ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

スマートフォン表示用の情報をスキップ

Language

一般の部 随筆

[2023年7月20日]

ID:51837

ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます

第54回(令和4年度)

岡山市長賞

寒の水ののど越し    赤松 壽郎

 わたしは過疎の農村に住む九十二歳の老人である。定年退職してから三十余年になるが、地域活動に参加したり、老いのお遊びとして、鏝(こて)絵(え)や民家の鬼瓦などに取り組んだりしてきた。後半の十余年は、家内が週三回の透析通院を始めることになったので、その通院援助をはじめ、家事にも努めてきた。

 ところが、三年前、家内は逝ってしまった。わたしのしごとは無くなってしまった。独り暮らしの身なので、わたしが何もしなくても、誰も困る者はいないし、文句を言う人もいない。暮らしのめあてを失った私は、来る日も来る日も、浮草のような暮らしをするようになった。

 一般的に、老いると、多かれ少なかれ不健康になるという。加齢に伴うフレイル(心身の活力の低下)状態にもなり易いと言われている。加えて、今はコロナ禍で老人の健康教室とかサロンなども開催できにくくなり、拍車となって、フレイルになる人が増えているという。

 暮らしのめあてを失ったわたしは、家に閉じこもって、外出も少なく、人との交流も減り、徒然な毎日に明け暮れている。なんとか、活力のある健康な生活に取り戻りたいと気にかかりながらも、惰性に流されていた。

昨年の初冬の朝のことである。例によって気ままに起き、衣服を着替えて洗面台の前に立つ。水道の蛇口の赤色の取ってを握ろうとした瞬間、「待て!」と脳から指令がきた。「まだ早い、温水での洗顔は控えよ」とのことである。

わたし達、戦前生まれの者は、井戸から水を洗面器に汲み、顔を洗うのが普通で、お湯での洗顔なんて夢の世界だった。

水道の水に手を触れると、冷たい!手のひらに水を少しだけ汲んでの真似ごと・・・。思いきって、手を大きく広げ、いっぱーいの水を顔面へぶつけるようにしてブルブルッ。さらに、もう一回・・・。続く一杯は口にふくんでガラガラ・・・。最後に口いっぱーいの水をゴクン!と飲みこす。寒の水がのどもとをゴックン!と流れる冷たさ、気持ちのヨサ。実に爽快と言うか・・・、いっぺんに目覚める。さらにひと口、味もない、たかがひと口の水が・・・。久しぶりの快感、目覚めであった。九十余歳にして改めて感じた特別な味であった。この日の朝食の味噌汁は、格別うまかった。

人間は複雑に見えて、単純なところもあるようである。この寒の水ののど越しは翌日も翌日も・・・。これを機に、わたしの暮らしは変容していった。積極的に体を動かし、電話やメールで人と話したり、趣味や老いのお遊びを始めたり、万々歳の体である。お陰さまで、今年の厳しかった冬も前向きに乗り切ることができた。

たかが「寒の水ののど越し」が、フレイルから遠ざかり、健康な生活を伸ばすスバラシイ契機となってくれた。

岡山市教育委員会教育長賞

実り    児島 みつゑ

 十坪にも満たないわが家の庭に、葡萄の苗木を植えたのは三年ほど前だった。ホームセンターの片隅に売れ残りの苗木が一本だけ残っていた。「ピオーネ」 難易度は高い方だった。それでも「お婆ちゃんが買って育てて上げよう」と、衝動買いをしてしまった。正直、今からではもう間に合わないと思う気持ちもあった。自分の歳を考えてのことである。

 ガーデニングが好きで、庭はバラとクリスマスローズでいっぱいである。植える場所が無いことは分かっていた。

苗木の高さは六十センチほど。枯木と間違われないように買った時のラベルをつけて庭の隅に植えた。大きくなったら、駐車場をハウス代わりに利用して、枝を伸ばしてやろうと夢を膨らませた。

