米作を基調に発達してきた日本の文化において、米から作る日本酒には深い歴史があります。
そこでこの秋は、岡山市内と備前地方の13機関が「酒」を共通テーマに連携し、「ひろがる酒の輪」と題して各々の特徴を生かした展示を行っています。
その中で当館では、大正5年の設立認可から今年で100周年になるのを記念し、幕末に岡山城下町の惣年寄(町奉行の下で民政を取り仕切った町人の代表者)を務めた国富家の文書を中心に、所蔵の古文書から岡山城下町の酒造と酒販に関わる資料を展示します。
「酒」を共通テーマにした連携展示は、下記の参加機関によって行われます。
赤磐市山陽郷土資料館
赤磐市吉井郷土資料館
岡山映像ライブラリーセンター
岡山県立記録資料館
岡山県立図書館
岡山県立博物館
岡山空襲展示室
岡山市立中央図書館
岡山大学付属図書館
公益財団法人吉備路文学館
瀬戸内市民図書館
備前市埋蔵文化財管理センター
備前市歴史民俗資料館
酒は、農作、醸造、流通、饗応、神事、民俗、美術工芸、文学など、さまざま分野と関連をもち、日本の歴史に根を深くおろしています。古代の神事や地域の祭りでは、しばしば儀式と伝統の中心に酒があるし、中世以降、酒造業者は財力を蓄えて金融業を兼ね、経済の実力を握ることがありました。そして工芸としての酒器や、文学と酒の関わり等、多岐にわたります。
展示の会場には、博物館、図書館、記録資料館の区別なく、多様な資料保存機関が集まっています。地域とともに堅実な活動を行う中、大切な資料を未来へ伝える役割を担っています。
酒というテーマのもつ広がりから、13機関はいずれも酒にかかわる何らかの資料を所蔵しているので、各機関の特徴を生かした展示を近い時期に一斉に行っています。全体では大規模な展覧会にまさる豊かな内容となりましたし、会場が少し離れていますが、むしろそれぞれ尋ね歩くことで未知の資料館との出会いがあるかも知れません。
当館は、とくに岡山市の図書館として、こんにちの岡山市の淵源となった近世城下町・岡山の酒造と酒販について紹介します。本展示により、近世都市の特徴の一端を感じていただければ幸いです。
岡山市立中央図書館が所蔵する古文書では、幕末の豪商で岡山城下町の惣年寄を務めた国富家に伝わり、その子孫で第19代岡山市長を務めた国富友次郎氏から、第二次大戦の戦火のさめやらぬ昭和20年9月に寄贈された文書(「国富文庫」約500点)が著名です。
昭和20年6月29日の岡山空襲で中心市街の大半を焼失した岡山市では、戦災を免れた町方史料は非常に乏しく、まとまったものとしては国富文庫が唯一無二です。近世城下町・岡山の市政を知るには岡山大学付属図書館所蔵「池田家文庫」(旧藩主・池田家の名を冠した岡山藩の一連の文書)と補いあう関係にあり、かけがえのないものです。
塩涌屋・国富家は江戸時代後期から海産物問屋として活動を始め、金融業へ進出して財をなし、幕末期には岡山藩政を財政面から支える豪商となりました。そして安政2年から当主の国富源次郎が定員3名の町方惣年寄のひとりに任ぜられ、幕末の数々の経済危機の収拾にあたり、明治時代初期の息子の庄太郎まで、旧城下町に由来する岡山市域の民政を他の同僚とともに取り仕切りました。
したがって国富家の文書は、幕末~明治初期の岡山市政にあって、町会所と呼ばれた市政を執り行う役所に出仕し、財政、金融、民生、および産業統制等の諸行政に実務者として携わる中で作成された公文書やその控えからなっています。それらには、市民(城下町の町民)からの請願や申し立てを市政の長官であった町奉行へ取り次いだり、町奉行から申し渡された藩当局の指示を触れや口達で伝えたりした内容が記録されています。
戦国時代に宇喜多秀家が岡山城を築き、配下の武士を集めて城下町を開いたとき、領内各地の酒造者を岡山のまちへ集中させようとしたことが、江戸時代に岡山藩士で学者の斎藤一興が古い文献を調査して筆録した『黄薇古簡集』の巻第6にある、秀家の書簡の写し(片上町久志屋善次郎所蔵文書。ここでは斎藤一興輯録、藤井駿・水野恭一郎・長光徳和校訂、『黄薇古簡集』(岡山県地方資史料叢書8)昭和46年、岡山地方史研究連絡協議会、157頁の翻刻による)から知られています。
(原文)
口上
