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(7月~8月)「深根固柢~市内中心部小学校の戦災復興」

[2017年6月20日]

ID:9691

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  • 会期
    平成29年7月1日(土曜日)~8月20日(日曜日)
    毎週月曜日休館(ただし7月17日(祝日)は開館)
  • 会場
    岡山市立中央図書館 2階視聴覚ホール前展示コーナー(入場無料)

岡山空襲の日(6月29日)にあわせて、市内中心部にあった岡山市立深柢小学校(平成13年3月で廃校になり、段階的に岡山市立岡山中央小学校へ統合)の戦災復興にかかわる資料を展示します(深根固柢は深柢小学校の校名の由来となった言葉です)。
この展示を通じて、戦災が学校活動にも甚大な被害を及ぼしたことと、復興へ向けて払われた学校関係者や学区住民、卒業生の努力を、資料を通して紹介します。

展示内容

昭和20年6月29日の岡山空襲で市内中心部の小学校(当時は国民学校)も甚大な被害を受けました。わけても深柢、南方両校は校舎を全焼し、戦後の復興でも辛酸をなめました。
平成13年に始まった中心部小学校の統合で南方、弘西、内山下、深柢の4校は廃止されましたが、各校で保管されてきた貴重な資料を保存していくため、その一部を平成28年度から市立中央図書館で少しずつ整理しています。今回はその中から深柢小学校の学校文書を中心に構成しました。

(1)深柢小学校の歴史

明治5年設立の第一区・第三区学問所に起源する深柢校は、明治26年に深柢尋常小学校として市内西中山下に開校しました。校名は老子の「深根固柢」(根を深く、柢を固くするのが長久への道、ひいては育英の基)からとられています。
市内中心部にあった深柢校は、赤煉瓦の塀と大正時代に落成した校舎が偉容を誇り、講堂は音楽会や講演会等にもしばしば利用された立派なものでした。卒業生も、田中耕太郎最高裁判所長官や、出羽海秀光日本相撲協会理事長(元横綱常の花)、ハスの研究家として知られた大賀一郎博士など、多くの俊英を輩出しました。
しかし昭和20年6月29日未明の岡山空襲では、奉安殿を残し、校舎のほぼすべてを失いました。翌朝、吉川忠雄校長は警防団員の制止もきかず、1棟1棟焼け落ちて行く校舎へ別れを告げるがごとく、まじろぎもせず校庭に直立していたと伝えられています(『創立八十周年 岡山市立深柢小学校沿革概要』「深柢校の再建」<戦禍>の項より)。

明治5年 市内の栄町に第一区学問所(又新・順従小学校を経て又新小学校となる)、磨屋町に第三区学問所(化成・研智小学校を経て晩翠小学校となる)が設立される
明治23年 市内の小学校5校を西中山下の尋常岡山小学校に統合する
明治26年 各校独立し、西中山下の本校を深柢尋常小学校とする
大正8年 高等部女子部を併置し深柢尋常高等小学校と改称する
大正10年 講堂改築落成
大正11年 校舎改築落成
昭和13年 柳川筋の道路拡張のため校舎の一部を切取り
昭和14年 東隣にあった岡山市役所の出火で臨時事務所となる
昭和16年 深柢国民学校と改称する
昭和20年 岡山空襲で罹災し、奉安殿を残して校舎を全焼する(御真影と一部の学籍簿および学校沿革誌等、ごくわずかの重要書類のみ罹災を免れた)

深柢小防護団(昭和19年、深柢小旧蔵資料から)の画像

深柢小防護団(昭和19年、深柢小旧蔵資料から)

(2)戦災直後の状況

市街中心部の深柢学区は空襲で7戸を残すのみの壊滅状態となり、最も大きな被害を受けました。翌日、学校本部は市役所とともに罹災を免れた弘西国民学校の3階へ移りましたが、空襲による児童の死亡49名、行方不明11名、教職員の罹災も27名にのぼりました。
阿哲郡千屋村への集団疎開が実行される矢先の昭和20年8月15日に終戦を迎えました。昭和20年8月16日から下市内4ヵ所に仮教場を設けて授業を再開したものの、学区の住民は散り散りになっており、戦前に1500名を超えた児童のうち、当初集まったのは53名のみでした。
当時の状況は、吉川校長が昭和28年の深柢小学校創立80周年記念式で、激動期を回想して述べた式辞からうかがわれます。

