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「岡山市立図書館設立100周年記念 岡山市立図書館の百年」

[2016年10月26日]

ID:9582

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  • 会期
    平成28年9月21日(水曜日)~10月30日(日曜日)
  • 場所
    2階視聴覚ホール前展示コーナー

岡山市立図書館が今年で設立100周年を迎えることから、100年の歩みの中で節目となる下記の3つのできごとを取り上げ、図書館に保存されてきた関連資料を展示します。
(1)市立図書館の設立 ~山本唯三郎の寄付~
(2)普及活動 ~巡回文庫と派出文庫~
(3)戦災復興のあゆみ

内容と、おもな展示品

(1)市立図書館の設立 ~山本唯三郎の寄附~

大正5年の市立図書館の設立は、実業家の山本唯三郎(1873~1927年)が建設費の寄付を申し出たことで実現しました。
ここでは岡山市内で貧しい家庭に育ち、同志社や札幌農学校で苦学した後、松昌洋行という商社の経営者となり、中国大陸での貿易で巨万の富を築いた山本の人物像と、岡山市立図書館へ寄せた思いを紹介します。

展示品

山本唯三郎著、大隈重信・阪谷芳郎・徳富蘇峰序『支那の将来』実業之日本社、1912(大正元)年
山本唯三郎著『支那漫遊五十日』神田文吉(発行)、1917(大正6)年
吉浦龍太郎編『征虎記』吉浦龍太郎(発行)、1918(大正7)年
吉岡三平著「山本唯三郎」(産経新聞連載記事「おかやま県人太平記」から)1962(昭和37)~1963(昭和38)年(連載)
市立岡山図書館編『市立岡山図書館館報第32号 開館10周年記念』1928(昭和3)年
「活躍せる松昌洋行」(『中国民報』1916(大正5)年9月24日の記事)

複製資料

市立図書館の設立認可記事(『山陽新報』および『中国民報』の1916(大正5)年10月7日付け紙面より)
市立図書館の開館記事(『山陽新報』1920(大正7)年12月8日付け紙面より)

写真画像

戦前の市立図書館の建物の外観と、山本唯三郎の肖像
市立図書館開館式へ、元首相、大隈重信が寄せた祝電の画像(図書館館報第32号に収載の画像から)

山本唯三郎の肖像の画像

山本唯三郎の肖像(図書館要覧の図版から)

岡山市立図書館は、山本唯三郎による建設資金の寄付申し出を機に設立への動きが始まり、大正5年10月に岡山県から認可を受け、大正7年12月に開館式を挙行しました。したがって本年(平成28年)は、大正5年の設立認可から100周年に当たります。
戦前の市立図書館(当時の名称は岡山市立岡山図書館)は岡山市小橋町(現在の中区小橋町一丁目)にあり、当時はまだ珍しかった鉄筋コンクリート建て(閲覧室2階、書庫3階)の堂々たる建物でした。

山本唯三郎は、鶴田藩(幕末に長州藩との戦争で敗れた浜田藩の遺臣が、慶応3年に飛び地の岡山県久米郡に立藩を許されたもの)の士族の家庭に生まれ、幼くして家族とともに岡山の町へ出て、小橋付近で商売に携わり、環翠尋常小学校へ通いました。
貧しい家庭環境の中でも彼は勉学への熱意を絶やすことがなく、苦学しながら同志社や札幌農学校(のちの北海道大学農学部)で学び、新渡戸稲造の知遇を得て北海道の開拓にいそしみます。そしてその縁から中国の天津に本拠を置く貿易会社、松昌洋行に勤めるようになり、やがてその経営者となりました。
産業革命に差し掛かっていた日本で、製鉄に不可欠であった良質な石炭の輸入によって松昌洋行の事業は発展し、第一次世界大戦による好景気が訪れた際は海運にも広く手を伸ばして、山本唯三郎は巨万の富を得るまでに事業で成功を収めました。
彼は実業家の域を超えて、中国大陸の経済に深く通じていました。首相を務めた大隈重信や、財政・金融の専門家で大蔵大臣や東京市長を務めた阪谷芳郎、そしてジャーナリストであり、歴史家でもあった徳富蘇峰が、山本唯三郎の主著『支那の将来』へ、温かい心のこもった序文を寄せています。
こうした中国大陸への思いから、山本は大正5年の衆議院議員補欠選挙に立候補しました。残念ながら彼は落選するものの、列強による中国の領土分割に反対し、日本が対等の関係において中国の経済や金融や教育の発展に尽くすことが、両国民の利益になることを強く訴えています。
山本は、自身の財産を惜しむことなく多くの社会事業に寄付しました。岡山市立図書館のほかにも、同志社の図書館、山陽英和女学校(のちの山陽学園)の校舎、そして故郷の鶴田村には山本農学校の建設のための資金を提供したほか、後藤新平の勧めもあって鎌倉時代の絵巻物の傑作「佐竹本三十六歌仙絵巻」を一時買い支えるなどしています。
大正7年12月8日に挙行された岡山市立図書館の開館式に来賓として出席した山本が、式辞で述べた言葉のあらましが、山陽新報(現在の山陽新聞の前身の新聞)の記者によって、次のように報告されています。
「・・・「四十年の昔時私は小橋町中納言に父母と共に侘しい月日を送つてゐた。そしてやつと六歳になつた時始めて此図書館の敷地にあつた環翠小学校に上つたのであつた。其後私は都合上附属小学校に転じたが一家の生計は依然苦しかつたので、遂には六高裏の山屋敷にあつた藪から竹を採つて来ては蘺を造り、之を京橋際のさる籠屋に鬻いで幾分生計を援け苦学を続けた。」斯う語り来つた時にはさすが虎大尽も今昔の感に堪えぬものの如くであつた。「碌々正式の学も修めず私は二十歳の年に開墾の為め北海道に伴はれ、次では支那に押渡り貿易商を営むに至つたが幼時の辛酸は今も尚忘れることは能きぬ」と更に感慨無量の情を表現し、「貧しくして学校に学ばれぬ者は世間に鈔なくあるまい。けれど教育は独り学校のみに俟つべきものではないと私は信じてゐる。微力ながら此図書館を寄附した所以も実に此点にある訳だ」と結んで降壇した時場内は水を打つたやうに静粛であつた。」

