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(4月〜6月)岡山市立図書館設立100周年記念 所蔵錦絵とその流れ

[2016年4月19日]

ID:9409

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多色摺り木版画の魅力を知る、錦絵とその流れについて

  • 会期
    平成28年4月20日(水曜日)~6月12日(日曜日)
  • 場所
    岡山市立中央図書館 2階視聴覚ホール前展示コーナー
  • 趣旨
    ひとつの版から多くの部数を制作して広く頒布できるようにする、印刷技術の発展が促されたのは、それが広報や情報伝達の重要な手段となりえたからでした。
    当世の風俗を活写した浮世絵の分野において、江戸時代の明和2年(1765年)に絵師の鈴木春信が中心となって創始された錦絵は、木版の多色摺り技法の発展のうえに成立したもので、これによって画面にくまなく現実に即した多様な色彩を施せるようになり、肉筆画に劣らない色鮮やかな作品を多量に生産できるようになりました。また、木版画の特徴である、版面で構成される色彩の扱い方において、肉筆画とは異なる独自の表現を生み出しました。
    錦絵は江戸時代後期から明治時代まで続き、多数の版元、絵師、彫師、摺師らが携わって、共同制作で多くの傑作を残しました。絵画芸術を量産して庶民へ流布させ、さまざまな情報の伝達に貢献した錦絵の伝統は、明治時代には広告や初期の新聞(錦絵新聞)、引札などへ広まり、高い技量に支えられた版画の芸術を一般市民の日常へ浸透させました。
    当館では、印刷技術や情報伝達の歴史と深く関連する錦絵に着目し、岡山にゆかりの作品を中心に若干の収集を行ってきました。このたび、そのすべてを展示公開するとともに、錦絵の技法を受け継ぐ明治期の広報媒体(新聞、引札)も取り上げて、その広がりを紹介します。

1 錦絵のあゆみ

中国の故事や風景、日本の古典文学などの絵画が寺院や貴族・武家の邸館を飾っていた江戸時代に、当世の風俗を活写した浮世絵(美人画、役者絵、名所絵等)が人気を呼びました。
1枚1枚を筆で描く肉筆画に対して、17世紀後半に菱川師宣が一枚摺りの独立版画、墨摺絵を創始すると、版画の量産性によって浮世絵は庶民のもとへ広まりました。
やがて18世紀前半には奥村政信が墨摺絵に紅や緑、紫、黄等を手彩色した紅絵を創始。そして延享9年(1744年)に江戸の芝神明前の版元、江見屋上村吉衛門が版木の右下隅に「見当」を設けることを考案し、数枚の版木を見当合わせすることで、彩色摺りを可能にしました。これによって墨摺絵に紅と緑(あるいは黄、青)を摺刷する、紅摺絵が始まりました。
こうなると、多彩色の木版画まであと一歩です。そしてそれは明和2年(1765年)に、美人画を得意とした絵師・鈴木春信と、関連する版元、彫師、摺師たちにより、錦絵(多色摺り木版)の技法として完成を迎えました。以後、18世紀末には鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽などが美人画や役者絵で、19世紀前半には歌川豊国、歌川国芳、葛飾北斎、歌川(安藤)広重らが美人画、役者絵、風景画(名所画)等で数々の傑作を残しました。
幕末から明治にかけて、合成染料(アニリン染料)の導入で色調が強く鮮やかになり、開化風物や遠近法などの洋風表現を取り入れて、新聞挿絵等へも進出するなど、錦絵に大きな変化が訪れました。その頃活躍したのが歌川国芳の弟子の月岡芳年や、河鍋暁斎、風景画を描いた小林清親ら、幕末明治の浮世絵師たちです。しかし近代における印刷技術の発展はめざましく、錦絵は日清戦争における戦争錦絵を最後に衰退の途をたどりました。