分国中、さけつくり候事、おか山の外にてハ令停止候、酒作度ものハ岡山へ可罷出候、於岡山つくらせ可申候、然者来八月中ニ岡山へ致在宅様ニ可申付候、左様相そむくもの於有之ハ、其在所を取候給人又ハ代官為曲事、其者の儀ハ、一るいともニ可遂成敗候、其方不断申付候、・・・・・・儀洩、候ハゝよの口より聞付候ハゝ、其方身上はて
文四
五月八日 秀家
伏見新介殿
欠文があり意味を取り難いですが、少し説明を入れて平易に書き直すと、
口上
分国(宇喜多家の領国)中、酒作りそうろうこと、岡山の外にては停止せしめそうろう、酒作りたき者は岡山へまかり出ずるべくそうろう、岡山において作らせ申すべくそうろう、しからば来る八月中に岡山へ在宅致すように申付くるべくそうろう、さようあいそむくものこれあるにおいては、その在所を取りそうらい給人(秀家から領地を支給されている配下の武士)または代官曲事となし、その者の儀は、一類ともに成敗を遂ぐべくそうろう、そのほう不断申付けそうろう、・・・(欠文)・・・儀洩れ、そうらわばよの口より聞きつけそうらわば、そのほう身上果て(以下、欠文か)
文(禄)四(年)五月八日 (宇喜多)秀家
伏見新介殿
江戸時代の岡山城下では、幕府の方針に従い、酒造業者は年々の米の産高に応じて生産量を統制されました。凶作年は米を食料に優先的に回す必要があったからで、そのため酒造米の生産高(=酒の生産量)が前年から半減されることもたびたびでした。
近世岡山の酒造行政の実際は、幕末の嘉永年間に町奉行の高桑忠右衛門が先例をたずねて市政の変遷をまとめ、行政の確かな拠り所とするために編纂した書物『市政提要』に筆録された、数々の記録からうかがわれます。
その一例を江戸時代前期の寛文年間からあげると(ここでは谷口澄夫ほか編『市政提要』福武書店、昭和48年、上巻188頁の翻刻によっています)、
(原文)
「寛文八申年」覚
一 於諸国在々酒造之義、可為累年之由去年相触之、屹当年ハ又去年之半分可造之旨、其所之領主并奉公人・御代官より申付之、其減少之員数書注之、御勘定所迄可被差上事
酒米高七千五百石
三月廿七日
これも説明を入れて読みやすく書き直すと、
「寛文8年(1668年)申年」 覚え
一つ 諸国在々における酒造の儀、累年の由となすべくこれをあい触るる。当年までは去年の半分にこれを造るべき旨、その所の領主ならびに奉公人・御代官よりこれを申しつく。その減少の員数これを書き注し、御勘定所まで差上げらるべきこと。
酒米高 7500石
3月25日
さらに、
(原文)
三月御改岡山町中酒造申米高割
(この次に酒造業者ごとの割り当て高が列記されていますが省略)
都合七千五百石 酒屋数合百八拾人 内新規御免理り有
右ハ今度従御江戸、寛文七年ニ造申酒米高半分、当暮より造り申様ニ御意ニ付、去年造申壱万五千石之半分、七千五百石ニ割符仕、銘々酒屋共判形いたさセ差上申候
四月七日
これも書き直すと、
右は今度御江戸より、寛文7年に造り申す酒米高の半分、当暮れより造り申すように御意につき、去年造り申す1万5000石の半分、7500石に割符つかまつり、銘々酒屋ども判形(押印)いたさせ差上げ申しそうろう。
4月7日
これにより、このときの岡山城下町では酒屋数が180人で、酒米高の割り当ては寛文7年の1万5000石から寛文8年の7500石へ半減されています。
これは『市政提要』で伝えられた酒造関係記録のほんの一例です。酒造関連の項目の前半部の多くが酒造米制限に関する記事で占められています。
なお、江戸時代の岡山藩領で酒造が許されていたのは、城下と13ヵ所の特定の在所(牛窓、下津井、片上、虫明、和気町、金川、周匝、建部、天城、西大寺、福岡、鴨方、八浜)に限られていました(谷口澄夫『岡山藩政史の研究』175頁)。
『市政提要』の原本は岡山大学付属図書館「池田家文庫」に所蔵され、岡山県立図書館にも写本がありますが、当館には昭和初期とみられる時期に歴史家の八丹幸八氏が原本から手書きで筆写した写本があり、本展示に出品しています。整った美しい筆跡で、同氏の他の手写本には活字にせず、そのまま複写されて現在広く市販されている刊本になったもの(『備陽国誌』、『撮要録』など)もあるくらいです。
