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(1月~2月)「坪田譲治文学賞記念 坪田譲治展 明治150年 ~坪田譲治と明治22/23年生まれの同時代人たち~」

[2019年1月5日]

ID:10134

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岡山出身の児童文学者、坪田譲治は、明治23年(1890年)3月3日に現在の岡山市北区島田本町(当時は御野郡石井村)に生まれました。ちなみに、その前年は市町村制がしかれ、岡山市も発足した年です。そこでこのたびは坪田譲治と同じ年(学年)に生まれた6人の文学者、技師、画家を取り上げ、当館所蔵品により同時代の空気を呼吸しながら活躍したそれぞれの生涯を比較し、坪田譲治が生きた時代を紹介します。

  • 会期
    平成31年1月5日(土曜日)~2月17日(日曜日)
  • 場所
    岡山市立中央図書館2階 視聴覚ホール前展示コーナー

(1)坪田譲治とその時代

明治150年を記念して、本年度は「明治」という時代と現在との関わりに焦点をあてて企画展示を行っていますが、坪田譲治文学賞を記念して毎年冬季に行う坪田譲治展でも、本年度は坪田譲治が生まれた学年である明治22年/23年に着目し、同じ時代を生きた人々に登場してもらいました。

坪田譲治が生まれた頃の岡山

坪田譲治は、明治23年(1890年)3月3日に現在の岡山市北区島田本町に生まれ、昭和57年(1982年)7月7日に歿しましたが、彼が生まれた前年の明治22年には全国に市町村制がしかれ、したがって岡山市もこの年に発足したのでした。
岡山市の郊外で育った坪田譲治は、石井小学校を卒業すると、岡山市内の岡山尋常高等小学校を経て養忠学校(在学中に移転し金川中学となる)に学び、そののち早稲田大学へ進学しました。
坪田譲治は明治の文豪では薄田泣菫や国木田独歩などを愛読しましたが、文学者としての彼を育てたのは、むしろ明治の末から文筆活動を開始し、大正時代になってから本格的に活躍する鈴木三重吉や小川未明のような人々でした。

展示品

「岡山区市街図」(明治20年)
坪田譲治の生年(明治23年)に近い頃の岡山市街がわかる地図を、所蔵品の中から選んで展示しました。岡山の彫り師、丸山三蔵が作成した色刷りの木版画です。
明治22年に市制が施行される少し前の頃なので、岡山区となっています。図の上が東です。市内を小区に分け、それぞれの戸長役場で行政事務が行われていました。坪田譲治が生まれ育ったのは、まだ岡山市へ編入される前の石井村で、当時の市街の西南郊外(この地図では右下のほう)です。
この地図の周囲には、当時の主要な建物などが絵で示されています。

「岡山区市街図」(明治20年)の画像

「岡山区市街図」(明治20年)

この地図の周囲に描かれている図から、東中山下にあった区役所(市制がしかれた明治22年6月1日以降は市役所)と、西の丸にあった岡山県医学校(現在の岡山大学医学部の前身)を紹介します。
区役所は安藤平衛門の武家屋敷を譲り受けて使用し、医学校は岡山城西の丸の御殿の建物をそのまま使っています(下図の向かって右手の、土地が盛り上がっているところが、現在は岡山市民会館などが建っているところとみられます)。

「岡山区市街図」(明治20年)から「区役所」の画像

「岡山区市街図」(明治20年)から「区役所」

「岡山区市街図」(明治20年)から「医学校」の画像

「岡山区市街図」(明治20年)から「医学校」

(2)坪田譲治と早稲田大学の同級生たち

坪田譲治は明治41年(1908年)に郷里の岡山を離れて上京し、早稲田大学予科に入学しました。彼は学生時代から多くの師友に恵まれますが、文学者として名をなすまでには長い歳月がかかりました。