岡山市中区小橋町にあった戦前の市立図書館の画像

岡山市中区小橋町にあった戦前の市立図書館

岡山市立図書館の設立認可を報ずる中国民報記事の画像

岡山市立図書館の設立認可を報ずる中国民報記事

(2)普及活動 ~巡回文庫と派出文庫~

山本唯三郎の寄付の動機が、あらゆる人が書物を通して学ぶ機会を得られる図書館への期待であったことから、戦前の市立図書館はその希望を汲み、一般教養書や実用書の収集(「御成婚記念文庫」)や、家庭配本、派出文庫等の読書機会の普及活動に力を入れ、さまざまな事業を行ってきました。
ここでは戦前から戦後にかけての普及活動の歩みを振り返ります。

展示品

市立岡山図書館編『御成婚記念文庫図書目録』1926(大正15)年
郵便文庫の木箱(戦前、2点)
巡回文庫の木箱(戦後、4点)

写真画像

巡回文庫の箱が積まれている情景
戦後のリヤカー文庫の情景
小型三輪自動車が導入された頃の巡回文庫
移動図書館の情景

郵便文庫の箱の画像

郵便文庫の箱

小型三輪自動車が導入された頃の巡回文庫の写真画像

小型三輪自動車が導入された頃の巡回文庫

(3)戦災復興のあゆみ

しかし、昭和20年6月29日の岡山空襲で戦前の市立図書館は全焼し、蔵書もわずか数百冊を除き、ほとんどが失われました。市街地が焦土と化した岡山市にあって、図書館の復興は、焼け残った建物を転々とする中で徐々に遂げられたことを紹介します。

展示品

昭和20年12月(内山下国民学校内に図書館開設の頃)からの図書登録台帳
石山(北区内山下、昭和24~36年)と幸町(昭和39~58年)の頃の図書館利用案内
北区幸町の下石井公園に建設された岡山市立図書館(昭和39~58年)の建物の計画図面

写真画像

円常寺客殿(中区御成町)へ仮事務所開設(昭和20年7月1日~31日)
旭東幼稚園(現:国重文「八角園舎」)へ仮事務所移転(昭和20年8月1日~8日)
弘西国民学校2階へ移転(昭和20年8月9日~11月26日)
内山下国民学校の講堂控室へ移転(昭和20年11月27日~21年8月11日)
岡山市公会堂(北区内山下)内へ移転(昭和21年8月12日~24年1月17日)
深柢小学校内の旧水道局倉庫(北区中山下)へ移転(昭和24年1月18日~6月24日)
産業文化博覧会教育館(北区丸の内)へ移転(昭和24年6月25日~36年4月27日)
烏城公園内(北区丸の内)の科学博物館へ移転(昭和36年4月28日~39年10月30日)
北区幸町の下石井公園内に新築、移転(昭和39年10月31日~58年3月31日)
北区二日市町に岡山市立中央図書館を新築、移転(昭和58年4月~現在)

一時期、市立図書館仮事務所となった中区御成町の円常寺の写真画像

一時期、市立図書館仮事務所となった中区御成町の円常寺

北区丸の内の石山にあった頃の市立図書館(昭和20年代後半)の写真画像

北区丸の内の石山にあった頃の市立図書館(昭和20年代後半)

北区幸町へ新築された市立図書館(昭和39年)の写真画像

北区幸町へ新築された市立図書館(昭和39年)

お問い合わせ

教育委員会事務局生涯学習部中央図書館

所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]

電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093

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