国富文庫からの最初の3点は、藩当局(町奉行)からの指示を伝達した文書(廻状、触れ)です。江戸時代にはこうした廻状や、市中の人が集まる場所に掲げられる高札で、為政者の指示が住民へ伝えられました。
3通の文書は、岡山城下では他所で作られた酒の販売が藩の国法で禁じられてきたが、灘や伏見などの上方酒や、藩領内の農村地方の中心集落(前述の13ヵ所)で造られた在方の酒が流入しており、城下の酒造業者の請願を受けて藩当局が統制を申し渡した内容のものです。それらは藩当局が城下の酒造者の保護のために出した指示で、ほぼ同じ内容で『市政提要』に収録されている文書もあります。
いずれも、藩の古法が緩んできたので今後は厳しく規制するが、9月まではこれまで通りとし(その理由は、経済の混乱を避けるためとみられます)、10月朔日から厳重にするのでよくよく心得るように、などというものです。
こうした指示は『市政提要』をみても頻繁に出されており、かえって取り締まりが困難になってきていたことを暗示しているようです。
文書の読み下しは図版の下に添付したPDFファイルをご覧ください。
「酒売買ニ関スル廻状」から、酒造年行司あて文書
はじめは、通常3名が信任されていた城下の酒造業者の代表者、酒造年行司へあてて出された文書です。
「酒売買二関スル廻状」から酒造年行司あて文書(安政年間、国富文庫096.15)
「酒売買二関スル廻状」から酒造年行司あて文書(安政年間、国富文庫096.15)(続き)
なお、実際に伝達される文書では、本文末尾の日付の次に差出人の名前(町奉行)があり、その次に取次者(惣年寄)や宛先の名前(酒造年行司=酒造業者の代表者)が続きますが、この文書ではそれらが省かれ、宛先の名前(酒造年行司)だけが冒頭に書かれています。これは、惣年寄の国富源次郎が取り次ぐ際に、必要な内容だけを写して自身または町会所の控えにしたものか、回付後に内容が定型化している文書の後半部を省いて保管したものか、いくつかの可能性が考えられます。
「酒売買ニ関スル廻状」から、惣年寄あてに出され、町役人へ回付された文書。
「酒売買二関スル廻状」から惣年寄あて文書(安政年間、国富文庫096.15)
「酒売買二関スル廻状」から惣年寄あて文書(安政年間、国富文庫096.15)(続き)
「酒売買二関スル廻状」から惣年寄あて文書(安政年間、国富文庫096.15)(続き)
「酒売買二関スル廻状」から惣年寄あて文書(安政年間、国富文庫096.15)(続き)
この文書は廻状(触れ)の形式が備わり、黒印も捺されているので、実際に伝達に使用されたものとみられます。日付の次にくる町奉行の署名を欠きますが、原本を惣年寄が筆写し、写しを各町へ回付した場合、そのときに省かれたか抜けた可能性が考えられそうです。これにより、町奉行から「触れ」として出された藩当局の指示が、惣年寄の取り次ぎを経て町役人へ伝達される様子がうかがえます。
町役人とは、岡山城下に63町あった町人の町で、住民(商人・職人)の中から藩当局に信任されてその町のさまざまな役を務めた人のことです。触れを受け取ると内容を書写し、自分の町名に黒印を押して次々伝達することで惣年寄まで回付されたなら、こんにちの回覧板のような動き方をしていたわけです。なお、緊急時や重要な触れには内容を確認した時間を筆で書き入れることがありますが、これはそうではない通常の触れです。
時期により変遷はあるものの、岡山の惣年寄はおおむね定員3名の同僚制で、それぞれ20数町を受け持ちました。町奉行とその配下の侍たちがおもに司法や警察をつかさどったのに対し、惣年寄以下の町役人は、町奉行のもとで町人への民政を担いました。
なお、PDFファイルで添付した読み下し文には、現代語訳ではなく、原文の趣きを残すように試みながら平易に書き改めた文を添えました。
「酒販売ニ関スル廻状」から、船年寄にあてて出された文書
「酒売買二関スル廻状」から船年寄あて文書(安政年間、国富文庫096.15)
「酒売買二関スル廻状」から船年寄あて文書(安政年間、国富文庫096.15) (続き)
船年寄とは、船主を統率した町方の役人のことで、惣年寄に次ぐ高い格を与えられていました。鉄道や自動車がなかった前近代には、穀物や燃料や建築材料などの重量のある物資を大量に輸送するには水の浮力の利用が有利で、船運は物流の中心でした。そのため、岡山でも市街の中央を貫く旭川の河岸沿いに船着き場があり、蔵屋敷が並んで活況を呈していました。
