中国の故事や風景、日本の古典文学などの絵画が寺院や貴族・武家の邸館を飾っていた江戸時代に、当世の風俗を活写した浮世絵(美人画、役者絵、名所絵等)が人気を呼びました。
1枚1枚を筆で描く肉筆画に対して、17世紀後半に菱川師宣が一枚摺りの独立版画、墨摺絵を創始すると、版画の量産性によって浮世絵は庶民のもとへ広まりました。
やがて18世紀前半には奥村政信が墨摺絵に紅や緑、紫、黄等を手彩色した紅絵を創始。そして延享9年(1744年)に江戸の芝神明前の版元、江見屋上村吉衛門が版木の右下隅に「見当」を設けることを考案し、数枚の版木を見当合わせすることで、彩色摺りを可能にしました。これによって墨摺絵に紅と緑(あるいは黄、青)を摺刷する、紅摺絵が始まりました。
こうなると、多彩色の木版画まであと一歩です。そしてそれは明和2年(1765年)に、美人画を得意とした絵師・鈴木春信と、関連する版元、彫師、摺師たちにより、錦絵(多色摺り木版)の技法として完成を迎えました。以後、18世紀末には鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽などが美人画や役者絵で、19世紀前半には歌川豊国、歌川国芳、葛飾北斎、歌川(安藤)広重らが美人画、役者絵、風景画(名所画)等で数々の傑作を残しました。
幕末から明治にかけて、合成染料(アニリン染料)の導入で色調が強く鮮やかになり、開化風物や遠近法などの洋風表現を取り入れて、新聞挿絵等へも進出するなど、錦絵に大きな変化が訪れました。その頃活躍したのが歌川国芳の弟子の月岡芳年や、河鍋暁斎、風景画を描いた小林清親ら、幕末明治の浮世絵師たちです。しかし近代における印刷技術の発展はめざましく、錦絵は日清戦争における戦争錦絵を最後に衰退の途をたどりました。
月岡芳年「豊臣勲功記内宮島大合戦図」慶応元年(1864年)5月 大判3枚続き(上)と、「太功記之内高松水攻」慶応4年(1868年)7月 大判3枚続き(下)
二代目長谷川貞信「御巡幸御行粧之図」明治18年(1885年)大判4枚続き
これは、新しく聞き知った出来事(ニュース)を伝える媒体(新聞)と、江戸時代から続く多色刷り木版画の錦絵が結びついたものです。明治7年(1874年)の錦絵版東京日日新聞の発刊から、明治10年(1887年)頃まで流行し、その間に約40種類くらいの錦絵新聞が東京、大阪、京都などの都市で発行されました。東京の郵便報知新聞には月岡芳年が筆をふるうなど、原画の制作には錦絵の絵師が携わりました。
初期の新聞が漢語の多い、知識人向けのメディアであったのに対して、錦絵新聞の特徴は、色鮮やかな錦絵の要素を加えることでビジュアルになり、庶民にも興味深く、わかりやすい紙面を提供したことです。漢字にはルビが振られ、扱われる題材も強盗、殺人、心中、奇談などの市井の具体的な事件が取り上げられ、庶民が対象となることが普通で、これを現代の写真週刊誌と比べる人もあります。
錦絵新聞は、鮮やかな色彩が読者を引き付け、新聞を庶民に身近なものとしましたが、制作には手間がかかるため速報性に劣り、やがて日刊の一般紙(はじめは墨一色の木版で、のちに活版)に圧倒されていきました。
<展示品>
二代目長谷川貞信「錦画百事新聞」第82号 明治8年(1875年)縦16.5センチメートル×横24.5cm
明治8年(1875年)から大阪で出版された錦画百事新聞は、190号までの現存が判明しています。当館所蔵のこの展示品は、郷土史家の巌津政右衛門氏の寄贈品で、82号~167号のひと続きからなっています。もとは1枚ずつ発行されたものですが、末尾の書入れによると、明治11年に大阪で現在の折り本の形に仕立てられ、伝えられてきました。
