創築者 宇喜多直家(うきたなおいえ) 戦国岡山を制した梟雄(きょうゆう)

享禄2年(1529)生〜天正9年(1581)没
城主期間 天正元年(1573)〜天正9年(1581)
父・宇喜多興家 母・不詳
別称 八郎、三郎左衛門
叙任 和泉守(伝)
法名 涼雲院天徳星友大居士
墓所  岡山市石関町 平福院(廃寺)
岡山市磨屋町 光珍寺に位牌を安置

■生い立ち
享禄2年(1529)、備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県邑久郡邑久町)の砥石城に生まれる。家門は在地領主。6歳のとき、祖父の能家が西隣の高取山城主・島村貫阿弥に攻められ自害すると、父とともに城を脱出、備後鞆・備前福岡・同笠加を転々とする。この間に父が病没し、天文12年(1543)、旧主家である浦上宗景に出仕する。同年初陣で功を挙げ、翌年には小城塞・乙子城の城主に抜擢され、数々の戦功を挙げる。永禄2年(1559)、岳父・中山信正を謀殺して居城と領地を奪い、祖父の旧領地も奪回する。同時に仇敵・島村貫阿弥を謀殺。以後、亀山城を居城とし領地の拡張に努め、永禄4年(1561)には龍の口城を攻略。

宇喜多直家木像 写真
 宇喜多直家 写真提供:光珍寺 (木像は光珍寺が所蔵していたが、戦災で焼失)
岡山開府
永禄9年(1566)、美作・備前進攻をうかがう備中松山城主・三村家親を暗殺。翌年、2万の兵力で備前に攻め入った家親の子・元親をわずか兵5千をもって撃退(明禅寺合戦)、この完勝をもって完全に「戦国大名」となる。翌年には備前国西部の有力者・松田氏を滅ぼして主家を凌ぐ勢力となり、元亀元年(1570)、岡山平野制圧を意図し、好適地の石山の城を奪うため同城主・金光宗高
を謀殺。大改修を施して天正元年(1573)入城。これが岡山城の前身となり、「城下町・岡山」の歴史が幕を開けた。

■織田軍へ帰参
力をつけた直家はついに主家・浦上宗景と対立するが、宗景はもはや直家の敵ではなく、天正5年(1577)滅亡。その領地を収めた直家は備前国・美作国南部に播磨国西部までを領する有力戦国大名に成長を遂げた。その後、織田信長の命で中国地方進攻に乗り出した羽柴秀吉(豊臣秀吉)に対抗して毛利氏と結ぶが、のち信長に帰属。毛利勢と激しい攻防を繰り返し、その最中の天正9年(1581)、病により波乱の生涯に幕を閉じる。直家は正攻法よりも権謀術数を多用したため「戦国の梟雄
(きょうゆう)」とおそれられるが、裸一貫から中国路有数の戦国大名にのし上がったその実力は、異彩を放っている。

家系図リンク


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