西安 前のページへ目次へ次のページへ


鼓楼からみた鐘楼と建設中の近代ビル

 西安は、黄河の支流である渭水(いすい)によって開けた関中(かんちゅう)平野の半ばにあって、中国北西部最大の都市として市中人口280万人を有する陜西省(せんせいしょう)の省都です。現在の市街地は、唐の都「長安」を基礎に発展したもので、その郊外には周・秦・前漢などの歴代王朝の都もありました。

 日本からは、空路で上海などを経由して西安に入るのが一般的ですが、私達が1996年に訪れた時は、洛陽から自動車で行きました。この行程は、黄河を西に遡る格好で300km余りあり、途中では、漢詩にしばしば詠まれた函谷関(かんこくかん)の関所址や戦国時代の魏と秦の国を隔てた長城の城壁遺跡を訪ねる事ができました。普段は日本人が殆ど立ち寄らない「中原(ちゅうげん)」と「関中(かんちゅう)」の狭間の遺跡に立って、当時の戦乱のありさまや旅する下級役人達の思いを偲ぶことができた喜びはひとしおです。

 


函谷関の切り通し(西安側から洛陽側を望む)

長安は、吉備真備をはじめとした奈良時代の留学生と同じく、私にとっても長年の憧れの都でした。唐の長安城の範囲は現在の西安の市街地より広く、皇帝の居所である宮城は北東部の街外れにあります。宮城の正殿である含元殿(がんげんでん)址では、これが本当に建物の土台かと疑いたくなるほど巨大で高い基壇を、発掘調査中の状態で見学できました。また、現市街地の南方には小雁塔(しょうがんとう)と大雁塔(だいがんとう)の二つの寺塔が唐代建築として残っていて、古都の雰囲気をかもしだしています。唐の陵墓は郊外にあって、二代皇帝李世民(りせいみん)の昭陵(しょうりょう)は西安中心部から75km、標高1200mで険しい九峻山の山頂に造られて、山麓にかけて夥(おびただ)しい陪葬墓が並んでいます。妃の一人である韋貴妃(いきひ)の墓は、昭陵本体と目と鼻の先の高度で、麓から2時間近くも未舗装のデコボコ道を登りつめた所です。墓室壁画の鮮やかな唐代建築や宮廷美人の姿をかいま見た時、悪路で自動車が故障し暫く立往生したいら立ちなど、吹っ飛んでしまいました。

 このほか、あまりにも著名な秦(しん)の始皇帝(しこうてい)陵と兵馬俑坑(へいばようこう)、新石器時代の半坡(はんば)遺跡、明清時代の都市を囲む城壁と鐘楼(しょうろう)・鼓楼(ころう)など、数多くの遺跡や博物館も見学できましたが、西安には5日間の滞在ではとうてい消化できない量と質の文化財がまだまだあって、再訪を誓わずにはいられませんでした。

 西安を発つ前夜、10時を過ぎて、一人で街を歩いてみました。露店で安価な食物屋街は恋人達の囁きで繁盛し、省政府の庁舎前広場ではローラースケートを楽しむ少年達の姿がありました。日本の京都に似た街=西安で見た、紛れもない現代中国の一こまです。


明清時代の城壁(広場では市民がダンスを楽しむ)

中国歴史文化研究会 1996年5月初


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