■淡路から岡山へ 父は「西国将軍」と称された姫路城主・池田輝政、母は第3代城主・池田忠継と同じく徳川家康の娘・督姫。家康の外孫として、慶長15年(1610)、わずか9歳で淡路国6万石を与えられ由良城主となるが、幼少のため姫路城にとどまり、かわって重臣が政務にあたった。5年後の元和元年(1615)、兄・忠継の死により岡山城主となる。このとき、遺領38万石のうち10万石を3人の弟・輝澄、政綱、輝興に分与し、備前国28万石に備中国南部の3万5,200石を加えた31万5,200石を領する。以後、岡山藩の石高は幕末まで変わらなかった。 ■岡山城完成 入封後、忠雄は岡山城の拡張整備に着手。本丸中の段を拡張して政庁や城門、多くの隅櫓(すみやぐら)を築造した。また、二の丸の大手門を枡形構造に改修して近代化改装を図り、岡山城の実質的な完成者となった。現存する月見櫓(重要文化財)はこの城普請によるものである。また、西川の改修、侍屋敷の拡張などの城下町整備を行うとともに、岡山平野南部の新田開発を手がけ、灌漑の便の向上にも尽くしたが、寛永9年(1632)、江戸出府時に31歳で没する。嫡子・光仲は幼少のため池田光政との国替えで鳥取へ転じ、その系統は鳥取藩主として幕末まで続いた。 |
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