青野季吉

坪田譲治は明治41年(1908年)に早稲田大学予科に入学し、翌々年に早稲田大学英文科に進学しましたが、そこで多くの知友に恵まれました。とりわけ親しかったのは青野季吉、細田民樹、保高徳蔵らでしたが、昭和11年に新宿の秋田屋で撮影されたという写真には、笑顔で並ぶ彼らの姿が写っています。
なお、展示品で「坪田文庫」と記載のあるものは、坪田譲治の遺族(長男の坪田正男氏、三男の坪田理基男氏)からの寄贈品です。それ以外のものもすべて本展示では当館所蔵品を出品しています。

展示品

(写真パネル)昭和11年、新宿・秋田屋にて(坪田文庫)

昭和11年、新宿・秋田屋の早大同窓生たち(向かって左から青野季吉、坪田譲治、細田民樹、保高徳蔵。写真パネル、坪田文庫)の画像

昭和11年、新宿・秋田屋の早大同窓生たち(向かって左から青野季吉、坪田譲治、細田民樹、保高徳蔵。写真パネル、坪田文庫)

このうち、少し年下の細田民樹を除いた2人を紹介します。
青野季吉は、明治23年(1890年)3月24日に生まれ、昭和36年(1961年)6月23日歿、新潟県・佐渡出身の文芸評論家です。
佐渡中学に在学中から幸徳秋水らの社会主義思想に親しみ、新潟県立高田師範学校を経て明治43年10月に早稲田大学文科予科に入学しました。大正4年に早大英文科を卒業すると読売新聞や国際通信社の記者となり、やがて評論雑誌「無産階級」の創刊に参加。大正13年には文芸戦線社の同人となり、昭和13年にはファシズムに抵抗して検挙されるなど、一貫してプロレタリア文学運動の中心的存在でした。

展示品

青野季吉 原稿「人間冒瀆について」(手稿7枚)(坪田文庫)
ラジオからふと聞こえてきた笑いとジョークに人間への尊敬の念を欠いた冒瀆を感じ、真のヒューマニズムとモラルのあり方を論じています。この原稿は早大在学中から息長く交友を続けてきた坪田譲治のもとで保管されていたものです。

青野季吉 『マルクス主義文学闘争』昭和4年、神谷書店(坪田文庫)
青野季吉 『文藝と社会』昭和11年、中央公論社(坪田文庫)
青野季吉 『文学と精神』昭和15年、河出書房(坪田文庫)
青野季吉 『私の文学手記』昭和22年、日東出版社(坪田文庫)
いずれも坪田譲治の旧蔵書です。それぞれの本にはプロレタリア文学の立場から展開された多数の文芸批評や作家論が収録されています。このうち『文学と精神』には著者自身による坪田譲治への献辞が記されています。

青野季吉の作品(坪田文庫)の画像

青野季吉の作品(坪田文庫)

青野季吉『文学と精神』の箱と著者から坪田譲治への献辞(坪田文庫)の画像

青野季吉『文学と精神』の箱と著者から坪田譲治への献辞(坪田文庫)

保高徳蔵

保高徳蔵は、明治22年(1889年)12月7日に生まれ、昭和46年(1971年)6月28日歿。大阪市出身の小説家で、中学卒業後に父とともに当時は日本の植民地下にあった朝鮮へ渡り、朝鮮人の苦悩を知ります。明治44年に早稲田大学英文学科へ入学し、卒業後は読売新聞記者や博文館編集者を経て、大正8年から専業の小説家となります。昭和3年に自伝小説『泥濘』を発表。昭和8年から20年まで季刊『文芸首都』を発行して北杜夫など多数の優れた後進作家を見出し、育てました。

展示品

保高徳蔵 原稿「坪田君の人柄」(手稿5枚)(坪田文庫)
坪田譲治の芸術院賞受賞を祝って執筆した原稿です。文芸誌の編集を通じて多数の優れた新人作家を発掘してきた保高徳蔵が、長年の友人である坪田譲治を「謙虚で、つつましいが、見るべきものはちゃんと見てゐる」と、的確な言葉で評しています。

