第3代城主 池田忠継(いけだただつぐ) 西国将軍輝政の子・家康の孫

慶長4年(1599)生〜慶長20年(1615)没
城主期間 慶長8年(1603)〜元和元年(1615)
父・池田輝政 母・富子(徳川家康二女・督姫)
別称 藤松、三郎
叙位叙任 従四位下、左衛門督
法名 龍峯寺殿雲台元祥大居士
墓所  岡山市浦安本町 清泰院
(清泰院は岡山市小橋町から移転)

豊臣政権の有力大名で「西国将軍」と称された池田輝政を父にもち、母は徳川家康の娘・督姫。関ヶ原合戦を経て徳川家康の天下になると、戦功により輝政は播磨国52万石を支配する姫路城主となり、慶長8年(1603)にはわずか5歳の忠継も備前国28万石を賜り岡山城主となる。家康の外孫ゆえの厚遇といえよう。しかし実際には幼少の忠継は姫路城にとどまり、兄・利隆が岡山城に赴いて輝政の指示のもと治世に当たり、実質的な城主となった。
実際に忠継が岡山城に入城したのは輝政没後の慶長19年(1614)のことであった。利隆が輝政の遺領を継いで姫路城主となるが、このとき幕府は播磨国西部の10万石を忠継に与え、その知行は計38万石となった。同年、利隆とともに大坂冬の陣に出陣、和睦後岡山城へ凱旋するが間もなく発病し、慶長20年(1615)2月、17歳の短い生涯を閉じた

家系図リンク


池田忠継 肖像画
池田忠継(清泰院蔵)
写真提供:岡山県立博物館

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