おかやまの埋もれた歴史再発見
No.3  史跡高松城跡 附水攻築堤跡 ※JR吉備線備中高松駅北北西約500m
  戦国乱世から天下人による統一へと時代の動いていた天正10(1582)年に、天下の形勢を左右した合戦が、現在の岡山市域の西部で繰り広げられました。中国の役と呼ばれるこの合戦は、全国征覇を目指す織田信長と中国地方の戦国大名の毛利氏との対決であり、毛利勢を攻めていた信長の部将の羽柴(後に豊臣)秀吉にとっては、5年越しの対戦の決戦場でした。戦の勝敗は、毛利氏のこの地域の拠点の城であって、城主清水宗治の籠城する備中高松城の攻防戦となり、攻めあぐねた秀吉は城の守りとなっている沼地を逆手にとって、折からの梅雨を利用した水攻めという、兵力よりも土木的な要素の城攻めを行っています。

  高松城跡は、これまでに本丸の南側の湿田が発掘調査されて、土壇の基礎地形と、合戦後に城主となった花房正成(岡山城主宇喜多秀家の家老)の行った改修工事の捨て石が発見されています。捨て石の中には、地元で信仰されていた石仏がいくつも石材にされていて、改修の実態を物語っています。また、三の丸南端では、素掘りの外周掘割が発掘されています。調査成果と城跡の現状から、高松城は湿地の中の高まりを活用した土造りの平城であったと考えられます。さらに、水攻築堤の東端では、築堤の基礎部分と土盛り俵の痕跡が検証されています。
  昭和60(1985)年に高松地区は大雨により冠水状態となりましたが、それはまさしく秀吉の水攻めの再現と言えます。この洪水では足守川からの流れ込みはなく、城跡周辺が洪水を招きやすい地形と地質であることを証明しました。
  清水宗治の切腹と開城をもって休戦となった中国の役の勝者は、結果として天下人への道の開けた信長の部将の羽柴秀吉と言えます。地形と天候を巧みに作戦に応用し、主君信長の出馬をお膳立てした秀吉の炯眼と如才なさ。出馬の途中で起きた本能寺の変の突発。この二つを結ぶ隠れた糸はないのでしょうか?
  中国の役が秀吉の天下取りの緒戦となったことは紛れもない史実です。 

(岡山市文化財モニター  林 信男)

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