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今日の岡山市の基は、岡山城を城府とした岡山藩の治世に求めることができ、江戸時代の前期に藩政の確立を遂げたのが、名君との誉れの高い池田光政です。藩主池田光政の治績については、これまでに一端を紹介していますが、特異な施策の一つに宗教政策をあげることができます。その政策は、藩主の信奉する儒教による仁政を信仰の面にも及ぼしたもので、寛文の社寺整理と呼ばれている藩内の神社と寺院の整理淘汰(とうた)や、禁止された宗教への徹底した対応、ほかに例を見ない神職(しんしょく)(神社)による宗門改め(信仰調査)、荒廃した由緒ある神社の復興などでした。 神社の整理は、寛文6(1666)年に藩内の11,130社(やしろ)の由緒を調べて、氏神と産土神(うぶすながみ)の601社を除いては淫祠邪神(いんしじゃしん)として廃祀(はいし)にし、それらの祭神を代官所ごとに建立した71社の寄宮(よせみや)に、それぞれ合祀(ごうし)した施策です。光政の次代の藩主の池田綱政は、各地の寄宮が傷んできたので、正徳2(1712)年に旧上道郡大多羅村(現岡山市大多羅町)にあった句々廼馳(くぐのち)神社の境内を拡張し、新たな寄宮を造営して従来の寄宮のうちの66社を合祀の上で、それらを廃祀にしました。新たな寄宮の大多羅寄宮は、岡山藩が維持を図っていましたが、明治維新後にはそれが無くなり、荒れ果ててしまい、明治8(1875)年に山のふもとの布勢神社に合祀され、社殿が廃棄されました。 大多羅寄宮は、南北に細長い境内地が芥子山の西端の頂を占めており、今は本殿と拝殿の跡と想定される北部の上下二段の基壇(きだん)と、参道南の創建時の鳥居が残るだけです。岡山藩の特異な宗教政策の象徴ともいえるこの寄宮の跡地には、造営の経緯から見て、基壇の下か背後の地中に、淫祠邪神として廃祀を被った古代吉備国以来の在地の神々の「ご神体」が、密(ひそ)やかに眠っているかもしれません。 |
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(岡山市教育委員会元文化財課長 出宮徳向) | ||||
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