「・・・昭和二十年六月二十九日戦災に遭い、さすが輪魚の美を誇っていた講堂校舎等は凡て灰燼と化しました。学区内も僅か数戸を残して、焼野原となりましたが、教育のことは一日も忽に出来ないので、八月十六日から市内四所の仮分教場を設けて、授業を始めました。第一分教場は、元男爵土倉一郎氏邸二階六畳間、第二分教場は、巌井木村寿栄子氏邸六畳間、第三分教場は、二番町越海一男氏邸二階六畳間、第四分教場は、東山公園でありました。殊に第四分教場の東山公園は、八月半ば夏の暑い太陽の直射する芝生でした。暑い日を浴び汗を流しながら算数の勉強中に、毛虫が落ちてきて女児を驚かせ、又坐っている足に蟻が這い上がって来るという文字通り、青天教場でした。私共は、このいじらしい子供の姿に幾度か泣かされ、又激励されて頑張りました。永い本校沿革の過去に於ても、恐らく将来に於ても、このような教場はなかろうと存じます。・・・」(『深柢 創立八十年記念号』6頁より)

「深柢校の東隣の街区にあった市役所と水道局の戦災後の惨状(撮影者不明・岡山市立中央図書館所蔵の画像から)。戦後の深柢校は復興都市計画によりこの敷地へ移転することになりましたが、さらに幾星霜を経て、現在ここは深柢小学校の廃校により川崎医科大学総合医療センターに生まれ変わっています」の画像

深柢校の東隣の街区にあった市役所と水道局の戦災後の惨状(撮影者不明・岡山市立中央図書館所蔵の画像から)。
戦後の深柢校は復興都市計画によりこの敷地へ移転することになりましたが、さらに幾星霜を経て、現在ここは深柢小学校の廃校により川崎医科大学総合医療センターに生まれ変わっています。

(3)復興へのあゆみ

深柢校の復興は困難をきわめました。同校は敷地の西側を主要幹線路の柳川筋に面していたため、戦災復興都市計画でその拡幅が決定されると校地を大きく削られるうえに、加えて戦災被害の惨状と児童数の激減から、一時は廃校案が立てられました。しかし教職員・学区民・同窓生一体の運動により、占領下では許可を得ることさえ困難だった寄付金が集められ、校地内に木造建築1棟を建ててこれを撤回させました。しかし、それまで市役所があった東隣の街区(東中山下)への移転が決まり、そこはすでに中央卸売市場が設けられ、多数の住宅もあったので、その後の校地の取得には難儀をすることとなりました。
それでも昭和20年10月25日から旭東幼稚園舎(現在は通称「八角園舎」として対岸の岡山市立中央図書館の敷地に移築)を借りて、125名の全児童そろっての授業が再開され、毎月1回の学校焼け跡の清掃作業も続けられました。まさに、深根固柢によって表される不屈の気持ちが、過酷な運命に抗う力となりました。
新しい校地へ初めて建てられた校舎は、昭和22年5月29日新築落成の木造平屋建て2棟(10教室)と別棟1つでした。移転は父兄の手伝いで行われ、旭東小学校から戸棚、机、椅子、オルガン等の備品を借りて当座をしのぎました。このとき中央卸売市場を会場に深柢校復興促進大会が開催されています。しかし焼け跡には依然、瓦礫が多く、けが人が続出したため石拾いを毎日行いました。
しかし離散していた学区民が戻り、児童数は徐々に増加しました。昭和23年6月1日に木造平屋建て1棟(5教室)が増築落成し、昭和24年7月31日には木造二階建て1棟(2教室)と職員室1棟が完成しています。
こうして昭和24年10月28日~30日の3日間にわたり木造仮校舎で深柢校復興祭が挙行され、職員・児童と父兄・同窓生により式典、文芸会、芸能大会、運動会が行われました。それまでの活動の裡には、吉川忠雄校長と、奨学会を改めて昭和22年7月6日に発足した深柢小PTAの初代会長、横山昊太氏の尽力があったといわれますが、復興祭における横山会長の下記の声明が伝えられています。(『創立八十周年 岡山市立深柢小学校沿革概要』「深柢校の再建」<昭和24年>の項から)

