会陽(修正会結願・宝木投下)

会陽
 中世後期に始められたと伝えられる牛玉紙投與の行事は、天正年間から元和年間にかけて古宝木とも称すべき宝木の原形が付加されるにおよんでその争奪は激しさを増すと共に会陽の原形は出来あがっていたものと思われる。その後、近世を通じて会陽とその関連行事が複雑に付加されてゆくにつれ、宝木争奪もますます盛んになって、その伝統行事を今に伝えている。会陽は、修正会結願の当夜行われるが、本堂内陣では修正会の最後の行法が進行するうち、本堂外陣では参集した幾多の裸がワッショイ、ワッショイとゆるやかなリズムを奏でながら押し合い、宝木投下の一瞬をまっている。
 会陽に関連する特殊なものについては次のとおりである。
1 触れ太鼓
西大寺の旧町内を南北二つに分けて太鼓を打って回り、時を知らせる。3人一組で、先頭は提灯を持ち、2人が太鼓を棒でにない、後棒が太鼓を打ちながら町内に刻限を触れて回る。巡回コースは、次のとおりである。
(1)北回り
仁王門−市場町−中福町−北之町−新堀町−中郵便局−幸町−バスステーション−中央町−元町−新町−本町−仁王門(いずれも町名は旧町名)
(2)南回り
仁王門−西大寺信用金庫−永安橋−電々公社−今町−渡場町−鐘紡−中野−バスステーション−中央町−元町−新町−本町−仁王門(いずれも町名は旧町名)

 触れ太鼓は、一番太鼓が南北両回りとも同時に出発して、それぞれ約40分を要して寺に帰ると2番太鼓として、互いに方向を変えて触れ回る。触れ太鼓の出発時間と太鼓を打つ数は次のとおりである。
 (1)1番太鼓 午後9時 太鼓の数1ツ
 (2)2番太鼓 午後10時 太鼓の数2ツ
 (3)3番太鼓 午後11時 太鼓の数3ツ
2 清水方(せいすいかた)
 本堂大床に集った裸群は、両手をさしあげた姿勢でぎっしりいっぱいとなってもみ合う。その数は4千とも5千とも云われ、一升ますの上に1人が立っている割だと旧くから伝えられている。大床で4千人もの裸の大集団が押し合っていると体の水分が蒸発して、裸同士の摩擦が大きくなり肌に痛みを感じるようになり、熱気でたえられなくなるので御福窓の脇窓から柄杓(水をうつのに適するように柄が少し短かくつめてある。)で水を撒く。この水撒きの役を清水方と呼び、大床にまんべんなく撒くにはそうとうの熟練がいると云われ、特定の世話役がこの役に当たっている。この水撒きがいつ頃から始められたかは不明であるが、おそらくは会陽が盛んになり、裸の数が増えるにつれ、裸からの要求によって始められたものと思われる。水撒きに使用される水は、以前は人夫がバケツで水を運んでいたが、現在は御福窓内側に水道を引き四斗樽に溜めて必要に応じて撒いている。
3 地押しと本押し
(1)地押し
 本堂西側に建立される四本柱を中心にして裸群が押し合うのを元来は地押しと称し、そのいわれは本堂大床上で押し合う本押しに対して地面の上で押しあうことにあるようである。旧例では、会陽当日の宵の内は四本柱を中心とした地押しで裸は気勢を上げ、深夜に至って本堂大床上の本押しに移っていった。この事は、早くから大床に裸が上がると一般参詣人のお参りが不可能になるので、それを防ぐためと、おそらくは宗教的に四本柱が結界を意味すると共に裸の集合する目安となったためであろう。現在は、地押しはほとんど行われていない。
 他方、明治の中頃より、旧暦の11日、12日、13日の会陽前の3夜の間、会陽のトレーニングとも称すべき模擬会陽が行われており、四本柱周辺のみで押しあったためこの模擬会陽を指して地押しとも称していた。この地押しの場合は宝木と区別するため宝筒(地押しの宝木)を毎夜2本ずつ本堂西側の濡縁より裸の群集に投下していた。宝筒の取り主は、11、12日は宝筒1本につき玄米1俵、13日には各2俵と寺から木札が贈られていた。この地押しと称された模擬会陽も昭和45年に警備上の問題等で取りやめとなっている。

(2)本押し
 本堂外陣部を大床(おおゆか)と称し、西大寺独特の呼称で、これは会陽行事からおこった呼び名と思われる。この大床上で裸群が押し合う事を本押しと称している。本押しは地押しに対する名称で、会陽の深夜近くに至って宝木投下が近づくと大床に4〜5千の裸がひしめく状態となり、会陽の本番となる。

 以上のように、会陽で裸群がもみ合う事を地押しあるいは本押しと称し、その場所の違いによって地押し、本押しとその名称を異にしている。いずれもが宝木争奪に至る過程で生じる裸群の押し合いである。
4 裸の順路
 西大寺の境内における裸の動く順路は、市中で会陽に参加すべく褌姿となった人々はまず山門から境内に入り、石門をくぐり、垢離取場にて身を清めたのち、一旦本堂に詣でて千手観音を拝して、牛玉所大権現に詣で、本堂裏手をぬけて四本柱に至る。かつては四本柱で地押しが盛に行なわれていたが現在はほとんどみられず四本柱をくぐり抜けると本堂大床をめざし、大床で本押しに入る。大床上での押し合いで身体が熱せられると垢離取場に行き清水を浴び、牛玉所・四本柱・大床へのコースをたどり再度押し合いに加わる。
5 宝木投下
 現在は、観光行事化されたため12時ジャストに宝木投下が行われる。その時間的制約に合せて修正会結願の行法を終わり、山主及び職衆は御福窓及び脇窓に立ち、まず投牛玉(枝牛玉・くしご・なげごと称され柳の細い木片を束にし小形の牛玉紙を巻き紙縒りで結んである)が投げられ、次に宝木投下の決定的瞬間となる。その時は、堂内のすべての明りが消され、浄暗の中でただ一瞬白色のものが暗をよぎるのみである。
 宝木が投下されると、その争奪戦は本堂大床上で揉み合い、後に境内へと移り、いくつかの渦と称される争奪戦がくり広げられる。いつしか、宝木は取り主の手によって境内を抜け、宝木収納所に指定されている西大寺商工会議所に納められ、宝木の争奪は終わる。
6 宝木の検分
 現在は、会陽奉賛会が事前に祝主を決定している。奉賛会事務局(西大寺商工会議所内)では白行灯を掲げ、祭壇をしつらえて白米を盛った一升桝を用意し、役員が詰めかけて宝木が持ちこまれるのを待機している。
 取主によって持ちこまれた宝木は、準備された一升桝で仮受けの後、寺に連絡される。検分役の寺僧は、宝木削りのときに切り放した元木を持って赴き、一升桝の宝木と木理を合致させて判定の基準としている。
 検分によって真偽が確定すると、祝い主が用意した祝い込みの場所まで、まわし姿の消防団員や取主のグループ等、数十人が護衛して送りこむ。
 一方、寺からは宝木を厨子に納めるための必需品を入れた文庫を世話人が持って、山主の共をして出発する。
 宝木は祭祀されるにふさわしくする為に、まず宝木に香を塗り浄め、本尊の御影を巻き、更に牛玉紙で巻き、金襴の被いにいれ朱塗りの丸形の厨子に納める。
 この後、山主の祈念があり、祝い主はかねて用意の45×120センチ程の白い額行灯に御福頂戴と大書する。
 なお、近年は宝木争奪は寺の境内に限り、会陽奉賛会を通じないものは無効としている。
宝木の検分      宝木の検分
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