保高徳蔵 『作家と文壇』昭和37年、講談社
この本は坪田譲治が所蔵していたもので、青野季吉、宇野浩二、広津和郎らに関する評伝や、多数の優れた新人を発掘した文芸誌『文芸首都』の刊行のいきさつを記した随筆などが収録されています。

保高徳蔵『作家と文壇』(坪田文庫)の画像

保高徳蔵『作家と文壇』(坪田文庫)

大正時代から昭和前期にかけて活躍した2人は、それぞれプロレタリア文学と自伝小説の分野を深く掘り下げており、その生涯に時代の影響が色濃く映し出されています。坪田譲治は終生にわたり大学の同窓生であった彼らと親交を結んでいたようで、そのため、坪田譲治のもとへ寄せられた彼らの手稿や著書が大切に保管されてきました。
戦前の坪田譲治の代表作には、父親の会社の経営が困難に直面したため、そのことから幼い兄弟、善太と三平が大人の社会から影響を受けて翻弄され、そこに深い心理の綾が織りなされて行く構成をとるものが多くあります。それには青野や保高らが活躍したのと同じ昭和戦前期という時代の、社会的背景を知ることが理解への鍵となるかも知れません。

(3)坪田譲治と内田百閒

坪田譲治とその作品

ほかの同時代の人々と比べると坪田譲治は下積みの時代が長く、40歳代半ばを過ぎる頃までは経済的な困苦もひどく、苦労を重ねてきました。しかし昭和10年代に入ると、天真爛漫な子どもたちの視点から社会の矛盾や不安を鋭く描いた作品が世に認められ、彼の名前は広く知られるようになりました。
このたびは昭和戦前期における彼の代表的な3作(『お化けの世界』昭和10年、『風の中の子供』昭和11年、『子供の四季』昭和13年)から、坪田譲治のもとで保管されてきた『お化けの世界』と『子供の四季』の初版本を展示しています。

展示品

坪田譲治 『お化けの世界』昭和10年、竹村書房(坪田文庫)

坪田譲治の最初のヒット作となった『お化けの世界』の初版本(坪田文庫)の画像

坪田譲治の最初のヒット作となった『お化けの世界』の初版本(坪田文庫)

坪田譲治 『子供の四季』昭和13年、新潮社(坪田文庫)
箱と本体とで赤と緑の対比が鮮やかな装幀は、芥川龍之介の親友で彼の本のデザインを一手に担当したことで知られる、洋画家の小穴隆一によって行われています。

坪田譲治『子供の四季』の初版本(坪田文庫)の画像

坪田譲治『子供の四季』の初版本(坪田文庫)

(写真パネル)執筆中の坪田譲治(坪田文庫)
昭和38年頃の写真で、児童文学の研究書を収集するために西池袋にあった自宅の一角に設けた「びわのみ文庫」の、2階の書斎で執筆する坪田譲治の姿です。

昭和38年、「びわのみ文庫」の書斎で執筆中の坪田譲治(写真パネル、坪田文庫)の画像

昭和38年、「びわのみ文庫」の書斎で執筆中の坪田譲治(写真パネル、坪田文庫)

坪田譲治 『坪田譲治全集』全8巻、昭和29年、新潮社(坪田文庫)
坪田譲治 『坪田譲治童話全集』全13巻、昭和46年、岩崎書店(坪田文庫)
坪田譲治 『坪田譲治全集』全12巻、昭和52~54年、新潮社(坪田文庫)
戦前戦後で価値観が変わり、思想界は混乱しましたが、堅実な坪田譲治はおもに児童文学の分野でたゆまず執筆を続けました。そうして昭和29年に新潮社から刊行された最初の全集は、高い評価を得て日本芸術院賞を受賞するきっかけとなりましたが、晩年にかけても岩崎書店から童話全集が出され、新潮社からは2度目の全集が刊行されました。

昭和29年に刊行された坪田譲治の最初の全集(坪田文庫、第1巻のみ箱欠)の画像

昭和29年に刊行された坪田譲治の最初の全集(坪田文庫、第1巻のみ箱欠)