「・・・戦禍と敗戦のもたらす耐乏と忍苦の裡によくも実を結んだ深柢校の復興‼うるむ校長の眼、輝く職員の顔、躍る児童の胸。深柢校の復興記念祭はこうした感激をこめて催されるのであつて、決して単なるお祭り騒ぎではありません・・」

「復興祭で挨拶する吉川校長」(深柢小旧蔵・復興祭アルバムから)の画像

復興祭で挨拶する吉川校長(深柢小旧蔵・復興祭アルバムから)

昭和25年~26年7月にも二階建て木造校舎が増設されましたが、昭和26年度の在籍児童数は1034名に達し、本格的な施設の整備が待たれました。そこで昭和26年7月8日には本建築促進学区民大会を開催し、学区民1700名余りの署名を得て岡山市へ陳情書を提出しますが、その内容は本建築での校舎整備と十分な敷地の確保を求めるもので、準防火地区指定のため校舎は不燃建築でなければならず、中央卸売市場の移転も不可欠でした。
しかしその年に横山PTA会長が市長に当選。やがて昭和27年~29年の間に二期にわたり鉄筋コンクリート三階建て校舎が建設され、一応の復興を迎えた昭和28年3月30日に、創立80周年の記念式典が盛大に挙行されました。さきに引用した吉川校長の式辞に続き、以下はそのとき教育への意気込みを述べた横山市長の祝辞の一部です。

「・・・我が国の近代教育史の中に占める本校八十年の発展の歴史の重要性はまことに大きいものがあるのであります。然しながら本校は単にその歴史の長さのみを誇る学校ではありません。その歴史以上に、その独自の伝統の中に高い意義をもって異彩を放っているのであります。質実剛健、深根固柢に徹した偉大な伝統のあるところ、本校は幾多の俊英秀才を輩出し無数の社会有用の人物を送って、我が国の明治以来の発展興隆の上に不滅の功績を胎していられるのであります。歴史と伝統に輝く本校の存在こそ、実に教育岡山の名声に千鈞の重みを加えるものであり、この優れた文化の遺産を受け継いだことに岡山市民は、無限の誇りを覚えるのであります。・・・(中略)・・・我々は今こそ事物の本源にかえり、維新の先例に倣って新しい時代の転換を教育の中に求めなければなりません。深い知識と豊かな教養を貫くに堅硬、鋼鉄の如き道義の観念を以てする真の文化国民を育成する――このことこそ、我々の世代がその名誉をかけて達成しなければならぬ崇高な義務であります。又これこそ迂遠の如くしてしかも最も確実な国家再建の捷径であります。・・」(『深柢 創立八十年記念号』7頁より)

以後、中央卸売市場の移転は昭和30年代まで持ち越されましたが、屋内体育館(昭和37年)、プール(昭和38年)、鉄筋校舎(三階建)南棟(昭和43年)、鉄筋校舎(三階建)北棟(昭和46年)が相次いで落成し、最後に残った木造校舎は昭和62年に撤去されました。
しかし深柢小学校は中心市街地の児童数の減少で平成13年3月をもって廃校となり、平成17年4月開校の岡山市立岡山中央小学校(北区弓之町)へ段階的に統合されました。そして現在、戦後の校地は川崎医科大学総合医療センターとして生まれ変わっています。

