■寛永15年(1638)生〜正徳4年(1714)没
■城主期間:寛文12年(1672)〜正徳4年(1714)
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父・池田光政 母・勝子(本多忠刻娘)
正室・千子(丹羽光重娘) |
■別称 興輝、太郎、三左衛門
■叙位叙任 従四位下、左近少将
■法名 曹源寺殿湛然徳峰大居士
■墓所 岡山市円山 曹源寺内池田家墓所 |
■藩政改革断行
岡山藩主・池田光政の嫡男として江戸藩邸で生まれる。20歳から岡山にあり、父から執政を学ぶ。寛文12年(1672)、父の隠居に伴い岡山藩主となるが、翌年には領内が大洪水に見舞われ年貢収入が激減、さらにその翌々年の延宝3年(1675)には御所造営の課役により莫大な出費が生じ、藩は深刻な財政危機に陥った。このため綱政は藩政改革を断行、父に引き続いて津田永忠を重用するとともに服部図書ら有能な人材を登用、財政再建と農村整備に取り組んだ。沖新田・幸島新田等の開発(児島湾の大型干拓)を行い、また水利のため倉安川を、城下の洪水対策のため百間川を開削して、生産力増大と治水事業に顕著な業績を残した。
■後楽園築庭
父とは対照的に儒学を好まず、和歌・能楽・書画・蹴鞠などを好んだ文化人で、元禄13年(1700)には大名庭園・後楽園を造営。後楽園は現在、水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並んで日本三名園に数えられている。また神仏への信仰が厚く、備前吉備津宮(現在の吉備津彦神社)を再建して池田家の氏神とし、さらに元禄11年(1698)には池田家の菩提寺として曹源寺を創建した。正徳4年(1714)没、77歳であった。 |
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●綱政が築いた後楽園 |
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