第12代城主 池田慶政(いけだよしまさ) 幕末動乱に対処した藩主

文政6年(1823)生〜明治26年(1893)没
城主期間 天保13年(1842)〜文久3年(1863)
父・奥平昌高(中津藩主)
正室・宇多子(池田斉敏養女)
別称 昌朝、道政、七五郎
叙位叙任 従四位下、左近少将(城主時)
神号 大名廣足慶政命
墓所 岡山県和気郡吉永町和意谷 池田家墓所

■藩政強化
豊前中津藩主・奥平昌高の子として江戸藩邸で生まれる。天保13年(1842)に岡山藩主・池田斉敏が急逝したのを受けて斉敏の娘と婚し、31万5,200石の岡山藩主となる。嘉永6年(1853)のペリー来航により時代はまさに幕末の騒乱期に入り、幕府の命により房総半島や摂津国の沿岸警備に藩士を派遣した。藩政強化のため、大砲隊・鉄砲隊の編制など軍制改革を進める一方で、塩・砂糖などの藩専売制の実施、御用金徴収など財源拡充を図った。また倹約令を施行したが、その徹底のために部落差別条項が盛り込まれたことにより、安政3年(1856)に渋染一揆が勃発することになる。

■幕末動乱の中で
国内の尊王攘夷論・開国論の対立のなかで、慶政は終始尊王翼覇の立場をとり、攘夷論には距離を置いた。藩内で尊攘論派が台頭すると、尊攘派の水戸藩主・徳川斉昭(水戸烈公)の九男・昭休を養嗣子に迎え、文久3年(1863)、隠居する。明治26年(1893)没、71歳。

池田慶政 写真
池田慶政
(岡山大学附属図書館所蔵)
池田慶政宛 書状
池田慶政宛て一条忠香書状 (岡山市教育委員会蔵)   [拡 大]

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