京橋ミニ知識


【京橋の由来】
 城下町の東西をつなぐ旭川の京橋は、天正以前は少し川上にあり、「大橋」と呼ばれていました。宇喜多直家の時代に大橋のたもとに町ができ、「大橋町」と称しましたが、この町には京や大坂の品を扱う店が多かったため、まもなく町名を「京町」に改め、大橋も「京橋」とされました。宇喜多秀家の時代になると、本格的な城下町建設のための大事業が進められ、旭川の川筋が岡山城本丸を囲むようにつけかえられました。また秀家は、龍の口山の南から半田山の南を抜けていた山陽道(西国街道)を、城下を通すようにつけかえました。京橋も文禄2年(1593)、中島を中継にして新しい山陽道を通すように架け替えられました。(このため元の京橋が「古京橋」となり、町名も「古京町」に改められました。)

【京橋架け替えの歴史】
 京橋の、江戸期の長さは68間(約124メートル)、幅は4間(約7.3メートル)でした。『国富家文庫』によると延宝元年(1673)から幕末までに6回かけ替えられたとのことです。弘化4年(1847)に架け替えられたときの、きらびやかな渡り初めの模様が木版画に残されており、岡山市立中央図書館が所蔵しています。このサイトでご紹介しているのがその画像です。
 近代のかけ替えの最初は明治18年(1885)です。4月に完成、23日に県令千坂高雅や岡山区長(現代の市長)手代木勝任らが渡り初め式を行いました(山陽新聞75年史)。現在の京橋は大正6年(1917)のものです。しかし、現在の照明や欄干の姿は、竣工当時とは変わっています。

明治9年に払い下げを受け移築した門
平成14年8月撮影

【江戸期の京橋】
 京橋の西端には大門があり、門の南に接して高札場がありました。門は柱の間隔が一丈三寸(約3.1メートル)あり、およそ晩の8時頃から朝の4時ごろまで閉められました。その間は脇の小門をくぐって出入りしました(国富家文書)。高札場は主に藩の触れを掲げましたが、寺の開帳の知らせなどの辻札も、藩の許可を得て立てる場所がありました(真光院文書)。江戸初期と思われる「御野郡絵図」(池田家文庫)には橋のたもとに一里塚が描かれています。なお、現在小串にある民家の門が、もと京橋の門と伝えられています。

 「評定留」(池田家文庫)の宝永4年(1707)8月19日の項に、藩の評定の席で町奉行が「京橋の上で夕涼みをする町人が多く、見苦しいので、番人を付けて追い払わせていたが、秋風も立って人が少なくなった。もう番人をやめてもよろしいでしょうか」と伺いを立てたのに対して、家老が「そうせい」といった記録があります。藩は城下町郭内の入り口ともいうべき京橋を、大藩の面目にかけてきれいにしておきたかったのです。干し物を禁止し、商売も厳しく制限しました。橋守を置いて毎日欄干を掃除させ、朝6時ころには橋の上に寝ているものを追い払ったということです。


京橋復元図 大正6年竣工当時

【交通の要衝・京橋】
 江戸期に京橋にちなんで定まった町名として、橋本町川崎町、舟着町などがありました(昭和45年(1970)の住居表示事業により、京橋町、京橋南町となる)。
 橋本町は、東から陸路で城下町の郭内に入る玄関口であり、同時に水路では海船、高瀬舟の船着き場として、交通の要でした。幕末の長岡藩士・河井継之助は、安政6年(1859)、備中松山の漢学者・山田方谷に入門するため岡山を通りましたが、京橋から四国には毎日便船があり、大坂へも一と六の日に船が出たと、旅日記「塵壷」に書き残しています。
 橋本町は明治に入っても船着町と並び交通の要衝で、同15年には海運会社汽衛社が設立され、30石の客船2隻をつくって運航していました(山陽新報)。しかし、人や物資の輸送の主役が海運から鉄道に移るにつれ、物流センター的な町の性格はしだいに薄れていきました。
 戦後も京橋の下手から、小豆島などの島や内海沿岸を結ぶ小さな船が発着していましたが、現在はまったく姿を消してしまいました。(「吉田初三郎画 岡山市街鳥瞰図(昭和7年)」には、京橋付近に集まる船が描かれています。)

【京橋の今】
 明治の遺物として、京橋西詰めに石の岡山県里程元標迷子しるべが残っています。前者は同40年に立て替えられたもので、県の道路の起点です。後者は同25年11月に立てられました。迷子しるべは岡山市制施行後の初の社会事業で、探す人、見つけた人の連絡場所でした。
 現在は都市計画によって、県庁までの川手が散策の道として整備され、風致地区、都市計画公園になっています。道は水ノ手筋という愛称で呼ばれ、市民の憩いの場です。昭和63年(1988)には、京橋西詰めの岡山東署の派出所が周辺の景観にふさわしいしゃれた建物に建て替えられました。
 そして現在の京橋名物といえば、「京橋朝市」です。毎月第1日曜日に開かれ、魚介類、野菜、果物から日用雑貨、備前焼までが並べられ、多くのファンでにぎわいます。
 

参考文献 「岡山市の地名」平成元年4月 岡山市発行
「岡山城史」昭和58年 岡山市発行


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