八十三歳になったとき、夫に先立たれた。「俺より先に死ぬなよ」と、お酒の量が少し増えると哀願するように言っていた。そして彼が願っていた通りの旅立ちになった。

大きな責任を果たした安堵感と共に、脱力感もあった。やがて鬱っぽい症状が現れた。

自分の存在価値がなくなり、路傍の人になったような精神状態になった。今、私はまだ此処に生きている。何かの役に立ってそれが喜びになり、生きる希望に繋がるものを欲していたと思う。葡萄は植えてから二年目に枝が大きく伸びたが、まだ感動は薄かった。ところが三年経って今年の春、房になるような形をしたものが、枝にぶら下っているのを発見した。見れば小さな花をつけているではないか、私は驚いた。だが今年は花をつけるだけで終わると思っていたので、単に成長を喜んでいただけだった。ある日、葡萄作りを経験した友人が所用でわが家にやって来た。

「やっ、葡萄に花がついてる。こりゃ生(な)るよ。生(な)る生(な)る、ちょっと鋏を持ってきてごらん」

 友人の手で剪定された葡萄の房は、日々、成長して実が仁丹ほどの大きさになり、やがて店先に並んでいるような房の形になった。六月の終わりには袋掛けをした。二十枚の袋が要った。出来の良さに驚いて友人はしきりに褒めてくれた。植えた時を知っていたからである。「えらい早かったな。こんなに早うに実をつけるもんかなぁ」と、言った。

 初めは、突拍子もない事をすると訝って見ていたのかも知れない。胸中まで他人には晒さなかったからだ。

「私にはまだ夢がいっぱいあるのよ。でも、どんなに足(あ)掻(が)いても肉体や精神が確かでいられるのは、ほんとにあと僅かだと思ってね」一日、一日がとても大切になったことを言葉少なに語った。

 友人は「うん」と、うなずいてくれた。

「今年はシャインマスカットに挑戦してみるわ。大きな葡萄を作って貴方たちをびっくりさせてあげるね」と、友人を笑わせた。

 新たな葡萄の実りと自分の残生が、きっと並走することになるだろう。だが、どちらも豊かな実りであって欲しいと願っている。

家事見習    金光  章

 風が吹くたびに木の葉がハラハラ降ってくる。落ちた木の葉は路上を左に右に自由に駆け回って落ちつかない。中には自分の領分をわきまえない奴がいて隣家の方まで遠慮なく飛び込んでいく。これが困るのだ。僕は箒片手に木の葉を追いかけて右往左往。一日に何回もこんな動作を繰り返して、もう一週間たった。まだまだこの戦いは続くだろう。

 木の葉というのは我が家の敷地の端、道路際の楠木の葉のことで木は高さこそ五メートル程に押さえられているが幹の太さは直径六十センチを超す。樹齢百年という堂々たる老樹だ。僕がここに移る前の畑にポツンと一本孤立していたもので敷地を入手していざ建物の計画にかかろうという時まだ元気だった父が何故だかこの木を伐ることに強く反対した。「古木には霊が宿る」そんな理由だが反抗するのも大人げない。そのまま残されたものだ。

 そんな因縁を持つ老樹だが格別の銘木ではない。片側建物に阻まれて少々いびつな樹形だがどこか頼もしげで今となってはこれを欠くと家の貫禄が下がりそうに思えてしまう。

 濃淡はあるものの年中緑一色で花や実をつけて彩りを添えるわけでもない。毎春新芽が出ると古い葉は自然に落下してすっかり新しい葉に代わる。住んで初めて知ったのだが、落葉する葉の量の半端でないこと。片付け仕事は毎年大変だっただろうと思われる。「思われる」とつい他人事になるのは実は僕は落ち葉を実際に掃いて片付けた記憶がほとんどない。葉が落ちることは知らぬでもないがこれだけ大量で昼夜なくコンスタントに続くなどとは夢想もしなかった。掃く立場だったら大変な負担でストレスになっただろう。  

