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緒方洪庵は、文化7(1810)年7月14日に備中足守(現岡山市足守)で、足守藩士佐伯惟因(さえき
これより)の三男として生まれました。洪庵の生家跡は、江戸時代の陣屋の面影を今でも残している足守の町並みの東北端、足守川と宇野山にはさまれた小高い場所にあります。 明治初年、廃藩置県の直前までこの家に住んでいた洪庵の兄の佐伯惟正(さえき これまさ)が、足守藩士を退いて移住した後は、建物は取り払われて、井戸だけ残して畑になっていました。大正14(1925)年に吉備郡医師会と地元の有志者から、洪庵の生誕地に碑を建てて功績を世に知らせようという計画が持ち上がりました。それを聞いた佐伯家の子孫の方は、計画に賛同して土地を譲り、記念碑の下に洪庵の「へその緒・産毛・元服の遺髪」を埋めさせました。記念碑の除幕式は昭和3(1928)年5月17日に、洪庵の子孫の方々、当時の京都帝国大学総長・慶応義塾総長・医師会の人たちが参列して、盛大に行われたそうです。 洪庵は、17歳のときに「武士の子は武士になれ」という父の願いに背いて、蘭方医への道を選び、足守を出ました。それだけに両親や故郷への思いは強かったようです。天保9(1838)年に大坂で医師を開業し、同時に蘭学塾「適塾」を始めたのは、洪庵が29歳のときでしたが、それ以来、診療、著述、教育活動の多忙の中を、毎年一回は足守に帰省しています。特に、藩主に招かれて足守除痘館を開き、牛痘種痘を行ったときなどは、3か月も故郷のために働いています。 洪庵は死後、江戸駒込高林寺に葬られました。遺髪は大坂天満竜海寺に葬られています。そして、産毛や元服の遺髪は、生誕の地に安らかに眠っているのです。 |
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(岡山市文化財モニター 的場 勇) | ||||
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