おかやまの埋もれた歴史再発見
No.10県指定名勝 近水園

 かつては備前岡山といわれていましたが、今日の岡山市は近年の広域合併により、江戸時代までは隣国であった備中国の南東部まで、市域が広がっています。江戸時代の備中国南東部は、小藩や旗本の領地が入り組んでおり、足守地区には25,000石の足守藩の治所である陣屋町が栄えていました。

 足守藩は、豊臣秀吉の正室の「ねね」の兄である木下家定を藩祖にし、初期に一時の中断があったものの、木下家が明治維新まで13代にわたって、藩主でした。17世紀の後寄りに完成をみた足守陣屋町は、城構(しろがまえ)こそないものの、藩主の屋形構(やかたがまえ)を中心にして城下町と同じような町づくりになっていて、小城下町を形づくっているといえます。そして、その象徴を、屋形構の奥手に設けてある大名庭園の「近水園(おみずえん)」に、見ることができます。近水園の築庭時期は、記録からは定かでありませんが、6代藩主の木下定(きんさだ)の治世の18世紀初めと推定されています。県下では後楽園と津山の衆楽園と並ぶ大名庭園であり、近水園の築庭にあたっては、定と親交のあった岡山藩主池田綱政が、後楽園を築庭したことに影響を受けたと思われます。

 近水園は、屋形構の背後の御殿山(宮路山)を背景にした小堀遠州流の池泉回遊式の庭園で、5,500平方メールの園地の外寄りに園池を設け、池内に蓬莱島を兼ねた亀島と鶴島の2島を配置しています。池のほとりの山際には数寄屋造りの吟風閣(ぎんぷうかく)が建ち、この庭園主要建物は、木下定が宝永5(1708)年に幕府の命により、京都の仙洞御所と中宮御所の普請を行った際に、残材を持ち帰って庭園整備に活用したものです。造作は2階が舟底天井、1階が竿縁(さおぶち)天井と、凝っています。

 吟風閣からの庭園の眺めは、足守川を隔てた宇野山を背景にした眺望が開け、大名庭園のだいご味を今も堪能することができます。

(岡山市教育委員会元文化財課長 出宮徳尚)

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