初代城主 宇喜多秀家(うきたひでいえ) 秀吉の信任厚い若き備前中納言

元亀3年(1572)生〜明暦元年(1655)没
城主期間 天正19年(1591)〜慶長5年(1600)
(天正19年は岡山城着工の年)
父・宇喜多直家 母・お福
正室・豪姫(豊臣秀吉養女、前田利家娘)
別称 八郎、家氏、久福
叙位叙任 従三位、参議、中納言
法名 尊光院殿秀月久福大居士
墓所 東京都八丈町大賀郷(八丈島)

■豊臣秀吉の寵臣
宇喜多直家晩生の子で、天正9年(1581)、父の病没により9歳で家督を相続。翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られ、養子扱いの厚遇を受ける。本能寺の変ののち、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進した。天正17年(1589)には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えている。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では元帥を務め、戦後その功により中納言に昇進。さらに、徳川家康、前田利家らとともに豊臣政権の最高機関である五大老に任じられ、名実ともに政権の実力者に名を連ねた。  [→豪姫]

■岡山城と城下町の建設
この間の天正18年(1590)、自らの勢力に見合う居城の築城に着手。その城普請には秀吉の指導を受け、父・直家が居城とした石山の城(岡山城の前身)の東隣の丘陵「岡山」に本丸を構えることとした。同時に、近世的な城郭構想に基づき城下町の建設にも着手、商工業者を城下に集め、のちの岡山発展の基礎を築いた。天守閣の落成は慶長2年(1597)。この城普請は豊臣秀吉の大坂城、毛利輝元の広島城とともに大型近世城郭の先駆をなし、当時としては全国級の大型建造物となった。

■八丈島配流
秀吉没後も徳川家康らと政務の中枢にあったが、家臣団の統率に失敗し、慶長4年(1599)家中騒動が勃発、歴戦の重臣達に離反されることになる。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍の主力となって奮戦するが壊滅・敗走、薩摩の島津家へ逃れた。3年後、幕府に出頭。死罪を免れて二人の子息、近侍とともに八丈島へ配流された。島にあること約50年、明暦元年(1655)、83歳で没した。なお配所の宇喜多一族には、豪姫の実家・前田家や旧家臣・花房家から援助が続けられた。

 

宇喜多 秀家 肖像画
宇喜多秀家(岡山城蔵)

宇喜多 秀家 和歌
宇喜多秀家筆和歌(個人蔵) [拡 大]
宇喜多秀家正室 豪姫