業家の山本唯三郎(やまもとたださぶろう)が、祖先にゆかりの鶴田(たづた)村(現在の北区建部町鶴田)に開設したものでした。しかし山本の事業経営が行き詰まると、学校は資金難に陥ったため、知水は苦心して閉校の事務を取り扱いました。彼はこれを最後に公職から退き、以後は郷土史研究に打ち込みました。

 知水は生涯にわたって膨大な著述を行い、岡山の郷土史を充実させました。また、戦前から戦後にかけて郊外の墓地を訪ね、墓石が損耗し、消えかかっている歴史上の人物の墓碑銘を書き留めるなど、失われようとする地域の記録を書き残して後世へ伝えることに傾注しました。戦後の岡山市史の編集に顧問として加わり、戦前・戦後の岡山市史を執筆した小林久磨雄、巌津政右衛門、岡長平らとともに岡山市立図書館の郷土資料の充実にも大きく貢献しました。

岡山市立図書館の館長室で談話する渡辺知水(左)と吉岡三平(右)の画像

岡山市立図書館の館長室で談話する渡辺知水(左)と吉岡三平(右)
 昭和43年1月19日の撮影で、岡山市立図書館が下石井公園内にあった頃です。晩年の2人の和やかな様子が写されています(岡山市立中央図書館の記録写真から)。

4 渡辺知水と国富家文書

 岡山市立図書館は、山本唯三郎の寄附で大正5年に設立認可を受け、大正7年に岡山市小橋町(現・中区小橋町一丁目)に開館しました。しかし昭和20年の戦災で建物は全焼し、約7万冊と推定される蔵書の大半が失われて、空襲の直前に恩徳寺(中区沢田)へ移されていた貴重書、約300冊が辛うじて罹災を免れました。

 その中の99冊は、戦時中の昭和18年から19年にかけての時期に渡辺知水が岡山市内の寺社、県庁、個人宅などを訪ねて重要な古文書を書き写していたものでした。この冊子は現在も岡山市立中央図書館に収蔵されていますが、筆写された文書の原本には、戦災で失われたものも多いとみられます。

 この時期に知水は、罹災を免れた国富家文書も調査しています。無記名ながら筆跡から知水のものとみられる昭和16年11月の『海老井文庫略目録』ではその概略を示し、昭和17年秋からの調査で『海老井文庫目録』(昭和18年10月14日)をまとめ、やや詳しい分類を試みています。国富家文書からは『新古定例集』全9巻、『名歳帳奥付別支配』、『郡中寺名集』、『鬚長歌集』を筆写し、『明和八年 町方所々門柵番屋町代屋敷竹垣』は概要を摘記しています。

 国富友次郎の没後に関係者がまとめた追悼文集『国富先生のおもかげ』に、知水も文章「五十年の回想」を寄稿しています。その中には、歴史・文化を通して結ばれた2人の親密な間柄や、戦前のある時期に友次郎から国富家の土蔵を案内されて、書画や茶道具に目をみはりつつも、町方文書の重要性に着目していたことが記されています。戦災からあまり日数を経ない時期に知水らの協力で文書が速やかに搬出されたのには、以上のような伏線があったわけです。

渡辺知水と国富友次郎(『国富先生のおもかげ』所収、「五十年の回想」より)

渡辺知水は『国冨先生のおもかげ』(昭和31年、同書刊行会発行)に、「五十年の回想」という文章を寄稿しており(同書127頁から132頁まで)、その中で国富家友次郎と親しく交わり、戦前のある時期に土蔵の文書を見せてもらったことを記しています。展示と関係する個所を引用して紹介します(原文は縦書き)。

 ・・そのころにはたびたびお宅に伺った。それもときどきは遊びに来い、話に来んかと途中で会うと必ず一言される。訪問すると声で知ってか、在宅のときは必ず先生が玄関に出られて、上がれといって引込まれる。上がって座敷に通ると、座蒲団やたばこ盆を持って来る。次に先生が自用のたばこ盆を提げて出られる。間もなくひきうすの音がする。ひきたての抹茶かと待つのが普通であった。代々茶道に精進されていたので立派な道具もあるが、野人珍聞で感奮するのみ。それでもこの茶盌はと説明される。ときには床の幅の説明をされる。書画なら多少知って居るから関心もある。(中略)