坪田譲治の日本芸術院賞受賞牌(坪田文庫)
昭和29年に新潮社から刊行された全集は、坪田譲治のそれまでの業績をまとめ、広く周知させたもので、彼の文壇における評価を決定的にしました。この全集が認められて、昭和30年3月には昭和29年度の日本芸術院賞を授与されました。
なお、この受賞牌は古代鏡を復刻した形状のもので、古代の鏡をよく研究し、皇居二重橋の装飾を担当した内藤春治(明治28年生~昭和54年没、岩手県出身の鋳金家で、東京芸術大学教授)によってデザインされており、鏡面には豊道慶中(明治11年生~昭和45年没、栃木県出身、天台宗大僧正、文化功労者)による文字が刻まれています。

坪田譲治の日本芸術院賞受賞牌(鏡面の画像。坪田文庫)の画像

坪田譲治の日本芸術院賞受賞牌(鏡面の画像。坪田文庫)

坪田譲治 原稿「童話と人生」(手稿11枚)(坪田文庫)
晩年の坪田譲治が自分の人生を振り返って執筆した随筆の原稿です。明治・大正・昭和と生き抜いてきた彼が、時代とともに人々の心がどのように変わったかを論じています。

なお、旧制中学時代の坪田譲治については平成28年度に、名作『子供の四季』と画家小穴隆一の関係については平成29年度に、それぞれ展示を行っています(下記のリンク先をご覧ください)。

内田百閒

内田百閒は、明治22年(1889年)5月29日に生まれ、昭和46年(1971年)4月20日に歿しました。岡山市古京町の出身で、岡山中学を卒業後、第六高等学校から東京帝国大学独文科へ進みます。中学時代から夏目漱石を慕い、東大へ入学した翌年の明治44年に本人との面会がかなって門下となり、以後、漱石全集の編纂に携わりました。大学卒業後は各地の大学で教壇に立ちながら文筆にいそしみ、大正10年に短編小説『冥土』で文壇に名を知られます。初期はドイツ幻想文学の影響を受けた夢幻的な作風でしたが、次第に随筆家として才能を現し、昭和8年の『百鬼園随筆』や昭和27年の『阿房列車』で評価を得ました。昭和42年に芸術院会員に推されますが、「いやだからいやだ」という理由で辞退したのは有名です。
文学上の傾向が異なる坪田譲治とのつながりは、ともするとあまり深くないようにも思えそうですが、坪田のもとで保管されてきた百閒の原稿や書は、同郷の作家どうしで交流があったことを物語っています。

展示品

内田百閒 原稿「流れ矢」(手稿3枚)(坪田文庫)
坪田譲治は児童文学雑誌「びわの実学校」を編集・発刊してきたこともあり、多数の作家の原稿が寄せられていますが、内田百閒のこの原稿も坪田譲治のもとに保管されてきたものです。
内容は、居宅にいる自分を訪ねてくる人は、めいめいその人の好き勝手な時間にやってくるが、自分のほうはいつも出迎える準備ができているとは限らないから、突然の来訪者に困ることが多い。そこで家の前に訪問客を断る旨を記した貼紙をしたら、迷惑な客には効果てきめんだが、集金などで必要あって訪ねてきた人が貼紙を見て困惑するなど、滑稽なことが次々おこった、というものです。
これは、関連の有無はわかりませんが、有本芳水が『笛鳴りやまず』(昭和46年、日本文教出版社)の中で紹介している、夏目漱石が語った言葉(「・・・電話は、御免とも今日はともいわず、門をのりこえ、塀を無視して入り込んでくる。食事中であろうが、便所へ入っているときであろうが、飛んで行って応対しなければならない。電話はうるさいから受話器をはずしているんだ。しかし鮨が食いたくなると鮨屋へ、蕎麦がほしいときには蕎麦屋へ電話をかけるとすぐ持ってきてくれる、このときには電話は便利だよ、アハハハ」同書13ページ)を思わせるところがあります。