 こんなことは樹木を少し知る人なら常識かもしれないが、僕が今夏に限って庭木の性に気づいた理由は今年の異常気象にある。何ゆえか知らないが今年の天候は少々変だ。例年なら春先に始まる落葉が夏に入ってそれも猛暑が続く頃に新芽が出て落葉が始まった。こんなことは初めてだ。

 たまたま猛暑の日に僕は外出から戻り玄関前で落葉と追い駆けっこしている老妻を見かけたわけだ。落葉はその日が初日だった。炎天下で落ち葉を追って右往左往するのは大変な労力だ。手助けしないわけにはゆかない。それで冒頭の作業が始まった次第だが、老妻はこの庭仕事、清掃活動を四十数年やり通してきたことになる。今更専業主婦の大変さに気づいても手遅れ甚だしいが、近頃の新しい家に庭がない理由もわかる気がする。

 このたび落葉と格闘しつつここにも悦びが潜むと気付いた。掃き終えて「終わったぞ」と口で呟き落ち度はないかと路上を見直した。脳裏には先程の掃く前の落ち葉の散乱した姿が浮かび目前には奇麗になった道路がある。その時一瞬道路がピカピカ光って見えた。これだけ仕事したと思うと誇らしく心地よかった。爽やかだった。妻は日々専業主婦の努めの中で時にはこんな悦びを持つのだろうか。

ろう梅(ばい)    山本 美恵子

 二月の庭はまだ冬枯れ模様だが、ひとつ、“ろう梅”だけが、春を思わせる。淡い黄色の優しくも凛とした花は私に、遠い日の数多の人とのまじわりを甦らせてくれる――。

 指折れば、四半世紀も前の話になるだろうか。晩秋に訪ねた親戚の庭で、巨きな裸木にゆれる「みの虫」に似た実を見つけた。「ろう梅の種だよ。土に埋めとくと、芽を出す」老婆はちぎって十粒ほどを袋に入れてくれた。初めて知った〝ろう梅″。早速に庭の其処ここに埋め、水を遣り発芽を待った。然し仲々に芽は出ず、半ば諦めていたある朝、「出た!」思わず声を上げていた。大きく丸い緑の双葉が二つ三つ、土からのぞいていた。成長は意外に早く、茎を伸ばし枝を張り葉も繁ったが、花を待つ日は長かった。そんなある日、ふと話した職場の恩師から、「ろう梅は七年経たんと花は付かん」と教えられたのである。

「そうだったのか・・・」

 待ちに待った長い七年の新春、師の言葉通り、三・四輪の可憐な花を見せてくれたのである。再びの感動を報告する私に師は、「植物は全て、それぞれの約束があるんだよ」と、喜んでくださったのである。

 感動も覚めぬある朝、地方紙の投稿欄に思いがけない記事を目にした。県北に住む主婦の文で、『七年目のろう梅』と題し、種から育てて長年待って、花を見た喜びが綴られていた。何というご縁か!弾む心で私は、未知の婦人へ手紙を送っていた。そして届いた返事は、喜びと感謝あふれるものであった。互いの気持は自然に相寄り、「ろう梅の友」となり更に日常を語り合う「ペンフレンド」となったのである。

 「機会があれば是非おいでを」との誘いにときめき、出会いから三年目の春、夫と共に訪ねることとなった。後山に抱かれる粟倉の地、ご夫妻に温く迎えられ、初対面を忘れる程に和んだ。広い庭に巨きく繁る〝ろう梅″は、今を盛りと香っていた。花を見上げつつ、同じ思いを重ねて来たふたりが、今ここに在ることの縁(・)をしみじみと感じたのである。

 わが家の〝ろう梅″三本も、古木となるも新春を告げている。夏に繁った葉はやがて散り、乾いた実がゆれる秋、訪いくれた教え子に種を譲った。「上手に育ててよ、七年待つのよ」かつての恩師のことばを、そのまま申し送った。いつの頃か彼女から、木が育ち花が着いたと、喜びの知らせが来た。年々花盛りだろうと、うれしさが増す。