 道具も相当多く愛蔵されていて、三むね四むねの倉に三度も案内されていろいろ拝見した。私如きものを倉に案内されるのは不思議であった。まず見せられたのは五体もある土偶、これは奈良へんからのみやげ物のはにわであった。大きないつべも見た。これは今倉敷の考古館にあるか。伊部焼もあり、桑園焼もあり、県下各地の古陶はほとんどあった。軸物も多い、一々中を見るのではないが、箱書を見た。日本物か支那物かと問われたこともある。数十の本箱の前では珍書はないかと話された。それよりも町年寄時代の記録にはおもしろい資料があるに相違ないと話した。その後これらの一部を拝見した。またそれから話は進んで、記録を岡山図書館に寄贈されて、今に国富文庫として保存してある。(中略)

  先生のお宅は岡山市紙屋町で有名な狂歌人耳元鐘近が居た。ことに国富家とは懇切であったから、その作品が数々あり、その生涯を知る資料をあれこれと示された。その他数代和歌の趣味人であったために、同時代の色紙短冊が多い。それを示して説明された。直香先生は先代の直麿氏と共に岡直盧先生に添削を受けられた。(以下略)

『国富先生のおもかげ』(昭和31年、同書刊行会編集・発行)の画像

国富家文書の収蔵経緯が記されている文献(2)
『国富先生のおもかげ』(昭和31年、同書刊行会編集・発行)
 127頁から132頁までの渡辺知水の寄稿文「五十年の回想」の中に、戦前のある時期、国富友次郎に案内されて土蔵の文書を知り、町方の記録に重要性を見出していたことが記されています。

おもな展示品

渡辺知水が戦時中に市内の古文書を筆写した冊子の画像

渡辺知水が戦時中に市内の古文書を筆写した冊子
 戦争が激化した昭和18年から昭和19年にかけて、渡辺知水は岡山市内の神社(酒折宮、伊勢宮、東照宮など)、寺院(光珍寺、光清寺、光乗寺、常住寺、少林寺、松琴寺、瑞雲寺など)、県庁(長持文書など)、個人宅(難波家、国富家、花房家など)を訪れて数多くの貴重な文書を書き写しました。その冊子には岡山市立図書館の罫紙が使われ、蔵書印があるので、市立図書館が事業に関与していた可能性も考えられます。
 岡山市立図書館は、館長の吉岡三平が300冊ほどの貴重図書をやっと疎開させたばかりのときに岡山空襲に遭いましたが、ここに示した知水の冊子99冊も、戦前の図書館で使用されていた蔵書印が捺されていることから、その中に含まれていたために戦災を免れたものと推定されます。そしてその中の14冊が国富家文書に関わるものでした。
 この99冊の冊子は、現在は「岡山郷土叢書」という名称で当館に収蔵しています。このほかにも当館には、戦後になって知水から寄附されものを含む、数冊の同様の冊子が収蔵されています。

国富家に伝わってきた、『新古定例集』 全9巻、『名歳帳奥付別支配』、『郡中寺名集』、『諸願定法』一、および木箱の画像

国富家に伝わってきた、『新古定例集』 全9巻、『名歳帳奥付別支配』、『郡中寺名集』、『諸願定法』一、および木箱
 これらの文書は表紙の体裁が揃えられており、専用の木箱に納められて、国富家で一括で伝えられてきました。箱の蓋の裏に文書の明細が書かれています。『新古定例集』全9巻は、岡山藩が定めた城下の職種別の法規をまとめたものです。これは、享和3年(1803)に作成された祖本を国富源次郎が安政元年(1854)に筆写したものです。『名歳帳奥付別支配』は、岡山城下において、土地税にあたる地子銀の支払いを免ぜられている人を、町ごとに書き上げたものです。『郡中寺名集』は、岡山藩領内の主要な寺院について、寺名と、子院や塔頭の名前を書き出した一覧です。『諸願定法』は、岡山藩の法令・規則に関する書です。
 なお、この一括文書は昭和20年9月の寄附に洩れ、近年まで国富家にとどまり、平成25年に当館へ追加で寄附されたものの一部です。