昭和20年10月25日 旭東幼稚園舎を借りて全校一斉授業が再開される
昭和21年6月 深柢校の存置が決まり、復興予算が計上される
昭和21年9月12日 深柢校復興資金募集映画会大会(連合町内会主催、文化劇場)
昭和21年12月 東中山下78番の元市役所跡に仮校舎を起工
昭和22年2月 学校給食を開始(給食実行委員会を組織)
昭和22年5月29日 新築仮校舎が落成し、旭東幼稚園舎から移転する
昭和22年6月15日 深柢校復興促進大会
昭和22年7月6日 大福座で深柢小PTA設立総会を開催し、横山昊太氏を会長に選出
昭和23年6月1日 木造平屋仮校舎1棟(5教室)を増築落成
昭和24年7月31日 木造二階建仮校舎1棟(2教室)と平屋職員室棟を落成
昭和24年10月28日 深柢校復興祭を開催(~30日)
昭和26年3月15日 給食炊事場の拡張工事を起工
昭和26年7月1日 増築木造二階建て校舎(2教室)を竣工
昭和26年7月8日 本建築促進学区民大会を開催し、決議により市に対し運動を行う
昭和27年8月20日 鉄筋校舎第一期工事に着工
昭和28年3月10日 鉄筋校舎第二期工事に着工
昭和28年3月30日 鉄筋校舎第一期工事完成、創立80周年記念式を挙行
昭和29年9月20日 鉄筋校舎第二期工事(6教室)完成、校旗復元披露式を挙行
昭和37年4月24日 屋内体育館兼講堂が落成し、創立90周年記念式を挙行
昭和38年7月20日 プール竣工式
昭和42年3月 給食室落成式
昭和43年4月15日 鉄筋第三期工事(南館3階建6教室)落成
昭和46年9月 鉄筋第四期増築工事落成
昭和62年9月 北館大規模改修工事が完了し、最後の木造校舎を撤去する
平成13年3月31日 中心部4小学校の統合にむけ、廃校となる

おもな展示品

(1)戦前の深柢校の写真(深柢小旧蔵資料からデジタル複製した画像を展示)

「御真影と教育勅語の謄本を納めた奉安殿」(大正4年)
「伊勢参宮写真」(昭和8年)
「戦災前の校門と吉川忠雄校長」
「深柢防護分団」(昭和19年)(この写真は前出「(1)深柢小学校の歴史」の項目で掲出しています)

(2)「昭和九年 創立四十周年記念事業記録」(深柢尋常高等小学校、昭和9年、深柢小旧蔵資料)

昭和28年作成の『創立八十周年 岡山市立深柢小学校沿革概要』に「昭和20年6月29日の戦災により記録の大部を焼失したが幸ひ学籍簿と沿革誌の一部は難をまぬかれた。又昭和9年2月設立四十周年記念の記録が保存されていたものを参考として編集した。」との記述があり、この文書がこの、「四十周年の記録」に該当すると考えられます。この記述からはこの文書がどのような経緯で戦災を免れたかが明確でありませんが、戦前の深柢校がうかがい知られる数少ない記録のひとつです。この簿冊の中にオフセット印刷の設立四十周年記念誌(昭和9年)が1冊、綴じられています。

「「昭和九年 創立四十周年記念事業記録」(昭和9年、深柢小旧蔵資料)」の画像

「昭和九年 創立四十周年記念事業記録」(昭和9年、深柢小旧蔵資料)

(3)復興区画整理事業地域図(深柢小学校旧蔵資料)

昭和21年6月に発表された戦災復興計画で、柳川筋の拡幅が決定されました。そのときまでに深柢校の廃校案こそ撤回されましたが、この街路計画をもとに昭和23年5月までに策定された区画整理案で、深柢校は戦災まで市役所があった東隣の街区への移転が決まりました。

(4)深柢校復興祭の写真アルバム(昭和24年10月28日~30日、深柢小旧蔵資料)

この頃の写真フィルムはまだ貴重だったはずです。多数の復興祭(昭和24年)の写真と、少数の修学旅行と、1枚の本建築促進期成同盟会(昭和26年)の写真が貼りこまれています。復興祭は、水島から運んだ木造バラックの仮校舎や、戦災焼け残りの旧水道局庁舎の建物で開催されましたが、学区民など一般からの美術作品の展示会は天満屋百貨店を借りて行われました。しかしそれでも関係者の熱気と明るい笑顔が印象的です。

