津田永忠と沖新田の干拓

津田永忠
 寛永17年(1640)生〜宝永4年(1707)没

写真(津田永忠 像 岡南大橋 東詰)津田永忠(つだ ながただ)は、池田光政、池田綱政の二代の藩主に仕えた岡山藩士です。
14歳のとき光政の側児小姓として仕えますが、光政の信任を得て、25歳で藩政の最高評議機関である評定所に列座し、以後、藩政の確立に奔走しました。
土木建築の天才として知られ、倉田新田、幸島新田、沖新田の干拓、百間川の開削、後楽園の造営、閑谷学校の建築から、藩政改革・財政再建と、めざましい業績を遺しました。
※右の写真は、岡南大橋東詰の津田永忠像。

永忠の人物像は「土木巧者津田永忠と犬島」をご覧ください >>

岡山平野の歴史

現在の岡山平野の耕地は約25,000ヘクタールですが、そのうち約20,000ヘクタールは干拓によって生み出されたと言われ、時代によって地図がどんどん書き替えられています。
岡山の歴史は干拓史の上に形成されたとも言えるのです。

沖新田の開発

沖新田 東西之図江戸時代、政治が安定すると各藩はいっそう、新田開発に力を注ぎました。
沖新田の干拓は、元禄4年(1691)9月に池田綱政が津田永忠に命じました。
堤防予定線は、波の直撃を受けないよう潮の流れに沿って決められています。
翌年すぐに鍬初(くわはじ)め、6月には潮止(しおど)めが完成。約12キロの惣廻り堤は9つの丁場に分けて、それぞれを競争させる形で進めたので、7月には完成というハイスピードな工事でした。
干拓面積は約1,918ヘクタールで、前代未聞のスケールとなりました。

「沖新田東西之図」(岡山市立中央図書館蔵) >>
※「沖新田東西之図」は、文政元年(1818)、オランダの測量技術により制作されたものです。

用水
用水は百間川を延長し、新田の中央を貫流させました。百間川から東の地域では、上流の砂川を延長したものに一の堰(せき)、二の堰を設け、そこから各用水に引きこみました。西の地域では祇園用水や倉安川から用水を引きました。
また、幸島新田と同じく、下流部に大水尾(おおみお)を設けて遊水地とし、河口に潮止め堤を造り、5つの樋門を設けました。すべての完成は元禄6年(1693)12月でした。

写真(沖田神社) 沖田神社
池田綱政の命により、元禄7年(1694)5月、沖新田全土の産土神(うぶすながみ)として沖田神社がまつられました。
初めは現在の岡山市福島の地にありましたが、同年9月には岡山市沖元宮地へ移りました(古宮様)。しかし土地が低く洪水などの被害を受けるため、宝永6年(1709)、現在の地に移っています。
現在、岡山市沖田地区をはじめ、操陽地区、三蟠地区、光政地区、津田地区、九蟠地区といった沖新田全体の氏神として信仰されています。
※トップページの津田永忠像の写真は、沖田神社境内のものです。

干拓の歴史は「岡山の干拓物語」をご覧ください >>
沖新田の干拓Q&A >>


引用 :「岡山の干拓物語」 (岡山シティミュージアム デジタルアーカイブ 旧:The Lit City Museum 平成14年8月8日)
  参考文献 :「沖新田開墾三百年記念史」 (沖新田開墾三百年奉賛会 平成7年3月31日)
:「岡山平野鳥瞰記 − 永忠と蕃山」 (中国四国農政局山陽東部土地改良建設事務所)
:「岡山県歴史人物事典」(山陽新聞社)

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