■小早川家へ 木下秀吉(後に羽柴、豊臣)の正室おね(北政所、高台院)の兄・杉原家定(後に木下)の五男に生まれる。おねに愛され、幼少から秀吉の猶子(※注)となるが、文禄元年(1592)に小早川隆景の養子となり、2年後、隆景の隠居に伴い家督を相続、筑前国・肥前国のうち30万7000石を領有し、わずか13歳にして名島城主となる。秀吉の第二次朝鮮出兵(慶長の役)では奮戦するも、総大将でありながら敵陣に自ら乗り込んだ行為を軽率とされ、秀吉の不興を買う。 ■関ヶ原合戦 秀吉死後の慶長5年(1600)、豊臣家家臣団・文治派による打倒・徳川家康の戦では、はじめ宗家である毛利家とともに西軍の主力となり伏見城を攻略するが、9月15日の決戦=関ヶ原の合戦では途中で東軍について西軍を攻撃、東軍大勝の立役者となった。この戦功により、敗軍の将となった宇喜多秀家の旧領のうち備前国・美作国の51万石を与えられた。 ■岡山での治績 岡山城に入城した秀秋は、その大幅な近代化改装に取り組んだ。よく知られているのは、従来の外堀の外側に新たに倍の幅を持つ外堀を築いたことで、これにより城域そのものが約2倍に拡張された。この新しい外堀はわずか20日間で完成したと伝えられ、「二十日堀」と呼ばれる。さらに総検地の実施、寺社領の再整備と古刹の復興、領内の域割りの実施等、数々の治績を残すが、在封2年足らずの慶長7年(1602)、21歳の若さで没する。史書類には岡山在城時の乱行を記したものがあり、その死には諸説あるが、こうした悪評とその業績とは相容れないものである。
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