「深柢小旧蔵・復興祭アルバムから、学芸大会」の画像

深柢小旧蔵・復興祭アルバムから、学芸大会

「深柢小旧蔵・復興祭アルバムから、美術展」の画像

深柢小旧蔵・復興祭アルバムから、美術展

「深柢小旧蔵・復興祭アルバムから、運動会」

深柢小旧蔵・復興祭アルバムから、運動会(左奥に見える鉄筋の建物は、戦災を焼け残った旧水道局庁舎です)

(5)深柢小学校本建築促進期成同盟会の文書(昭和26年~昭和38年、深柢小旧蔵資料)

職員、地区民、同窓生等の関係者で結成された期成同盟会の文書を綴じた簿冊です。冒頭は昭和26年に進駐軍の特別な承認を得て行われた街頭行動の許可文書で始まっています。議事の記録や、市議会等へ提出されたさまざまな陳情書の控えが綴じられており、学校整備へ向けた関係者の苦労と熱意がしのばれます。

「『深柢小学校本建築促進期成同盟会の文書』(深柢小旧蔵) 表紙」の画像

『深柢小学校本建築促進期成同盟会の文書』(深柢小旧蔵)表紙

「『深柢小学校本建築促進期成同盟会の文書』(深柢小旧蔵)から、冒頭の部分。最初に綴じられているのは昭和26年の街頭活動に対して岡山市公安委員会から出された許可書で、「進駐軍用務に支障を及ぼさないこと」等がその条件として定められています」の画像

『深柢小学校本建築促進期成同盟会の文書』(深柢小旧蔵)から、冒頭の部分。最初に綴じられているのは昭和26年の街頭活動に対して岡山市公安委員会から出された許可書で、「進駐軍用務に支障を及ぼさないこと」等がその条件として定められています。

「『深柢小学校本建築促進期成同盟会の文書』(深柢小旧蔵)から、期成同盟会議の発言録の部分(向かって右のページの左側には、校地確保の必要や不燃建築等についてなされた学校長の報告が記載されており、全体がこのときの会議の白熱した様子を伝えています。深柢校は平成13年に廃校になりましたが、戦災復興のために払われた多大の労苦や、そのために多数の関係者が立場を超えて協力し、状況を改善してきた跡がつぶさに書きとどめられたこのような記録は、これからも大切に保存し、後世に伝えていかなければなりません)」の画像

『深柢小学校本建築促進期成同盟会の文書』(深柢小旧蔵)から、期成同盟会議の発言録の部分(向かって右のページの左側には、校地確保の必要や不燃建築等についてなされた学校長の報告が記載されており、全体がこのときの会議の白熱した様子を伝えています。深柢校は平成13年に廃校になりましたが、戦災復興のために払われた多大の労苦や、そのために多数の関係者が立場を超えて協力し、状況を改善してきた跡がつぶさに書きとどめられたこのような記録は、これからも大切に保存し、後世に伝えていかなければなりません)

「昭和26年7月6日の本建築促進期成同盟会学区民大会の様子(大会の熱気を今に伝える1枚きりのこの写真は、深柢小旧蔵・復興祭アルバムの末尾に貼りこまれていました)」の画像

昭和26年7月6日の本建築促進期成同盟会学区民大会の様子(大会の熱気を今に伝える1枚きりのこの写真は、深柢小旧蔵・復興祭アルバムの末尾に貼りこまれていました)

「『深柢小学校本建築促進期成同盟会の文書』(深柢小旧蔵)から、昭和30年代の中央卸売市場の移転を求める陳情書」の画像

『深柢小学校本建築促進期成同盟会の文書』(深柢小旧蔵)から、昭和30年代の中央卸売市場の移転を求める陳情書

(6)『深柢 創立八十年記念号』(昭和28年3月30日、深柢小旧蔵資料)