展示品

  • 作者不詳「備前岡山京橋渡リ初図」弘化4年(1847年)大判5枚続き
    岡山城下の旭川にかかる京橋が61年ぶりに懸け替えられ、渡り初め式が行われたときの情景を描いた作品です。画面中央に渡り初めに選ばれた小串村の一家の名前が記されています。幕末に岡山城下町の惣年寄役を務めた豪商、国富家に伝わったもので、現在は巻子装に改められています。
    画像は、このウェブサイトのページ(特別展示コーナー)の平成27年度、(6~7月)「岡山空襲と国富家文書 ~戦災をくぐり抜けた城下町の記録~」に掲載しています。
  • 月岡芳年「豊臣勲功記内宮島大合戦図」慶応元年(1864年)5月 大判3枚続き
    『絵本豊臣勲功記』は、戯作者の柳水亭種清(八功舎徳水とも)が、安政4年(1857年)から明治17年(1884年)にわたり著した豊臣秀吉の生涯の物語(全90冊)で、挿絵を歌川国芳と松川半山が担当しました。
    この錦絵は、そののち、歌川国芳の弟子で江戸~東京で活躍した月岡芳年(天保10年(1839年)~明治25年(1892年))が、挿話の一つを大判3枚続きに描いたものです。中央のやや右には厳島神社の大鳥居が、左上には海上に広がる社殿が描かれています。
    浮世絵の制作年月については、一種の検閲統制(改め)が行われたため、画中に「改め印」が描かれています。この作品ではそれが「丑五改」とあるので、丑年の5月の官許と判明します。十数年ごとに変化していたことが判明している印の形式の変遷とあわせると、この年は慶応元年です。
  • 月岡芳年「太功記之内高松水攻」慶応4年(1868年)7月 大判3枚続き
    この作品は、寛政年間に初演された近松一門の浄瑠璃『絵本太功記』の一場面(備中高松城の水攻め)を描いたものです。右下の騎乗の人物には「羽柴筑前守秀吉」と添え書きがあります。原作の浄瑠璃は明智光秀を主人公とし、義のために主君を弑逆しながら狡知にたけた秀吉によって追い詰められる、悲劇の武将として描いた異色の文学です。
    この錦絵で芳年は、奥行き感を強調した広い風景の中に静まり返る高松城を遠望し、近景に築堤にいそしむ秀吉方の武将や人足を描いて、動と静の対比によって戦場の緊張感を高めています。
    画中の改め印(辰七改)により、官許年月が判明します。
「豊臣勲功記内宮島大合戦図」と「太功記之内高松水攻」の図

月岡芳年「豊臣勲功記内宮島大合戦図」慶応元年(1864年)5月 大判3枚続き(上)と、「太功記之内高松水攻」慶応4年(1868年)7月 大判3枚続き(下)

  • 岡本常彦「岡山城内博覧会図」明治12年(1879年)大判5枚続き
    岡本常彦(文化13年(1816年)~明治24年(1891年))は、窪屋郡水江村(現在は倉敷市)に生まれ、京都に出て呉春門下の四条派の画家として活躍していた叔父の岡本豊彦(安永2年(1773年)~弘化2年(1845年))に師事し、長崎にも遊学して人物画や風景画に才能を示しましたが、実家の都合から故郷へ帰って活躍しました。寺院等の襖絵のほか、明治時代には版画の下絵を得意とし、岡山地方で制作された多くの版画作品に関与しました。
    この作品は、天守閣と月見櫓など、わずかの建物を残して多くが取り壊される前の岡山城で、民立の博覧会が開催されたときの様子を伝えています。
    なお、参考に岡本常彦の肉筆画、山川正之像(絹本着色、軸装)をあわせて展示しています。
  • 二代目長谷川貞信「御巡幸御行粧之図」明治18年(1885年)大判4枚続き
    明治18年の夏、明治天皇の山口、広島、岡山、兵庫4県の巡幸がありましたが、岡山市(当時は岡山区)には8月5日に三蟠港に上陸、馬車で行在所の後楽園に向かい、翌日に県庁、裁判所と各種の学校が訪問されました。「行粧」とは「旅のよそおい」、あるいはその様子といった意味の言葉です。
    原画の作者は神戸や大阪の開化風俗の描写で名声を博していた大阪の浮世絵師、二代目長谷川貞信(嘉永元年(1848年)~昭和15年(1940年))で、遠景に岡山城と後楽園、近景には天皇の馬車行列が連なる迫力ある画面に仕立てています。
    右上の編者の口上書きに、「いまや王政復古となり、巡幸の様子を広く人々に知らせるため」というような意味の、この錦絵の伝達メディアとしての目的が書かれています。
二代目長谷川貞信「御巡幸御行粧之図」の画像

二代目長谷川貞信「御巡幸御行粧之図」明治18年(1885年)大判4枚続き

2 明治期以降の錦絵の伝統

(1)錦絵新聞

これは、新しく聞き知った出来事(ニュース)を伝える媒体(新聞)と、江戸時代から続く多色刷り木版画の錦絵が結びついたものです。明治7年(1874年)の錦絵版東京日日新聞の発刊から、明治10年(1887年)頃まで流行し、その間に約40種類くらいの錦絵新聞が東京、大阪、京都などの都市で発行されました。東京の郵便報知新聞には月岡芳年が筆をふるうなど、原画の制作には錦絵の絵師が携わりました。
初期の新聞が漢語の多い、知識人向けのメディアであったのに対して、錦絵新聞の特徴は、色鮮やかな錦絵の要素を加えることでビジュアルになり、庶民にも興味深く、わかりやすい紙面を提供したことです。漢字にはルビが振られ、扱われる題材も強盗、殺人、心中、奇談などの市井の具体的な事件が取り上げられ、庶民が対象となることが普通で、これを現代の写真週刊誌と比べる人もあります。
錦絵新聞は、鮮やかな色彩が読者を引き付け、新聞を庶民に身近なものとしましたが、制作には手間がかかるため速報性に劣り、やがて日刊の一般紙(はじめは墨一色の木版で、のちに活版)に圧倒されていきました。