「ひと粒の〝ろう梅″の種」に想う。袋に入れて持たせてくれた老婆は、とっくに逝き、七年(・・)を教えてくださった恩師も逝かれ、そして感動を共有した友と私は、卒寿直前(・・)の高齢となった。それでもわが家から嫁いだ種は、新しい庭で若い花を咲かせている。あの人この人の温かい心の繋がった

〝ろう梅″は、心の灯(ともしび)に思える。来年もその先も花に会えるかな、と佇つ朝庭に、風はやさしい。

母と短歌    室 常子

 母が亡くなって二十三年になる。改めて遺品を整理していたところ、短歌の原稿が入った封筒が見つかった。一枚に十首ずつ書かれた便箋が五十枚。約五百首が丁寧な字で記されていた。私は一気に読んだ。当時の母の暮らしぶりが細かく詠まれていた。

 母は明治四十五年生まれ。女学校卒業後すぐに農家に嫁ぎ来て八十六歳で亡くなるまで六十年以上を農業に携わった。父は先の戦争で満州へ出征し、足に銃弾を受けて負傷したものの無事に復員した。両親は一町歩の田に稲と麦を作付けする専業農家であったが、政府の減反政策により稲の作付けを減らして西瓜・メロン・苺・麻などを栽培した時期もあった。早朝から夜遅くまで働きづめで、田圃から帰って来ると、まるで頭から水を浴びたように汗びっしょりで、作業着が背中に張り付いていた。

 そのような厳しい労働の日々に、母の心の支えとなったのは短(う)歌(た)づくりであったと思われる。女学校時代に始めて亡くなるまでの約七十年間、こつこつ詠み続けた。いつもエプロンのポケットにメモ用紙を入れ、農良仕事の休憩時、畦に腰を下ろして鉛筆を走らせている姿、台所の隅で書き留めている姿などが私の目に焼きついている。

この度見つかった五百首は、昭和四十五年から昭和五十年、母が六十代の頃詠んだものと思われる。 〈裁縫の教師免状使い得ず土に生きつつ六(む)十(そ)路(じ)に入れり〉 苺ハウスの建設から苗の植え付け、消毒、摘果、出荷作業の苦労や収穫の喜びなどが多く詠まれていた。 〈蜜蜂の飛び交ふハウスに色づきし苺を見つつしばし飽かずも〉 〈苺採れば東の空が白み来てハウスの温度は二度に下がれる〉

農業は自然との戦い。台風、雪、獣害等人間の力の及ばない苦労もあったようだ。 〈暖冬の畑に出(い)で来し猿の群大根かかへ追われ逃げゆく〉 〈台風の被害見え来し田の稲にまたも流るる防除の薬〉

私は昭和四十五年に長男、四十七年に長女を出産した。私を気遣ってくれた短歌も数多くあった。当時の母の思いを知り胸が熱くなった。 〈産気づきし吾娘の報せに急ぎ行く麦刈る夫を一人残して〉

〈満ち足りて乳を離れしみどり児の顔を見つむる娘の幸せ思ふ〉

悲しい出来事もあった。麦を脱穀中、機械に右手人差し指をはさまれたことだ。 〈農機具にはさみ取られし我が指の短かさを恥じつつ茶の席に出(い)づ〉 私がこの事故を知ったのはずっと後のことだった。

 この五百首の中に、夫や子供たち、嫁や孫に対する母の暖かい思いやりがあふれている。私もいつしか短歌を詠むようになったが、まだまだ母に追いつけていない。

 二月の寒い夜、こたつに入りテレビを見ていてそのまま眠るように逝った母。葬送の日、母の投稿歌が新聞に載っていた。その新聞を柩の中にそっと入れたことが、ついこの間のことのように思い出される。

お問い合わせ

市民生活局スポーツ文化部文化振興課

所在地: 〒700-8544 岡山市北区大供一丁目1番1号 [所在地の地図]

電話: 086-803-1054 ファクス: 086-803-1763

お問い合わせフォーム