『深柢』は戦前から刊行されてきた深柢小学校の学校誌ですが、本建築の落成と学校創立八十周年を記念する昭和28年3月30日の式典にあわせて刊行されたこの号は、内容も厚く、特別な号となりました。
深柢校の旧職員で書家の内田鶴雲氏が題字を書き、同じく画家の塩津誠一氏が完成したばかりの新校舎を表紙原画に描いています。内容は、校章と校歌、田中耕太郎最高裁長官(卒業生)と国富友次郎元市長(元校長)の書、歴代校長(の一覧表)・校名の由来・深柢校の今日(学校の現況)、学校沿革概要(学校史年表)、80周年記念式典の式辞(吉川校長)と祝辞(岡山県知事、横山昊太岡山市長、岡山市教育委員長、西村伊勢松PTA会長)、国富元校長と旧職員4名の追想文(一人は御真影を搬出した白髭武徳元訓導の空襲当日の回想)、校友6名(日本相撲協会の出羽海秀光理事長や郷土史家の岡長平氏、秋野一太氏ほかの卒業生)の寄稿、在籍児童6名の文・4名の書・6名の絵画、および記念式典の次第が掲載されています。

(7)『創立八十周年 岡山市立深柢小学校沿革概要』(昭和28年3月30日、深柢小旧蔵資料)

1枚の大きな紙の両面に刷られたものですが、学校の歴史に関する貴重な情報がたくさん含まれています。おもて面の左半分を占める「深柢校の再建」に学校の戦災復興の歩みが詳細に記されており、裏面も明治5年からの学校史年表です。この解説のこれまでの記述は、おもにここに書かれている情報に依拠し、吉川校長の式辞など他の資料で一部訂正しました。

『創立八十周年 岡山市立深柢小学校沿革概要』(深柢小旧蔵)の表面の画像

『創立八十周年 岡山市立深柢小学校沿革概要』(深柢小旧蔵)の表面

(8)書(深柢小旧蔵資料 3点)

  • 岡田忠彦「聖賢為骨英雄為膽肝腸如雪意気如雲 昭和二十四年秋日」
  • 秋本耕斎「由来教育国家○学舎完成喜可○訓化蒸々深柢校○美続出復如○ 祝深柢小学校之舎完成 昭和己丑秋日」(昭和24年)
  • 秋野一太「奇巌悄頭松」

これらのうち昭和24年秋の年記のあるものは、復興祭のとき学校へ寄せられたものとみられ、最後の1点も校舎復興を記念した内容のものです。
岡田忠彦(1978~1958年)は岡山市出身の行政官、政治家で、埼玉・長野・熊本各県知事をつとめたのち岡山選出の衆議院議員として活躍、衆議院議長、厚生大臣をつとめました。秋本耕斎は詳細不明。秋野一太は卒業生。

(9)復興期の深柢小学校の校舎図面(深柢小旧蔵資料)

スペースの都合により、下記の中から一部分のみ展示します。

「深柢国民学校復旧工事配置図」、「深柢小学校々舎増築工事(平面、伏、軸組、詳細姿図)」(以上、岡山市復興局建築課、「深柢小学校校庭高低図」のみ製作者の記載なし)
昭和22年春に国民学校は小学校に、岡山市復興局も建設局に名前を改めたので、これらの図面はそのときまでの深柢校の状況を示しています。

「昭和二十七年度 深柢小学校校舎改築工事関係書類」(岡山市建設部建築課)および「深柢小学校 改築第一期工事」(岡山市建設部建築課、トレース紙図面合計9枚)
待望の最初の本建築校舎であった、昭和28年3月30日完成の第一期工事(北館東半分)の関係書類(設計、仕様、契約、検査報告書など)と図面です。

「岡山市立深柢小学校 第二期工事」(岡山市建設部営繕課、トレース紙図面合計16枚)
昭和29年9月20日完成の第二期工事(北館西側部分)の図面です。

「市立深柢小学校既設木造校舎解体撤去その他工事」(岡山市教育委員会施設課)
昭和62年10月に完了した木造教室解体工事の書類と図面です。これによって最後まで残っていた木造仮校舎(理科と図工の特別教室)の様子がうかがえます。

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