開封 前のページへ目次へ次のページへ


繁塔の外壁を飾る仏像

 初めて洛陽市と周辺の遺跡を訪れてからは、中国古代の遺跡に魅せられ、2回目は西安市、3回目は開封(かいほう)市と古都の町を尋ねるようになりました。開封市は、洛陽市から黄河の下流に170km離れた中原地方の東部に位置し、7代の王朝が都を構えた歴史的都市ですが、今では都市部の人口が52万人の地方都市です。都としての最盛期は、「宋」の前半(960年から1127年までの北宋時代)に東京開封府(とうけいかいほうふ)と称されていた時期で、人口が100万人を超える世界最大の都市に発展しており、繁栄の様相は現存する『清明上河図(せいめいじょうかず)』に克明に描写されていて、広く知れ渡っています。


開封城跡城壁(未整備部分)

 郊外の高速道路から田園地帯を通って市街地中心部の開封城跡の内側に入ると、湖沼の多い落着いた街並みが展開します。その雰囲気は図絵の喧噪な大都市の面影がなく、日本流比喩でいえば「小京都」にあたる、こぢんまりと歴史的景観を残す地方都市の感じです。それは、この地が17世紀と19世紀の2度に及ぶ大洪水を被り、往時の街跡が地下3mに埋没しているからです。現存の開封城跡は、洪水後の1842年に清王朝が軍事拠点都市に再建したもので、往時の京城の規模には程遠く、東西4km、南北3.3kmの範囲を磚積(せんづ)みの城壁が取り囲んでいます。

 宋時代の建物は、977年に建立された天清寺興慈塔(繁塔)と、1049年に再建された開宝寺霊感塔(鉄塔)の2基が、寺院の撤去後も個別建物として遺存しているだけです。両塔の造形に残されている仏像磚(せん)や琉璃(るり)瓦の見事さに、当時の文化水準の高さが窺い知れます。開封市は、城内を風致地区にするとともに、宋時代の宮殿跡の園地整備や繁華街の復元整備、清時代後期の街並保存等々の、歴史と学術文化の都市としての環境整備を図っています。


清時代後期の街並保存

 市中の文物(骨董)商店に立ち寄ったところ、多種多様で玉石混交の歴史資料や考古資料が店頭に数多く並べてあり、その内に戦国時代の王墓からの出土としか思えない玉戉(ぎょくえつ)が、当地の標準月給の20箇月分の値段で販売されていました。文化財を商品と見るのも歴史的由緒のある都市ならではの風潮と、複雑な感じを受けました。また、珍体験は、復元されている宋の皇帝料理を食べたことで、数々の珍味のうちでも蝉(せみ)料理の歯応えが、今も感触に残っています。

 城郭に関心を持つ者として、150年程前の新しい築城の開封城跡とはいえ、城壁の何箇所かを踏査しましたが、1箇所で一見して近代戦の監視哨の跡と判る構築物に出くわしました。それが日中戦争時の遺構なのか、国共内戦時のそれなのか、繁塔内で旧日本軍兵士達の落書きを目にしていた私には、そのことを地元の人に尋ねる勇気が出ませんでした。

薫風乗游趙宋地 陽光燦燦輝琉璃
登鐵塔鈴鐸鳴爽 驚禁裏今変苑池

中国歴史文化研究会 1997年4月末


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