長沙 前のページへ目次へ次のページへ


馬王堆漢墓墓坑

 長沙市は湖南省の省都であり、洞庭湖に南から注ぐ湘江の両岸に古くから発達した都市です。長江(揚子江)流域は、南船北馬と形容されるように古くから河川を利用した交通網が発達していたようです。ちなみに、中国を南北に分割する長江を境にして北の河川は、黄河に代表されるように「河」のつく河川が多く、南は長江に代表されるように「江」のつく河川が多いようです。今回長沙市を訪ねたのは、1998年4月下旬でした。第一の目的は馬王堆漢墓に関係した資料を湖南省博物館にて見学するためでした。

 4月25日に上海から航空便を利用して長沙に到着したのですが、いきなり国内便の遅延により予定が狂いました。しかし、日本とは異なり中国では国内便の遅延はよくあることで、余裕を持った旅程を組むようにしているので重大な影響はありませんでした。長沙到着後の第一印象は予想外に発展のテンポが減速していないというものでした。沿岸部と内陸部には大きな経済格差が存在し、かつ中国経済全体が減速していると伝えられる中でのことではありますが。発展時に跳行性があるのであれば、停滞時も同様なことは当然かも知れません。また、郊外には日本と同様な田園地帯が広がり、黄河流域の畑作地帯とはかなり異なる景観であるという印象を持ちました。考えていた以上に日本の田園地帯に近いと感じられました。


建設工事が続く長沙市中心部

 4月26日は馬王堆漢墓の墓杭と湖南省博物館で馬王堆漢墓の副葬品を見学しました。前漢長沙国の丞相侯利蒼夫人の墓が25年前に発掘された時に出土した夫人の遺体及び副葬品を見学したのです。この墓は冷戦時に防空壕の掘削作業中に偶然発見されたものらしいのですが、真偽のほどは定かではありません。未盗掘であったために、歴史研究上貴重な資料が多数発見されています。午後からは長沙市博物館を見学しました。中国は歴史が古く遺跡が多いためか、博物館も規模が大きく、数も多い。しかし、反面改装等のため休館も多いのです。

 4月27日は長沙市内の一般的な観光地である岳麓書院、湘江の中洲等を見学しました。湖南省は毛沢東の出身地であるためか、毛沢東の立像がやたらに目に付きました。どれもかなり大きな物でしたが、同一サイズではなかったように感じられました。しかし、意匠は綿密に比較したわけではありませんが同じ物に思えました。当地のガイドの話では長沙市は外国人観光客が少なく、また観光目的も長沙市の観光ではなく、張家界という風光明媚な観光地への経由地点として一泊する場合が大半であるとのことでした。

 4月28日は湖北省への移動日でしたが、長沙から宜昌への便は主要な航空路線ではないためにプロペラ機に搭乗しました。途中前述の張家界を経由したのですが、この空港ではトレッキング用の服装をした日本人を含む外国人を見かけました。空港利用者中の外国人比率はかなり高そうでした。宣昌からは次の予定地の荊州市に小型バスで移動しました。

中国歴史文化研究会 1998年4月末


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