おかやまの埋もれた歴史再発見
No.9  県指定史跡 倉安川吉井水門
 倉安川吉井水門は、吉井川中流と旭川下流をつなぐ、総延長約20kmの運河である倉安川の吉井川側の起点に設けられた取水口であるとともに、船通しの閘門(こうもん)施設なのです。この運河は、岡山藩主池田光政が延宝7(1679)年に、津田永忠に命じて掘削に当たらせ、1年間で完成しています。その目的は、岡山藩が17世紀後半に干拓した倉田・倉富・倉益の三新田への灌漑用水の供給、和気・赤磐・上道3郡の年貢米の輸送、岡山城下へ出入りする高瀬舟の水路整備などであり、通過地にちなんで倉安川と名付けられました。

 倉安川の掘削は、井ぜき造り・水門造り・水路造りの三つの工事を必要としますが、いずれも大規模である上に、高瀬舟の運行をも図っており、他の地域での水路造りと大きく異なっていました。特に水門造りは難工事であり、水位の異なる吉井川と倉安川に船を通すためには、水門を2か所に造る必要がありました。吉井川堤防に「一の水門」を、倉安川側に「二の水門」を造り、その間は水路を広くとって、「高瀬廻(まわ)し」と呼ばれる船だまりを設けて、二つの水門によって水位の調節を行い、水位差のある二つの川の間の船の行き来を容易にする工夫が図られています。船だまりは船の待避および検問に使われ、南側の護岸の上には船番所がありました。

 この水門全体の構造を見ると、自然の岩盤を巧みに利用して、船だまり・護岸・水門などは花こう岩の切石で堅固に築かれています。完成以来約320年の間、数々の洪水に遭遇しながら、いまだ一度も決壊をせず、往時の姿そのままで現存していることは、実にその土木技術の優秀さを証明していると言えます。

 今日では河川改修によって、一の水門が堤防に埋め込まれたほかは、船だまりにも水をたたえ、水門全体としては当時の姿を良好にとどめており、実に感慨ひとしお深いものがあります。

(岡山市文化財モニター 熊岸 実)

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