石の嫁ぎ先

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大阪築港「築港千軒」犬島にぎわう

 明治時代に入り犬島が最も活気だった時代で、30年から38年までかかって大阪港の造営が行われました。総工費は当時の金で約2千300万円ともいわれています。ほとんどの石材が犬島から搬出され、本港を内港・外港の2地区に分けて行われ、当時は犬島の丁場の一部が大阪市の所有になっており、「築港千軒」ともいわれ小さな島に、石屋の職人さん達がどっと押し寄せ、5〜6千人の人たちが住み、港周辺には遊楽街も立ち並んで活気ある島となりました。
 大阪港の防波堤にどこの石を使うかと調査したところ、豊臣秀吉が大阪城を建てた時に使用した犬島産の石が最も適当ということになり、早速大阪市は犬島の土地を買収し、直轄の採石工場を設け多くの石屋職人により切り出しを始めました。
 しかし、現在岡山化学工業株式会社がある犬ノ島から切り出す事になったとき、その頂上には犬石様という霊石があり、その下には天満宮もあってこの地は神域として島民に崇敬されており、採石には反対されておりました。やっと2年越しに天満宮は今の犬島本島に移し、犬石様も少し下った場所に移転する事で解決されました。
 運搬船も犬島丸など20余隻の船を造り、曳船やその他たくさんのいわゆる石船という船が大阪港まで約100キロメートルの海路を往復し、多くの石を運びました。不幸な事件も起こりました。明治32年12月、明石海峡で第五犬島丸が沈没し、船長以下21名が死亡するという痛ましい事故もありました。
 運んで来た多量の石を港内に捨て石として捨てはじめましたが、地盤が軟弱のために、なかなか石の頭が水面に出てこないので、本当に石を入れているのかと非難された事もありました。このような話が「大阪港史」に記述されています。
 大阪港の天保山で「大阪築港基石」明治30年10月17日起工之式の文字が刻まれている碑が確認出来ましたが、現在では舞洲・夢洲・咲洲や人口の島が次々と出来、橋が五つもかかり明治時代の石は港の礎石として立派な役目を果たしていることと思います。

犬島天満宮の絵馬

[大阪築港に際して、大阪市長から岡山県知事あての感謝状]の写しがみつかりましたので全文を載せてみます。

拝啓、時下寒冷之候ニ御座候處、愈御清穆奉敬賀候。偖て、去明治三十年、御管内犬島ニ開始致候当市築港採石事業之儀は、工事之進捗ニ伴い漸ク終了ヲ告ケ、先般之レカ設備ヲ撤廃スルニ至り候處、常ニ格別之御高庇ヲ被ムリ候為メ、多年無事ニ経営ヲ全フ致候。抑々築港工事ニ於ケル石材ハ、其資料中ノ主脳ニ御座候得は、此事業ニシテ障碍ヲ受クルコトアランカ、延て本工事ニ至大ノ影響ヲ及ホシ候所ニ有之。然ルニ、起工以来着々豫期ノ工程ヲ遂行シテ、今ヤ全計画ノ大部分ヲ成功シ、殊ニ突堤工事如キ、一々石材ニ竢ツモノニ在テハ、既ニ竣成ヲ見ルニ至リ候。是レ全ク該事業カ御懇篤ナル御保護ノ為メ、遺憾ナク進行シ得タル結果ト、深ク感佩仕候。未タ該地ニ於ケル最終ノ處分ハ結局致サス候得共、茲ニ一段落ヲ告ケ候ニ付、御報告傍謝辞申上度、如斯御座候。敬具

明治三十八年十二月廿六日
大阪市参事會
大阪市長山下重威
岡山県知事檜垣直右 殿

大阪築港基石

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