文書の内容は、やはり城下の酒造の保護にかかわるもので、忍び忍び行われていた他所からの酒の流入を阻止するため、船舶での運送に目を光らせることを告げ知らせるものです。
この文書も、日付が月までしか書かれていないし、その末尾に続く差出人(町奉行)以下の名前が欠けていますので、手元に残した控えか、何らかの理由で省かれて保存されたもののようです。
酒は昔から重要な税源でした。町人からの税収には、都市の不動産に賦課される地子や、売り上げに課される運上などがありますが、それらに加えて冥加金とは、もとは為政者からの保護に対する返礼として自発的に納付された金銭を意味しますが、定例化するなどで実質的に税の性質を帯びてきました。
藩当局は領内の酒の生産と流通を統制し、城下の酒造業を保護するため、他の様々な産業と同様に、時期により変動はあるもののおおむね同業者組織である「仲間」を結成させて、新規参入を抑制し、信頼を置く旧来の生産者の維持に腐心しました。
また、これまでの文書にたびたび出ていた「株」も(酒造株、船持株など)、一定数の事業者へ与えられた城下での営業権のことで、不正が発覚したらこれを取り上げる、という表現がしばしばみられます。株は結成と解散が繰り返され、少しずつ意味を変えて鑑札となり、近代では自由化が進められます。
「酒造方冥加金請取帳」(明治2年、国富文庫093.162)
「酒造方冥加金請取帳」(明治2年、国富文庫093.162)(続き)
「酒造方冥加金請取帳」(明治2年、国富文庫093.162)(続き)
文面は、酒造業者の代表である酒造年行司が冥加金の納付を呼びかけたところ、皆が賛同したのでしかじかの金額を収めます、それに対して惣年寄の国富源次郎が、請(受)け取ったので町金へ入れます、という内容です。
そのニュアンスは、酒造稼一統之者共え申触候處難有御請奉申候得者(酒造稼ぎ一統の者どもへ申し触れそうろうところ、有難く御請け申し奉りそうらえば)、そして、御国恩為冥加乍恐差上度段申候此旨御聞届被可一統難有仕合ニ奉存候右奉伺上候以上(御国恩冥加のため恐れながら差上げたき段、申しそうろう。この旨御聞き届けられらるべく、一統有難き仕合せに存じたてまつり、右、伺い上げたてまつりそうろう。以上。)と続く文面から伝わってきます。厳しい身分社会の中で、へりくだった表現が繰り返し使われます。
そのようにして前半では、亀屋、久志屋、茶屋の3名の酒造年行司(酒造業者の代表者)から、そのときの惣年寄と思われる入江、森、河本の3氏に対して冥加金の納付を申し出ており、後半では、銀で97貫600目の残金があり、これを町金(町御金)に収めることが、3名の酒造年行司から国富源次郎の取り次ぎで市政役所(市政御役所)へ報告されています。
この文書は明治2年のものですが、明治4年の廃藩置県や続く地租改正などの一連の改革を経るまでは旧藩の体制が維持され、税制にも大きな変化はありませんでした。ただし宛先には町会所でなく、市政御役所の名称が出てきています(地方行政制度に基づく市制施行は岡山では明治22年からですが、「市政」の語はその前から使われていました)。このように、毎日欠かさず作成されてきた行政文書には、ひとつひとつの文面に政治制度が段階を追って変遷するさまが記録されています。
当館には、江戸時代の農村の様子をうかがい知る古文書も所蔵されています。
その中で、元禄時代に旭川河口から吉井川河口までの海面をせき止める大規模な干拓工事で造成された沖新田は、岡山市中心市街の東郊に位置しますが、ここで大庄屋を務めた藤原家から1000点を超す文書が当館へ寄贈されており、新田地帯の農村事情をうかがい知る資料となっています。
江戸時代後期には農村地帯である在方でも経済・流通の中心となる集落が次第に発達し、製造業や商業が活発になってきます。それは、城下の産業や商業を保護し、在方では農業を振興して食糧や年貢の安定を期したい藩当局や、城下の生産者との間に摩擦を生じましたが、自由な経済への流れは押しとどめようがありませんでした。