<展示品>

二代目長谷川貞信「錦画百事新聞」第82号 明治8年(1875年)縦16.5センチメートル×横24.5cm

明治8年(1875年)から大阪で出版された錦画百事新聞は、190号までの現存が判明しています。当館所蔵のこの展示品は、郷土史家の巌津政右衛門氏の寄贈品で、82号~167号のひと続きからなっています。もとは1枚ずつ発行されたものですが、末尾の書入れによると、明治11年に大阪で現在の折り本の形に仕立てられ、伝えられてきました。
以下の添付画像に図版を掲出したのは、その中の最初の1枚(82号)です。画面の左下の落款(作者の署名にあたる)は、さきの「御巡幸御行粧之図」と同一人で、神戸や大阪の開化風俗を新鮮な感覚で描き、西南戦争等を題材にした戦争絵や錦絵新聞で名声を博し、大阪の浮世絵界でいわば大御所のような地位を占めて活躍したという、二代目長谷川貞信です。制作年の明治8年は、まだ20代の頃、上方で活躍した浮世絵師であった父(初代長谷川貞信)の名跡を継いだばかりの年にあたります。

(2)引札

商店が特定の顧客と深く結びつき、品物を永年にわたり納めることが多かった前近代の商慣習では、掛取り(盆と暮れに顧客を回って代金を集める)が普通でしたので、その折りに夏は団扇、冬は正月迎え用の目出度い図柄を描いた引札を配り、永い愛顧を求めたものでした。
正月用引札の制作は、日清戦争を前後する明治20年代を通じて大阪の印刷会社(古島印刷所、中井印刷所)が全国市場を席巻するようになり、京都や大阪の画家に原画を依頼して、木版機械摺りの技法で量産し、これに各地方の摺師が商店の名入れをして、配りものとなりました。
錦絵の技法を引き継ぐ木版多色摺りの引札では、原画に関西地方の多数の浮世絵師や日本画家が携わっています。しかし大正期以降は写真を製版分解するオフセット印刷が普及するほか、現金の即時払いで商品を売買する近代の商習慣が広まり、引札の贈答は廃れていきました。
なお、大奉書紙(縦約39センチメートル、横約53.5センチメートル)を縦に二つ切りした大判(縦約39センチメートル、横約26.5センチメートル強)が浮世絵の一枚ものの用紙の標準サイズですが、これは引札にも共通しています。

<展示品>

二代目長谷川貞信 引札「内外砂糖卸売商 岡山市橋本町 小野定吉」明治26年(1893年)
縦26.2センチメートル×横38.0センチメートル
二代目長谷川貞信 引札「和洋金巾染糸并二諸毛糸卸商 岡山市大字新西大寺町 浜重太郎」
制作年代不明 縦25.8センチメートル×横37.7センチメートル<(いずれも)添付画像>

当館所蔵の引札(約80点)に二代目長谷川貞信が原画を描いたものが2点含まれていました。商店の名入れ用のスペースを主題の絵画で包むような構図をとることと、筆遣いが繊細で随所に柔らかい表現をみせる特徴があり、その上に開化の風俗を巧みに織り込んでいます。
そのひとつ(内外砂糖卸売商 小野定吉)は画面右端の刊記から明治26年の制作と判明します。
もうひとつには刊記がありませんが、紙質の類似や、名入れスペースの青みがかった地模様、主題部分の赤と緑が中心の色使いなど共通の特徴が多く、2点は近い時期のものかと推定されます。

作者不詳 引札「荒物履物卸商 岡山市中橋西詰 和気平次郎」 縦37.2センチメートル×横51.1センチメートル

落款も刊記もなく作者と制作年代を限定できませんが、壇ノ浦の合戦における源義経の八艘跳びを描いたこの引札には、波しぶきや、遠景の平家の船のたなびく赤旗など、歌川国芳や月岡芳年の武者絵や役者絵の系譜を感じさせる躍動感ある錦絵の伝統が色濃く見られます。

(3)大正・昭和の錦絵

川瀬巴水(本名:文治郎、明治16年(1883年)~昭和32年(1957年))は、大正・昭和期の浮世絵師です。日本画家の鏑木清方に学んだのち、衰退しつつあった浮世絵版画に取り組んで、江戸時代の歌川広重や明治時代の小林清親の風景版画を研究し、全国を旅しながら木版の特徴を生かした抒情的な風景版画を制作しました。

<展示品>

川瀬巴水 「岡山のかねつき堂」 昭和22年(1947年)縦38.4cm×横26.0センチメートル

この作品は、昭和20年6月29日の岡山空襲で焼失した岡山市栄町(現在の北区表町二丁目)の鐘撞堂を思い起こして描いたものです。路面が濡れてそぼ降る雨の中、時報の響きを想像するとき、しっとりした情感がよみがえります。

川瀬巴水「岡山のかねつき堂」の画像

川瀬巴水「岡山のかねつき堂」昭和22年(1947年)縦38.4cm×横26.0センチメートル

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