内田百閒 書「忘却来時道」(軸装)(坪田文庫)
内田百閒 書「この丘に宵々のはやて春を待つ」(軸装)(坪田文庫)
漢詩と俳句の書で、いずれも坪田譲治が所蔵していたものです。
“来たときの道を忘却する”と、百閒らしい機智とユーモアがうかがえそうです。

(4)さまざまな分野で活躍した同時代人たち

以下に紹介する人々は、坪田譲治とは直接の面識がなかった可能性が高いですが、同じ年(学年)に生まれた岡山の同郷人として比較のために取り上げます。

小西 隆

小西隆は、明治22年(1889年)8月14日に、当時は岡山市の郊外であった上道郡三蟠村大字江崎に生まれました。岡山中学を卒業ののち名古屋高等工業学校で土木学を学び、明治45年4月に岡山県工手に採用され、小田川改修の調査などを行います。大正4年から6年にかけて岡山市内の旭川にかかる京橋の架け替え工事に携わり、現在も使用されている鉄筋コンクリート製の橋の実施設計を行いました。そののち高等官に任ぜられ、岡山県技師、千葉県技師を経て関東大震災に接し、震災復興局の技師に抜擢されて東京市本所区および深川区の多数の橋梁の改築や新築にあたって設計を行いました。復興局技師を免官ののちは昭和5年から熊本市土木課長、そして昭和10年から岡山市土木課長兼都市計画課長に就任し、道路建設や博覧会開催、都市計画等に携わりました。昭和12年から翌年までは岡山市の助役を勤めました。

展示品

岡山中学の第一寄宿舎の学生と舎監の集合写真(小西家寄贈品)
小西隆の在学中の写真(明治37年)で、同じ学年の全ての学生を写したものではありませんが、これを複製して引伸ばした画像を展示しています。
小西隆と内田百閒と次に取り上げる坂田一男は岡山中学(旧制)で学んでいますが、坂田は高等科を卒業してから入学しているなど、生まれた年度は同じでも、3人は必ずしも学年が同じではありません。しかし在学期間に重なるところがあれば、校内で顔を合わせた可能性はあります。
また、坪田譲治、内田百閒、坂田一男は岡山尋常高等小学校で学んでいますので、そこでも一緒になった可能性があります。
岡山中学へ進学できなかった坪田譲治は、その代わりに岡山市丸の内にあった養忠学校へ入学し、在学中にこの学校が御津町の金川へ移転して金川中学(旧制)になると、中国鉄道(現在のJR津山線)を利用して通学しました。

岡山中学の第一寄宿舎の学生と舎監(明治37年、小西家資料)の画像

岡山中学の第一寄宿舎の学生と舎監(明治37年、小西家資料)

京橋架け替え工事の写真帖から(原品は小西家寄贈品)
大正4年から6年にかけて行われた岡山市内の旭川にかかる京橋の架け替え工事で、20歳代の半ばで実施設計にあたった土木技師、小西隆の写真アルバムから、いくつかの写真を複製し、引伸ばして紹介しています。
このときに木造から鉄筋コンクリート造に改められた京橋は、路面電車を通すために大正11年に同じ設計者によって拡幅され、現在もなお現役で都市の交通を支えています。本展示で紹介している多くの人たちも、岡山へ帰ったり立寄ったりしたときにはしばしばここを通ったはずです。

京橋掛替アルバムから、山本技手と小西技手(原品には「大正四年六月十日 施工ノ初メ 直営主任 技手 山本岩雄 設計者 技手 小西隆」と書入れあり)の画像

京橋掛替アルバムから、山本技手と小西技手(原品には「大正四年六月十日 施工ノ初メ 直営主任 技手 山本岩雄 設計者 技手 小西隆」と書入れあり)

京橋掛替アルバムから、基礎の杭打ち(原品には「橋脚基礎杭打ノ実況 大正四年九月廿四日撮影」と書入れあり)の画像

京橋掛替アルバムから、基礎の杭打ち(原品には「橋脚基礎杭打ノ実況 大正四年九月廿四日撮影」と書入れあり)

