池田継政の嫡男として江戸藩邸に生まれる。幼少時より聡明かつ容貌秀麗で、水戸の鶴千代(のち徳川宗翰 むねもと)、加賀の勝丸(のち前田宗辰 むねとき)、出雲の幸千代(のち松平宗衍 むねのぶ)とともに四君子と称されたという。宝暦2年(1752)、父の隠居により岡山藩主となる。祖父・綱政の代に減額された藩学校のための支出を増額して教育の振興に努めた。寡言で善行が多く、その人柄は曾祖父で名君のほまれ高い池田光政にたとえられたが、38歳で病没。12年の治世であった。水墨画をよくし、また俳諧を好み、流霞楼燕々子の俳名をもつ。 |
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