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設計−模索の日々−

山羽はまず、商社に勤める兄に相談しようと神戸の職場を訪ねます。するとそこには、偶然にも2台の輸入車が展示してありました。その会社は自動車の輸入、販売の代理業務も行なっていたのです。そこで紹介されたイタリア人技術者・マンシンは、2台の車を前に、基本構造やエンジンのことなど説明してくれ、部品のスケッチまでしてくれました。
山羽は岡山に帰ってからも自動車に関する文献を読みあさり、勉強を重ね、明治36年(1903)9月、設計図作製にとりかかります。全長約4・55メートル、トラックのような荷台がつき、10人ほどが乗れる蒸気自動車が計画されました。

製作は、部品の一つひとつをそろえるところから始まりました。鉄の部品は工場にある足踏み旋盤で削り出していきました。鋳物は岡山の鋳物師に発注しました。しかしゴムのタイヤは国内のどこにもなく、輸入しなければなりません。が、そのルートがない。兄の会社を通しても無理。さんざん探しまわってやっと、大阪にゴム工場を見つけました。しかしその工場にもタイヤの型などはなく、山羽が型を造ることから始めなければなりませんでした。出来上がったソリッド・タイヤ(チューブがなく、車輪の外周にゴムをはめたもの)は材料費だけで一本につき150円だったそうです。
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The Lit City Museum