石の嫁ぎ先

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大阪城の石垣「徳川の権力を誇示」

 大阪城は元和元年(1615)、豊臣氏の興亡をかけた大坂夏の陣の戦いが行われ、天守閣等の建造物は焼失し、豊臣氏は滅びました。
 天下は徳川氏のものとなり、西国等の大名に命じて大阪城の大修築を行わせました。工事は約10年もかかったと伝えられ、大阪町民に徳川家の権威、勢力を誇示し、また西国大名の財力を消滅するねらいがありました。
 石垣はなるべく良質で大きな立派なものが喜ばれたそうで、工事を請け負った大名は自分の紋をその石に刻み込んで出したらしくその石のことを「定紋石」と呼んでいます。
 犬島にはその定紋石の残石が残っており、左巻きに三つ巴の紋が彫られています。鍋島家が犬島から切り出した表面積が10畳敷余りの巨石を岡山藩主池田忠雄の求めに応じて進呈したことがありますがその残石だろうといわれています。これは11個もの大きな石がひとかたまりになって発見されました。他にも丸に二の字を刻んだ定紋石が2個採石場の山の中から発見されています。
 岡山城の月見櫓の下に定紋石が2個使用されています。これは丸に十の字で島津藩の印です。どうしてこのような所に使用しているのかは解りませんが、犬島から運んだという証になるのではないかと考えられます。
 もうひとつ、岡山市内の西川緑道公園の中の岩組に残念石(大阪城へ寄進されるはずだったのに残念という意味)として2個の定紋石(丸にSの字を長くしたような形)が含まれています。以上4種類の定紋石が犬島で確認されています。
 大阪城内第一の巨石は、縦5.5メートル、横11.7メートルといわれ実面積は約36畳敷という、とてつもない大きな石で、それは桜門枡形にある蛸石です。
 大阪城の巨石、上位10位のうち、7つの石が岡山藩の藩主池田忠雄が担当しており、なみなみならぬ力をそそいだことが伺われます。
 現在も大阪城の石垣の修復には犬島の石が切り出されています。戦災で焼けた石垣がボロボロと角がなくなったりしているのを補修しているのです。毎年毎年切り出して運んでおり、大阪城は石垣を非常に大切にしていることが伺えます。

城内一の巨石
修復された石垣

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