京橋掛替アルバムから、橋脚組立ての足場と監督者たち(原品には「橋脚組立足場及監督者 大正五年五月廿日撮影」などと書入れあり。前列左から2人めが小西技手)の画像

京橋掛替アルバムから、橋脚組立ての足場と監督者たち(原品には「橋脚組立足場及監督者 大正五年五月廿日撮影」などと書入れあり。前列左から2人めが小西技手)

京橋掛替アルバムから、京橋の竣工(原品には「竣工セル京橋 大正六年三月廿日撮影」と書入れあり)の画像

京橋掛替アルバムから、京橋の竣工(原品には「竣工セル京橋 大正六年三月廿日撮影」と書入れあり)

なお、大正期の京橋架け替え工事については前回の展示(下記のリンク先)をご覧ください。

坂田一男

坂田一男は、明治22年(1889年)8月22日に岡山市船着町に生まれ、昭和31年(1956年)5月28日に玉島で歿しました。岡山中学を卒業後、大正3年に上京して本郷絵画研究所と川端画学校で絵画を学びます。大正10年に渡仏しオトン・フリエスに師事。やがてキュビズムの巨匠、フェルナン・レジェに学び、パリの画壇で頭角を現しました。昭和8年に帰国しますが、郷里の玉島にアトリエを設け、終戦後の昭和24年にはアバンギャルド・オカヤマ(A・G・O)を結成して後進の育成に努めました。キュビズムを体得し、それに基づいて抽象表現を貫いた稀有の画家として、名声が高まっています。

展示品

雑誌『新燈』に掲載された坂田一男の随筆
昭和22年11月から翌年にかけて岡山県青年文化協会が刊行した雑誌『新燈』に、坂田一男が随筆を寄稿しています。当館に所蔵がある下記の冊子を展示しています。
「招宴」創刊号、昭和22年11月
「解雇」第2号、昭和22年12月
「フランスの迷信」第4号、昭和23年3月
「父のベルリン通信」第6号、昭和23年6月
「随筆・雑文集」第2巻第5号、昭和23年7月
このうちの「招宴」、「フランスの迷信」、「父のベルリン通信」と「随筆・雑文集」の一部は、坂田一男研究会発
『SAKATA』のそれぞれ第1号、2号、3号、2号にも再録されています。なお、雑誌『新燈』には江田三郎(政治家)、近藤鶴代(政治家)、岡長平(歴史家)、永瀬清子(詩人)、佐藤重夫(建築家)らが寄稿しており、当時の岡山の文化界における坂田一男の位置がうかがわれます。

坂田一男の随筆が掲載された雑誌『新燈』(当館所蔵分のみ)の画像

坂田一男の随筆が掲載された雑誌『新燈』(当館所蔵分のみ)

坂田一男「招宴 一九二九年、秋、ローランバンに居りし頃の思出を辿りて」(『新燈』創刊号)の冒頭の画像

坂田一男「招宴 一九二九年、秋、ローランバンに居りし頃の思出を辿りて」(『新燈』創刊号)の冒頭

国吉康雄

国吉康雄は、明治22年(1889年)9月1日に岡山市中出石町に生まれ、昭和28年(1953年)5月14日にアメリカ合衆国で歿しました。弘西尋常小学校から岡山尋常高等小学校を経て明治37年に岡山県工業学校染織科へ入学するも、17歳になる明治39年には中退して渡米し、各地を転々としたのちアート・スチューデント・リーグで絵画を学びました。
大正11年にニューヨークで初個展を開催し、大正14年と昭和3年には渡欧旅行してエコール・ド・パリの旗手のひとり、パスキンと友情を結びます。昭和4年にはニューヨーク近代美術館で開催された「19人のアメリカ人画家展」の出品作家のひとりに選ばれ、昭和8年には母校アート・スチューデント・リーグの教授に就任しました。そして昭和18年にはカーネギー国際展で一等賞を受賞、昭和19年には「合衆国の絵画1944展」の出品作家に選ばれ、大戦後の昭和27年にはベネチア・ビエンナーレのアメリカ代表のひとりに選ばれています。このように、アメリカ画壇では揺るぎない名声を確立しましたが、第二次大戦中は日系移民であることから、さまざまな苦難も味わいました。
戦後はアメリカ市民権の取得と故国での個展の開催に希望を燃やしましたが、いずれも実現を前にして病のために亡くなりました。

