■藩政改革断行 池田治政の嫡男として江戸藩邸に生まれる。寛政6年(1794)、父の隠居に伴い岡山藩主となると、父とは対照的にただちに幕府の寛政の改革に従って藩政改革に着手した。湯浅明善など開明的な藩士を登用して藩士の気質刷新・教育振興に努めた。さらに大坂(大阪)の豪商に依存していた放漫な財政体質を改めるべく、各役職に予算制度を導入して計画的運用を図った。その結果、藩財政はゆとりを生じるほどに改善され、農村経済も回復をみた。 ■芸能を好む 執政の的確さの一方で芸能にも熱心で、吉備津神社の祭礼に訪れていた上方や江戸の能楽・歌舞伎役者を後楽園に招いて上演させている。嫡子・斉輝は資質聡明であったが23歳の若さで亡くなったため、薩摩藩主・島津斉興の二男・治五郎を養嗣子に迎え、文政12年(1829)に隠居した。天保4年(1833)岡山城西の丸にて没、61歳。 |
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