「沖新田東西之図」(文政元年(1818年)、岡山市指定重要文化財)
図中の文章に、「鹿之介」という名前の人が西洋風の描き方を取り入れて新田の様子を精確に描いた、というような内容が制作年(文政元年)とともに記されています。
色分けされた各村の範囲、縦横に巡る細かい用水路や、海辺の巨大な締め切り堤防、農村の細部までが克明に描かれ、江戸時代後期の沖新田の様子がうかがえます。
沖新田は図の中央の百間川で東西に分かれますが、沖新田西の三番村の北寄りに大庄屋の藤原家の屋敷が大きく描かれています。藤原家は旧来の陸地寄りに位置していますが、海に近い地域ほど土中の塩分が強く、生産条件の悪い田が多くなります。
この図は、もとは折りたたんで収納する絵図でしたが、保存のため軸装にしています。
農家ごとに酒造米の産出高を記し、年貢の納付にあたって交わしたとみられる「覚え」が4通、その控えを1冊にまとめて筆写した文書で、沖新田における酒造米生産の実態を知ることができます。
4通の覚えには、それぞれ友三郎(六番村)、佐一郎(七番村)、甚七(外七番村)、紋八(九番村)の名前と、めいめいの酒造米の生産高(76石2斗、33石、100石、300石)、および幕府への上納額(年貢米の10分の1)などが記され、享和3 年3月の年記に続き、各農家が所属する村の庄屋の署名と、4通に共通して大庄屋の藤原家の当主の署名があり、郡奉行の入江清大夫(岡山大学付属図書館「池田家文庫」ウェブサイトのデータベース「諸職交代」によれば、享和2年3月23日から文化10年8月まで在職)へあてて出されています。
旧版の岡山市史第4巻(2947頁)によれば、酒の運上は宝永6年(1709年)2月に一旦廃止されていましたが、享和3年(1803年)から酒造役米として酒造米高の10分の1を幕府へ上納することになりました。そのできごとと年記が一致するこの文書は、関連して作成されたものとみられます。
商家が暮れの掛け取りの際に顧客を回って配った引札(ひきふだ)は、盆の前に配られた団扇とともに、顧客の繁栄を願い、引き続きの愛顧を求めたものでした。そのため正月を迎える引札には、松竹梅や鶴亀などの縁起のよい主題や、道徳的模範となる人物などが、手彫りの木版か、まれには銅板からの転写で印刷されています。
この引札は沖新田光政村にあった酒造会社が配ったもので、画中に描かれた色紙に「八幡太郎義家凱旋の図」とあります。後三年の役で活躍した源義家が、武士の祖先として尊崇されたことから、引札の題材に選ばれたものです。
全体の図柄は大阪の印刷会社で作成され、地元の印刷所では、あらかじめ設けられていた余白に墨一色の木版で商店の名前、業種、住所を摺り入れました。
『千載和歌集』に収載された源義家の和歌「吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山桜かな」は、明治時代には唱歌に歌われて広く普及していました。
なお、玉川とは味醂のことです。
年記がないため制作年を確定できませんが、明治時代後半、とりわけ日露戦争を前後する明治30年代後半~40年代初頭頃の特徴(細かい区画に分けず、全体が単一画面のすっきりした構図になっていること。開化の主題がまだ多かった明治20年代よりも、忠君や尚武の主題へ傾いていること等)を備えています。
引札 備前上道郡光政村 玉屋醸造元(明治時代後半)
なお、本展示では先行研究として、おもに下記の文献を随時参照しました。
『岡山市史』(旧版)第4巻 岡山市役所、昭和13年初版、昭和50年復刻
『岡山市史』産業経済編 岡山市史編纂委員会(編)、岡山市役所(発行)、昭和41年
『市政提要』谷口澄夫ほか(編)、福武書店(発行)、昭和48年
『近世岡山町人の研究』 片山新助(著)、楓亭文庫(発行)、昭和59年
『岡山藩政史の研究』 谷口澄夫(著)、塙書房(発行)、昭和39年
『江戸時代のお触れ』 藤井譲治(著)、山川出版社(発行)、平成25年
所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]
電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093