展示品

国吉康雄の一時帰国を伝える新聞紙面(複製を展示)
「「米画壇の明星」岡山に帰る」(「山陽新報」昭和6年10月17日)
「故郷に錦の国吉画伯 廿六年振に帰岡」(「中国民報」昭和6年10月17日)
渡米後の国吉康雄は父親の病気見舞いなどのために生涯でただ一度だけ、昭和6年10月に26年ぶりの帰郷を果たしていますが、これはそのときの動静を報じる地元紙の紙面です。
彼は42歳になったこのときまでにはすでにアメリカ画壇で確固たる地歩を築いており(ニューヨーク近代美術館で作品が展示されたことがあり、アート・スチューデント・リーグの教授に招聘されるのはこの2年後)、岡山に着いたときは駅長室で記者の取材に応じるなど、熱狂的な歓迎を受けています。新聞の写真で見る彼の姿には、服装も洗練されており、いかにも芸術家らしい、香気のようなものが感じられます。
彼は帰りの船の中で父の訃報をきき、その後は第二次大戦によって翻弄されたため、故国への訪問はこれが唯一の機会となりました。

国吉康雄の帰郷を伝える記事(「山陽新報」昭和6年10月17日)の画像

国吉康雄の帰郷を伝える記事(「山陽新報」昭和6年10月17日)

国吉康雄の石版画展を報じる新聞紙面(複製を展示)
「輝く世界的画人展 米国画壇の寵児・国吉康雄氏」(「中国民報」昭和7年1月16日)
「国吉画伯 石版画展 今、明日両日」(「中国民報」昭和7年1月16日)
昭和6年の一時帰国中に、東京と大阪で個展が開催されたのに続き、岡山でも急遽、昭和7年1月17日~18日に市内西大寺町の明治製菓で石版画(リトグラフ)の展覧会が開かれました。展覧会を後援した中国民報がそのことを報じている記事です。

国吉康雄の石版画展を報じる記事(「中国民報」昭和7年1月16日)の画像

国吉康雄の石版画展を報じる記事(「中国民報」昭和7年1月16日)

国立近代美術館(編)『国吉康雄遺作展』昭和29年、美術出版社
第二次大戦後に日本で最初に開催された国吉康雄の展覧会の図録です。東京・竹橋に戦後発足した国立近代美術館(現在の東京国立近代美術館)では、アメリカ在住の国吉康雄を訪ねて故国での展覧会開催を提案しましたが、彼はそのことに意欲を燃やし、在米のコレクションから出品する作品の選定にあたりました。しかし彼は展覧会が開催される前年の5月に胃癌で死去したため、故国で戦後最初に開かれた展覧会は遺作展となりました(国立近代美術館、大阪市立美術館、文天堂画廊(名古屋)で開催)。
奇しくもそれは坪田譲治が最初の全集の刊行によって日本芸術院賞を受賞し、文学者としての評価が揺るぎないものとなった年(昭和29年)のことでした。

岡山県総合文化センター(編)『第2回郷土作家展 国吉康雄・坂田一男』昭和46年
岡山県総合文化センター(現在の天神山文化プラザ)で開催された坂田一男との2人展です。坂田一男の展覧会はそれまでにも時々国内で開催されていましたが、国吉康雄の大規模な展覧会は、故郷の岡山ではこれが戦後初の開催です。こちらでは国内のコレクションから作品が選ばれています。

なお、国吉康雄と岡山との関わりについては、平成27年にも展示を行っております(下記のリンク先をご覧ください)。

東京国立近代美術館『国吉康雄遺作展』(昭和29年)の画像

東京国立近代美術館『国吉康雄遺作展』(昭和29年)

このページに関するお問い合わせ先

中央図書館

電話:086-223-3373 ファクス:086-223-0093
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