渡辺知水が筆写した『新古定例集』9巻の画像

渡辺知水が筆写した『新古定例集』9巻
 知水が記した解題によると、昭和19年3月までに写し終えられています。

渡辺知水が筆写した『新古定例集』第1巻の冒頭の画像

渡辺知水が筆写した『新古定例集』第1巻の冒頭
 厚紙の表紙をあけると冒頭が中表紙で、「岡山市紙屋町 国富家所蔵」と記されています。

『明和八年 町方所々門柵番屋町代屋敷竹垣共留帳』の原本(国富文庫096/50)の表紙の画像

表紙

『明和八年 町方所々門柵番屋町代屋敷竹垣共留帳』の原本(国富文庫096/50)の内容の画像

『明和八年 町方所々門柵番屋町代屋敷竹垣共留帳』の原本(国富文庫096/50)
 江戸時代の岡山城下で、町々の境界に設けられていた門や柵と、それに付属して夜番を行った番所などをまとめた文書です。近世における市中の交通統制や治安維持を考えさせる資料です。この原本は町会所で保管されていた明和8年(1771)という古い時期の文書を、国富源次郎が筆写したもので、各所でその後の異動が注記されています。ここに掲載したのは、万(よろず)町と岩田町にあった門や柵を列挙した箇所です。

渡辺知水が抄録した『明和八年 町方所々門柵番屋町代屋敷竹垣』の冒頭(中表紙)の画像

冒頭(中表紙)

渡辺知水が抄録した『明和八年 町方所々門柵番屋町代屋敷竹垣』の冒頭(中表紙)の画像

渡辺知水が抄録した『明和八年 町方所々門柵番屋町代屋敷竹垣』
 知水は、この文書については全体を筆写せず、門柵等の概要を摘出し、一覧表にして書き出しています。昭和18年10月13日に書き終わったことが解題に記されています。

『鬚長歌集』 渡辺知水の筆写本の画像

『鬚長歌集』 渡辺知水の筆写本(昭和18年12月2日写了)
 江戸時代後期の医者で、鐘撞堂の付近の紙屋町に住んで国富家と親交があり、城下の人情風俗を活写して狂歌の名手とうたわれた篠野一方(ささのいっぽう。腮鬚長(あぎとのひげなが)、または耳元鐘近(みみもとのかねちか)などと号した)の歌が集められています。この一冊は、知水が国富家で保管されていた短冊などから書き取ったもので、現在のところ原本の短冊の所在は判明しません。

『海老井文庫略目録』 (昭和16年11月)の表紙の画像

表紙

『海老井文庫略目録』 (昭和16年11月)の内容の画像

『海老井文庫略目録』 (昭和16年11月)
 この目録(大部分はカーボンコピー)は、岡山市立図書館の疎開図書約300冊に含まれる99冊の知水筆写本とは別に伝わってきたもので、歴史家の岡長平が所蔵していました。作成者の名前が記されていないため、厳密な意味での確証はできませんが、筆跡から渡辺知水によるものと推定されます。つまり、精力的に古文書を筆写した昭和18、19年より前の、昭和16年から、知水が国富家文書の目録作成を試みていたことがうかがわれる資料です。
 国富家本邸にあった井戸の名にちなんで土蔵の文書を海老井文庫と呼んでいたことがわかるとともに、はじめに「民政資料」として町方行政の文書134部273冊を挙げ、その後に「趣味資料」として茶道関係の資料や国富家と交流のあった人士の書簡などが書き出されています。

『海老井文庫目録』の表紙の画像

表紙

『海老井文庫目録』の中表紙

中表紙

『海老井文庫目録』の内容の画像

『海老井文庫目録』 (昭和18年10月14日了)
 この目録は知水が昭和17年秋から調査した内容をまとめたものであることが解題に記されています。岡山市立図書館が疎開させた約300冊に含まれる知水の筆写本99冊の中の1冊です。さきの『海老井文庫略目録』と比べると、文書の内容別にやや詳細な分類が試みられていますが、図書館の分類記号に沿った仕分けではありません。そのことから、この段階までは吉岡三平の関与がなく、知水ひとりで調査し、分類を試みたものかと推測されます。いっぽう戦災後に行われた岡山市への寄贈を目的とした整理では、昭和20年9月の目録にみられるとおり、図書館の分類方法が用いられています。

5 戦前・戦後の岡山市立図書館

 戦前・戦後の岡山市立図書館のあゆみを紹介します。下記のPDFファイルが開きます。

岡山市立図書館小史

お問い合わせ

教育委員会事務局生涯学習部中央図書館

所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]

電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093

お問い合わせフォーム