おかやまの埋もれた歴史再発見
No.8  史跡 賞田廃寺跡
 古代吉備国の中でも、繁栄の中核となった地域が5か所あったといわれており、その1か所が高島・竜操学区の地域とされています。この地域は、吉備地方の古代有力豪族である吉備上道(きび かみつみち)氏の本拠地であり、北の竜の口山の南山ろく西寄りに、この氏の建立した氏寺の跡が残っています。この寺院の名前が伝わっていないため、場所の地名をとって賞田廃寺跡と呼ばれています。

 寺院跡の内容を確認するために、昭和45年に発掘調査が行われ、1町(109.1m)四方の境内、金堂・塔・西門の基壇、回廊・築地(外周土塀)の基礎地形(ぢぎょう)、瓦窯(かわらがま)などの遺構と、奈良三彩などの貴重品を含む陶磁器類、各時代の多量の瓦、基壇の石材などの遺物が発見されました。発掘調査の結果、賞田廃寺跡は7世紀前半に小堂が創建され、7世紀中ごろには本格的な造営をみ、奈良時代(8世紀)中ごろに最盛期があり、以後少しずつ衰えながら、鎌倉時代(13世紀)まで存続していたことが分かりました。

 この寺院の最盛期のたたずまいは、築地塀で囲まれた境内に、七堂伽藍(がらん)のそろった正規の平地伽藍であって、主要建物の基壇には切石の石組を用いていて、当時の奈良の都に立ち並んでいた中央寺院と同じ様相であったと考えられます。賞田廃寺跡の少し離れた南には、備前国府がありましたので、当時のこの地区は役所建物とこの寺院とで、先進地の都市景観をつくり出していたでしょう。

 地方寺院の域を超えた内容の賞田廃寺跡は、建立した上道氏の奈良時代における中央政界での立場を反映しているといえます。

 賞田廃寺跡の史跡整備は、平成13年度から取り組みますが、前回の発掘が部分的でしたので、全域の発掘を行って、寺院跡全体の内容を把握してから、内容に即した歴史的環境を整備する計画です。

(岡山市教育委員会元文化財課長 出宮 徳尚)

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