以下の添付画像に図版を掲出したのは、その中の最初の1枚(82号)です。画面の左下の落款(作者の署名にあたる)は、さきの「御巡幸御行粧之図」と同一人で、神戸や大阪の開化風俗を新鮮な感覚で描き、西南戦争等を題材にした戦争絵や錦絵新聞で名声を博し、大阪の浮世絵界でいわば大御所のような地位を占めて活躍したという、二代目長谷川貞信です。制作年の明治8年は、まだ20代の頃、上方で活躍した浮世絵師であった父(初代長谷川貞信)の名跡を継いだばかりの年にあたります。
商店が特定の顧客と深く結びつき、品物を永年にわたり納めることが多かった前近代の商慣習では、掛取り(盆と暮れに顧客を回って代金を集める)が普通でしたので、その折りに夏は団扇、冬は正月迎え用の目出度い図柄を描いた引札を配り、永い愛顧を求めたものでした。
正月用引札の制作は、日清戦争を前後する明治20年代を通じて大阪の印刷会社(古島印刷所、中井印刷所)が全国市場を席巻するようになり、京都や大阪の画家に原画を依頼して、木版機械摺りの技法で量産し、これに各地方の摺師が商店の名入れをして、配りものとなりました。
錦絵の技法を引き継ぐ木版多色摺りの引札では、原画に関西地方の多数の浮世絵師や日本画家が携わっています。しかし大正期以降は写真を製版分解するオフセット印刷が普及するほか、現金の即時払いで商品を売買する近代の商習慣が広まり、引札の贈答は廃れていきました。
なお、大奉書紙(縦約39センチメートル、横約53.5センチメートル)を縦に二つ切りした大判(縦約39センチメートル、横約26.5センチメートル強)が浮世絵の一枚ものの用紙の標準サイズですが、これは引札にも共通しています。
<展示品>
二代目長谷川貞信 引札「内外砂糖卸売商 岡山市橋本町 小野定吉」明治26年(1893年)
縦26.2センチメートル×横38.0センチメートル
二代目長谷川貞信 引札「和洋金巾染糸并二諸毛糸卸商 岡山市大字新西大寺町 浜重太郎」
制作年代不明 縦25.8センチメートル×横37.7センチメートル<(いずれも)添付画像>
当館所蔵の引札(約80点)に二代目長谷川貞信が原画を描いたものが2点含まれていました。商店の名入れ用のスペースを主題の絵画で包むような構図をとることと、筆遣いが繊細で随所に柔らかい表現をみせる特徴があり、その上に開化の風俗を巧みに織り込んでいます。
そのひとつ(内外砂糖卸売商 小野定吉)は画面右端の刊記から明治26年の制作と判明します。
もうひとつには刊記がありませんが、紙質の類似や、名入れスペースの青みがかった地模様、主題部分の赤と緑が中心の色使いなど共通の特徴が多く、2点は近い時期のものかと推定されます。
作者不詳 引札「荒物履物卸商 岡山市中橋西詰 和気平次郎」 縦37.2センチメートル×横51.1センチメートル
落款も刊記もなく作者と制作年代を限定できませんが、壇ノ浦の合戦における源義経の八艘跳びを描いたこの引札には、波しぶきや、遠景の平家の船のたなびく赤旗など、歌川国芳や月岡芳年の武者絵や役者絵の系譜を感じさせる躍動感ある錦絵の伝統が色濃く見られます。
川瀬巴水(本名:文治郎、明治16年(1883年)~昭和32年(1957年))は、大正・昭和期の浮世絵師です。日本画家の鏑木清方に学んだのち、衰退しつつあった浮世絵版画に取り組んで、江戸時代の歌川広重や明治時代の小林清親の風景版画を研究し、全国を旅しながら木版の特徴を生かした抒情的な風景版画を制作しました。
<展示品>
川瀬巴水 「岡山のかねつき堂」 昭和22年(1947年)縦38.4cm×横26.0センチメートル
この作品は、昭和20年6月29日の岡山空襲で焼失した岡山市栄町(現在の北区表町二丁目)の鐘撞堂を思い起こして描いたものです。路面が濡れてそぼ降る雨の中、時報の響きを想像するとき、しっとりした情感がよみがえります。
川瀬巴水「岡山のかねつき堂」昭和22年(1947年)縦38.4cm×横26.0センチメートル
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